タイムリミット...2

「何か、食べて行かないか?」

いつものように事を終え、ベッドに腰掛けて靴を履いていた彼に声をかけ、そんなことを言った自分に少し驚く。

彼は一日置きに店に来る。
大抵、開店時間の夜八時ちょうどに現れ、オレをショートで買う。たっぷり二時間のセックスの後は、あっさりと帰ってしまう。どこかへ。

昨日の客を思い出す。
若い女で、三回目の客だった。オレの客は一見が多く、常連はあまりいない。三回目でもめずらしい方だ。
下手なんだろ、と待機部屋で回りに揶揄もされたが、抱いている時の反応を思えばどの客もずいぶん満足しているように思える。けれど確かにオレには長期の固定客はつかなかった。

三回目の女はロングの料金を払い、一時間半のセックスを終えると、美味しい店がある、食事に行こうとオレを誘った。

「そういうの、オレは受けてないから」
「どうして?四時間分払ったんだから、四時間は私の言うことを聞いてよ」
「それはセックスのためにオレを買った時間だろう?」
「いいじゃない。どうせご飯代だって私が出すんだし。秀くんに美味しい物食べさせてあげる」
「店かホテルで過ごすならいいけど、時間内であっても君と外へ食事に行くなんて契約はしてないよ」

以前のオレだったら、時間内の食事くらい文句を言わず付き合っただろう。
しかしこの客にはそんな気分にもなれなかった。
いや、正確には、この客に対してだけじゃない。オレは…

そこまで考えたところで、女が投げつけたハンドバッグがオレの背に当たり、床に落ちた。
ハンドバッグから飛び出し、留め金が外れたポーチから、口紅やアイシャドーや、オレには用途のわからない化粧道具が飛び出した。

「ちょっと」
「何よもう!!秀は結局、お金でセックスするだけじゃない!私のことなんか何とも思ってない!」

それはそうだ。
いったいこの女は、何を期待しているのだろう?

買われた時間以外も、自分のことを考えていて欲しいとか?
食事をして、近況でも語り合って、恋人みたいに過ごしたいとか?

バカ、人でなし、大嫌い、とひとしきりわめき、挙げ句にわんわん泣き出した女のハンドバッグを拾い、ホテル代を放り込んでやる。
払う義理はないが、手切れ金代わりだ。

「もう、オレを指名しないでね」

待って!秀!という悲鳴のような声を背で聞き、オレはドアを閉めた。
食事をして、近況でも語り合って、恋人みたいに過ごしたいと、オレの方が願っている客のことを考えながら。
***
昨日の記憶を振り払い、スニーカーの靴ひもを不器用に結んでいる彼の足元に跪く。
左右で長さが違ってしまっている靴ひもを調節し、丁寧に結んだ。

「オレが奢るからさ。何か食べようよ」

なぜそんな誘いをかけているのか、わからなかった。
店には客との関係に本気になってトラブルを起こす者も時々いたが、オレは自分から客を誘ったことなど一度もなかった。

ただ、彼ともう少し一緒にいたいと思ったから。

「…買ったのは二時間だ」

あっさり答え、彼は立ち上がりコートを取る。
その小柄な後ろ姿は、初めて抱いた日より痩せたように見えた。

「お金はいいよ。飯は奢る」
「いらん」

彼がコートを手に取った。
なぜかその手まで、出会った日より小さくなったように見える。

思わず手をつかみ、強く引いた。
まったく、オレは何をしてるんだ。

入れ込んでいる、と言う言葉を思い出す。
これじゃあ本当にどっちが客だかわかりはしない。でも。

まだ、帰したくない。

驚いて振り返った彼の額にキスを落とし、そのまま唇を味わう。
くちゅくちゅと音を立てて舌を絡め、息苦しさに彼が眉をしかめたところでようやく唇を離した。

「…ね?いいだろう?」

困ったような顔をし、それでも彼は頷いた。
***

仕事。学校。家族。友人。恋人。
食事。服。旅行。音楽。本。映画。金。

過去、未来、そして今現在。

およそ他人との会話で出てきそうなキーワードを、何一つ彼はオレに与えない。 何を好み何を嫌うのか、どこで誰とどうやって過ごしているのか、オレは何も知らない。

強いて言うなら金とセックスがオレたちの関係のキーワードだろうが、食事に誘っておいて仕掛ける会話でもない。
どう見たって子供のくせに、オレとのセックスが彼にとっての初めてのセックスではないらしい、ということは最初からわかっているが。

ハンバーガーか何かのファストフードがいいだろうか。居酒屋というわけにはいかないが、ラーメン屋かなんかがいいだろうか。
それともオムライスやエビフライといった洋食でも食べさせようか。とはいえ夜の十時を過ぎたこの時間では選択肢も限られる。

通りの店を物色しながら、オレは振り返る。

「何が好き?何が食べたい?」

立ち止まり、彼はオレに視線を向ける。
身長の差は40センチ以上ある。必然的にオレを見上げることになる彼の大きな目は、傷付いた色を浮かべていた。

傷付くってなんだ。
どういうことだ。

「あ、もしかしてデートコースも食事も恋人に決めてもらいたいタイプ?ならオレが選ぶけど」

冗談ぽく、努めて明るく聞いたのに、彼の瞳は夜の暗さとは別の暗さをたたえたままだ。
コートの襟に顔を埋め、目をそらし、なんでもいい、とボソッと呟いた。

自分で聞いておいて、そんなことがこの目の色の理由ではないとわかっていた。
こっちが話しかけてもいつだってろくな返事もしないくせに、オレが彼の好きな食べ物を知っていなきゃならない理由もないだろうに。

結局、ファミレスに毛が生えたような洋食屋に入った。
黒板にチョークで書かれたメニューを指差すと、お前にまかせる、と彼は言った。
サラダとスープ、それにオムライスとハンバーグという、子供が好きそうな無難な注文をした。

料理に似合わず、洋食屋という定義にも似合わず、凝った電球の照明は変にムーディーで薄暗い。
会話のないオレたちのかわりに、まわりはひどく騒々しく楽しげだ。先に運ばれてきたスープにスプーンを添えてやり、サラダを取り分ける。

「美味しい?」

サラダはきちんと冷たく、スープは火傷するほど熱い。それ以外はさしたる特長もないが、彼は無言でスプーンを口に運ぶ。
店やホテルではなく、こうして普通の場所で見る彼は、やはり痩せたようだった。きちんと食事をしているのだろうか。親はいったい、何をしているのだろう。

「家、どの辺なの?いつも晩ご飯は食べてからうちに来るの?」

返事はない。
オレは小さく溜め息をついて、同じようにスープを飲んだ。コーンスープのねっとりとした熱い甘さが、熱いまま胃にすべり落ちる。
レタスと何種類かの葉物、ブロッコリー、きゅうり、トマト、赤いパプリカ、大きめのクルトンという凡庸なサラダ。

もくもくとサラダを食べていた彼が、ふいにオレの皿に手を伸ばした。
自分の皿から、輪切りになったパプリカだけをフォークですくい、ひょいとオレの皿に落としたのだ。

そのまま何事もなかったかのように、自分の皿の残りを片づけている。

当然のことだとでもいうように。
まるで家族か……恋人のように。

内心驚いているオレに気付かないかのように、小さな口がクルトンをカリカリと咀嚼した。
薄く形のいい唇が、ドレッシングの油に光っている。

…こっちが金を払ってもいい。
もう一度ホテルに連れ戻して、あの光る唇を舐め、熱い尻の中に自分をねじ込みたい。
彼がもう止めてくれと泣きながら懇願するまで、突き上げてやりたい。

「遅いから、帰りは送らせてくれよ」

バカみたいな欲望をなんとか押し込め、そう声をかけた。
子供を一人で歩かせていい時間じゃない。だから送って行かなければ。

それは自分でも無理のある主張だとわかっている。
夜中であろうが女であろうが客は一人で帰るのだし、この子供がいったいいくらの金を店に払ったことか。タクシーに乗れるくらいの金は充分持っているだろう。

「家を知ってどうこうしようとか、ないからさ」

オレは何を言っているのだろう。
自分の家を知られてもいい客などそうそういないし、子供は親であれ祖父母であれ、保護者と暮らしているに決まっている。
案の定、一人で帰れると素っ気なく肩をすくめ、彼はフォークをトマトに突き刺した。

さっきからオレをちらちらと見ていた、いかにも学生アルバイトの女の子が、おまたせしましたぁ、と能天気な明るさで、盛大に湯気を立てている皿をオレたちの間に置いた。

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