タイムリミット...3

「いらっしゃい」

カウンターの向こうで、オレの客はいつものようにコートのポケットに手を突っ込んで立っている。

振り向いた彼は、また痩せたように見えた。
頬の丸みが減り、そのせいで大きな目がますます大きく見える。

一人の客を取りすぎるなよ、という男の言葉を思い出す。

確かに、金で買った相手を本当の恋人だと思い込んで、面倒を起こす客はちらほらいる。どこの店だってそうだろう。
馬鹿馬鹿しい、金を払ってくれるなら誰だって一緒だ、どんな穴にでも突っ込んでやるよ。回りのやつらの揶揄をそう一蹴したが、それも嘘だと自分で知っている。

この客が特別な客になりつつあるのは、認めざるをえない。
そして、多分、彼もまた。それはオレの自惚れだろうか。

一日置きというペースを崩さなかった彼が、今週は毎日店に現れる。

この時間に夢中になっているのは、彼なのか。
それともオレなのか。

この子供のどこに魅かれるのか、自分でもさっぱりわからない。
それなのに今では他の女や男を抱く時でさえ、彼を思い出す。目の前の裸体ではなく、脳裏に浮かぶ彼の姿で勃たせている始末だ。
美しいという顔や体ではないのに。愛想もなく、受け身なセックスだというのに。

受け身のセックス。

なすがままの時間の中で、彼が拒否を示したのは体位だった。
男同士の場合は後ろから入れるのが挿入される側にとって一番楽な方法だ。けれど彼は、はっきりとそれを拒絶した。
後ろからではなく向かい合ってしたいと、オレを真っ直ぐ見て、小さな声で言った。

今、カウンターの向こうからオレを見る視線と同じく、真っ直ぐに。

オレがいつも通りの質問をする前に、彼は無言で札を落とした。
そのままするりとドアを出る彼を、オレは慌てて追いかける。

小柄なくせに、足は速い。
何度か使ったホテルの前まで彼は足早に歩き、さっさと入ってしまう。

「今日はずいぶんせっかちだね」

笑いながら部屋に入り、珍しくベッドに既に腰掛けている彼の隣に座り、コートを脱いだ肩を抱いた。
そこでようやく、彼の体がひどく冷たいことに気付く。

「あれ?ちょっと」

店の受付は電気のキャンドルという醜悪な赤っぽい明かりだ。だから気付かなかった。
痩せて見えると思ったのは気のせいではない。今夜の彼は青い顔をし、色味の失せた唇が乾いている。

「具合悪い?真っ青だよ」
「うるさい」
「今日は帰った方が…」
「オレに指図をするな!」

黒い目を眇め、彼が怒鳴った。
普段の彼から想像もつかない、激しい怒りにオレは困惑する。

「…今日の分、他の日に回してあげるから」

そんなことは店のルールで禁止されている。
客が途中で体調を悪くしようがどうしようが、知ったことではない。
貰った金を返すなどあり得ないし、他の日に振り替えるのもあり得ない。

青い顔。大きな目。出会った時より一回り小さくなったように見える、痩せた体。
具合が悪いというのに、オレに会いに来たのだろうか。

「今日はやめておこう。いつでも会えるよ。…お金はもう、いらないから」

客と金抜きで会うなど許されない。こんなことを言ったと店に知れたら大ごとだろう。
オレなりの告白だったその言葉は、次の瞬間、砕かれた。

「黙れ淫売!金で体を売るクズ野郎が!!」

子供の作る表情とは思えない、侮蔑の笑み。
でも、そこには、侮蔑と、それだけじゃなく…

それだけじゃなく…
悲しみ?失望?焦燥?

そこから先は考えられなかった。
自分の怒りが、先だった。

考える間もなく、彼をベッドに押し倒した。
服が破けるのも構わず、千切るように脱がせると、両膝の裏に手を入れ、大きく開かせた。

怒声と、抵抗。

彼の手足はオレを殴り蹴飛ばしたが、しょせんは子供の力だ。覆いかぶさるように抑え込み、下ろしたジーンズから飛び出した自分の先端にだけ僅かなローションを垂らすと、文字通りぶち込んだ。

ぐちゅっと音がし、一瞬お互いに息が止まる。

大きく反る背中。部屋に響き渡る悲鳴。
ここがラブホテルじゃなければ、隣の客から通報されかねないような悲鳴だった。

「うあ!っあ!っあ!ああああ…っ…ああーーーーっ!」
「ほら…した、かったんだろ…オレと…」

肌は冷たかったが、中は相変わらず熱い。
オレは狂ったように腰を振り、小さな体を激しく突き上げた。

「っあ!っあ!っあ!く、ひあ!ぐう…っ」

名前を、呼びたい。
名前を呼んで、肋骨が折れるくらい抱きしめて、突いて、突いて、中にたっぷり出してやりたい。

「名前…っ…教え…ろよ…」

コンドームを着け忘れたことに気付いたが、もうどうでもいい。
この腹の中に、種を撒き散らしてやる。

「うあ、あ、あ、あ…!なら……き、さま…の名、を…うあああ!」
「秀。前にも…言っ…」

痛みに潤んだ目が見開かれ、オレを射る。

「それは貴様の名じゃない!」

瞬間、オレは動きを止めた。
熱い肉の筒。青ざめた顔と、怒りと痛みに輝く目。

いったいこの子供は、何を知っているのだろう。
何を…オレを…?…知っている?

オレもまた、知っている…?
何を?何が?

「お前……何を知って…」
「秀?笑わ、せ…るな。それが…う、あっ……貴様の名?」

再び怒りが視界を覆った。

関節が外れるような強さで彼の両足を広げ、オレは自分を沈め、彼を切り裂いた。
***
大きなベッドの真ん中。
彼は胎児のように丸くなり、震えていた。

オレもまた、震えていた。

「ごめん……」

今さら何を、と自分でも思う。
丸くなった体の下、白いシーツの広範囲が血に染まっている。

肉の薄い尻は真っ赤に染まり、太ももまで幾筋もの赤い線が伝い落ち、ふくらはぎのあたりまで汚している。

「…病院」

立ち上がり、震える手でコートのポケットから店の借り物の携帯を取り出す。
この時間に普通の病院はやっていない。救急診療を行っている病院を探そうと焦るオレの手元に、テレビのリモコンが勢いよく飛んできて携帯を叩き落とした。

「おい…!」
「出て行け。貴様の顔なんぞ見たくもない!」
「だめだ!病院へ行かないと」

ふと、オレは気付く。
オレが免許証も保険証も、およそ身分を証明する物を何も持っていないように、この子供も持っていないのではないかと。
もちろん連れて行けば取りあえず治療は受けられるだろう。しかし病院だの親だのに、そして店にもどう説明をするつもりなんだ、オレは。

考えながらも、ぐたりとした体を抱き上げ、服を着せる。
保身を考えてこんな仕事をしているというのに、今はそれさえどうでもいい。

「触るな。離せ…」
「病院へ行く。タクシー拾ってくるからちょっと待ってて」

服を着せ、オレのコートでくるんだ彼をベッドに寝かせ、ドアへと振り返ったオレのシャツを、小さな手が強く引いた。

「…病院は嫌だ」
「頼むよ。駄々をこねないでくれ!そのままにしておいたら大変なことになる。もしかしたら死ぬことになるかもしれないんだぞ!?」

裂けた内臓からの出血は酷かった。もちろん、彼の側にもいろいろ事情はあるだろう。
親の金をくすねて来ているのだろうし、くすねた上に使った先が男とのセックスだ。それでも選択の余地はない。

「君はオレに強姦されたって言えばいい。悪いのはオレだって説明す…」
「帰る。家に」

意外な返答に、オレは立ち止まった。
***
40キロに満たないくらい、と見積もっていた彼の体重はもう少し軽いのかもしれない。
足を広げることができない今、背負えなかった彼を幼子のように胸元に抱き上げたまま、そんなことを考える。
ホテルで抱き上げた時は抵抗した彼だったが、今は大人しくオレに体を預けて、ぐったりしている。

古ぼけたビルのエレベーターは苛々するほど遅く、濁った緑色のライトが回数を瞬かせている。

四階の、一番端。それが彼の呟いた場所で、それっきり彼は目を閉じている。
ようやく着いた四階で、オレは腕にかけていた彼のコートのポケットに手を突っ込み、鍵を探す。

指先が、硬く奇妙な物に触れた。

取り出したそれは大きな折りたたみナイフで、やけに重いと思っていたコートの重みの半分は、このナイフだ。

いったい、これは何のために?

胸元で小さく呻いた彼の声に、オレは我に返り、こんな物は今はどうでもいいと、慌てて探した鍵を差し込んだ。

鍵を開ける前から、オレにはわかっていた。
家族が飛び出してきて、困惑の叫びをあげることも、オレをなじることもない。
ここには彼の家族などいない。ここはどう見ても、家族で住むようなアパートではない。

家族も恋人も友人もいない、そういう人間が住む場所だ。ここは。
つまり、オレの今の住み家ともよく似ている。

一足の靴もない玄関に、ホテルに彼の靴を忘れてきたことに気付く。
自分の靴を脱ぐのももどかしく、オレは部屋に入り、彼をベッドの上にそっと降ろす。コートでくるんだままの体に、床に落ちていた毛布をかける。
備え付けらしいエアコンのすぐ下に、壁にかけられたリモコンがある。一番高い温度にして暖房をつけ、部屋を見渡した。

何もない。本当に何もない部屋だ。

シーツもかかっていない剥き出しのマットレスのベッドと二枚の毛布、小さな段ボール箱に放り込まれた数枚の衣類。カーテンは元々この部屋に付いていたのだろう、と思わせる色褪せた物だ。
椅子もテーブルもテレビもない。ワンルームの片隅の台所にも、鍋や食器も見当たらない。コンビニの袋だの、カップラーメンの空き容器だの、そういった物も一切ない。

いや、何もない、というのは語弊がある。

部屋を一層奇妙なものにしているのは、壁にもたせ掛けて置かれた大きな時計と、床に投げ出してあるカレンダーだ。
金属の縁は丸く大きく、分厚いガラスで覆われた、古い映画の学校のシーンに出てくるようなその時計。
終わった月のカレンダーは切り離され、全ての数字が黒いマジックペンのバツで消され、無造作に床に落ちている。

まるで、釈放の日を待つ囚人のようだ。
あるいは、来るべき日に備える預言者か。

彼が、また呻いた。

ハッとし、カレンダーから視線を離す。
もう一度部屋を見回したが、こんな部屋に救急箱などあるはずもない。
おまけに、観葉植物のひとつもない。

「…観葉植物?」

オレはいったい、何を考えているのだろう。
今ここに植物があったところで何になる?

オレは混乱しているらしい。
頭を振り、せめて傷口を洗い流そうと風呂場へ行く。
シャンプーどころか石鹸もない風呂場に溜め息が出たが、小さいとはいえバスタブはあった。栓をし、ぬるめの湯を出したまま、部屋へ戻る。

眠ってしまったように見える彼の頬にそっと触れ、呼びかけようとし、名前を知らないことをまた思い出す。

なぜ、頑なに名を教えない?
なぜ、オレの名も呼ばない?

それは貴様の名じゃない。

そうだ。その通りだ。秀というのはオレの本当の名ではない。
店は漢字一文字を源氏名にするルールだ。優、晶、涼、凪…いくつか見せられた候補の中で、なんとなく選んだのが秀という名だっただけのことだ。

いったい彼は、何を知っている?

部屋に似合わぬ大きな時計は、秒針が刻む音も耳障りに大きい。
コチコチと規則正しいその音は、人を追いつめる爆弾のタイムリミットのようにも聞こえる。よくこんな時計を置いて暮らせるものだ。

もう一度風呂場に戻り、バスタブに半分ほどぬるい湯が溜まったのを確認し、部屋へ戻る。

「おい…!」

いつの間に起きたのか、コートをずるりと引きずったまま、床に座り込んでいる彼の姿にぎょっとした。

大きな時計。バツ印で埋められたカレンダー。
二、三ヶ月前のページは数字の枠からはみ出ないように几帳面に書かれていたバツが、日を追うごとに乱れている。
昨日、一昨日の日付は、手に不具合があるか、心に不具合のある者が書いたとした思えない、大きくはみ出して乱れた線だ。

「せめて傷口を洗って…」
「もういい」

小さな、ともすれば秒針の音にかき消されそうな小さな声。

「もういいって、どういう」
「もういい。もう、終わりだ」

ふと、大きな時計が十二時近くを指していることに気付く。
正確には十一時五十六分だ。

彼は両手をのばし、立てかけてあった時計を引き寄せる。
時計を抱きしめるように胸に抱え、彼は。

時を止めるかのように、頭を叩き付けた。

「やめろ!!!」

厚みのあるガラスが砕け、あたりに飛び散った。
彼の額と頬が大きく切れ、血が噴き出す。

もう一度頭を叩き付けようとする彼から、力尽くで時計を奪い、できるだけ遠くへ放る。
時計は驚くほど大きな音を立て、いくつかの部品を散らばせて床に落ちた。

「何を馬鹿なこ」
「嘘つき!!!!」

喉が裂けるような彼の大声が、耳をつんざく。

「待っていろとお前は言った!オレの元へ戻ると言った!!なのに!!!」

怒りと悲しみに歪められた彼の顔。
額から流れ落ちた血が、瞼を覆い、眼球を染め、涙のように頬を流れる。

彼の血を味わっても止まらなかったらしい秒針が、まだ時を刻んでいる。

大きな目。
大きな目を赤く染める、あたたかな血液。

まるでそれは。
それは…

…真っ赤な瞳のように、見えて。

「………飛影」

その名は、突然降ってきた。
鮮血のような鮮やかさで、オレの中に降り注いだ。

漆黒の瞳が輝き、瞬き、瞬時に燃え上がるような赤に色を変える。

いまいましい舌打ちをするかのように、チッと音を立て、秒針が止まった。
もうあと数秒で、日を変えることができたのにと、無念そうな音だった。

「…間に…合った………くら…ま…」

沈黙の落ちた部屋で、抜け殻のように放心している彼が、ずるずると座り込んだ。

「飛影…どうして…」
「くら、ま…蔵馬!蔵馬!蔵馬!」

今までの分を取り返すかのように、彼がオレの名を呼ぶ。
座り込んだ彼を抱きしめ、顔を汚す血を拭った。

何もかもが、蘇る。

「オレは……」

そうだ。
あれは…あの日…。
***
母が死に、人間界にいる理由はなくなった。
もちろん悲しみはあったが、彼女は充分な長さの命を全うした。傍から見ても、いい人生だったと思う。

後は自分のいた痕跡を消すだけだった。
オレが魔界へ戻るのをずっと待ち続け、五十年以上も人間界との行き来をしてくれていた飛影。
彼の元へ、ようやく帰ることができるのだと、嬉しくもあった。

親族、同僚、知り合い、多くもない友人、近所の人間。
全ての人間に種を蒔いた。後は仕掛けた術を発動させるだけ。そのはずだった。

何が起きた?

「一年前のあの日、お前は最後の最後にヘマをしやがった」

元通りベッドに寝かせた飛影が、いまいましそうに言った。
オレはコートを丸め、枕代わりにあてがうと、彼の体に毛布をかけた。

「念入りに術を仕掛けた。念入りすぎたんだ、馬鹿め」

飛影は続けた。

「お前はいつでも、肝心なところで間が抜けている。霊界のハンターに追いつめられた時のようにな」

お前が念入りにかけた術は強すぎた。たかが人間の記憶を消すのにあそこまで強い術をかける必要はなかった。
術は…なんと言えばいい?つまり、暴発した。関係のない人間も巻き込んで、挙げ句の果てにお前自身も…

「記憶を失った。とんだ間抜けだぜ」
「………ああ。あの日」

そうだ。
切れ切れの記憶。

蒔いた子供たちを芽吹かせるための親である種が、オレの手のひらで光っていた。
二度と人間界には戻らない。飛影とともに、魔界で暮らすのだ。

決意が妖気を、術を、必要以上に強大にした。

多分オレは、浮かれていたのだ。
長いこと待たせていた彼と一緒に暮らす日々が、ようやく始まることに。

記憶の最後は、驚きに見開かれた大きな赤い瞳だ。
こちらに差し伸べられた手。何かが砕ける大きな音、辺りを埋め尽くす閃光。

「霊界は、お前を許すわけにはいかなかった」

当たり前だ。お前はなんの関わりもない人間まで巻き込んだ。数千人が記憶を断片的に失った。
その後始末に霊界は半年以上も大わらわだった。お前を助けるような余力はなかったし、何より霊界は激怒していた。

「…コエンマか?」
「そうだ。オレはやつに頼んだ」

コエンマの指揮の下で、霊界はオレのような記憶を操作する能力を持つ者を総動員して処理に当たった。
お前が起こした事故だ。オレももちろん協力しないわけにはいかなかった。

「ようやく片付いたのが、百日ほど前だった」

オレはお前を探すために人間界に残らせてくれとコエンマに頼んだ。
必ず見つけて、記憶を取り戻させると。
この厄介をかけた分、必ず二人で借りは返すと。だが。

「お前への連絡係として、霊界はオレに人間界への出入りを許していた」

お前があんな事件を起こした後、オレが人間界にいることを霊界が許すはずがなかった。
だがコエンマは、オレたちのためになんとか抜け道を探してくれた。

「……百日が、条件だった」

霊界の貴重な宝具を使って、コエンマはオレを人間にしてくれた。
だがオレ一人で百日の間にお前を見つけ、記憶を戻すことができなければ。

「…二度と人間界に出入りはさせられないと、やつは言った」

オレはうなだれ、首筋を揉んだ。
コエンマの選択は当然だ。いや、温情ある処置と言ってもいい。

「時間は百日。それがコエンマの条件だった。だが他のやつらはもう一つ条件を加えた」

オレは目を閉じた。
霊界の審議者たちの考えが、手に取るようにわかった。

「名乗らないことだ」

なんという、意地の悪い条件だろう。

「妖気を辿ればお前を見つけるのは簡単なことだ。だがオレはお前に名乗れない。お前の名を呼ぶこともできない。それでもお前がオレを思い出せたら。オレの名を呼んだら」

霊界はこの件を許すと言った。
なのにお前は、オレを。

「……思い出さなかった」

その言葉に込められた苦しみと悲しみが、突き刺さるようだった。

きっと彼は会った瞬間にオレが思い出すと思っていたのだろう。なのにオレは言葉を交わしても、それどころか体を繋げても彼を思い出せなかった。
強すぎた術は、術者であったオレにも強く効き続けた。

百日という限られた時間の中で、飛影はどれほど焦り、苦しんだのか。

「人間の体では…お前と交わるのは難しい。妖気が体に残るんだ。次の日は苦しくて動けなくて、一日置きが精一杯だった」

そうだ。オレはいつも初回、せいぜい二三回だけ人気があり、常連になる客はほとんどいなかった。
避妊具を着けようが着けまいが妖気は人間たちの体にダメージを与えたし、それは人間の体となった飛影にも同じことだった。

「…嘘つき狐」

シャツを裂いて作った即席の包帯で、彼の額や頬を手当てした。
血を滲ませる布きれと、オレを睨む、オレが愛した赤い瞳。

「ごめん…本当に」
「許さん」
「もし…オレが思い出せないまま、終わっていたら」

赤い瞳が、ぎらりと光を帯びる。
粘度を持つその光は、オレが想像した通りの答えを教えてくれる。

刃渡りの大きな、あのナイフ。
彼はいつでも、コートのポケットにあれを入れていた。

彼はオレを。
そして、彼もまた。

オレと一緒の運命を選択するつもりで。

体の芯に、震えが走る。
それは恐れではなく、歓喜の震えだ。

「…飛影」
「なんだ」
「オレを許してくれる?」
「許さん」
「……許してくれるまで……そばにいてもいい?」
「………ああ」
「…まだ、愛していてもいい?」

彼はベッドから身を乗り出し、手を差し伸べた。

「…いい」

オレはベッドに飛び乗り、彼を抱きしめ、キスをした。
髪を梳き、傷口に触れないように頬を包み、何度も、何度も。

ベッドの下に転がっていた携帯がコエンマの小言で音を立てるまで、オレたちは唇を重ねていた。
***
「まったく。霊界とも人間界とも縁が切れると思っていたのに、このザマだ」

ビルの屋上。
手すりを超えた縁に立ち、飛影はしかめっ面をする。

飛影の体が癒えた途端、コエンマに呼び出され、さんざん怒られ、さっそく“借りを返す”仕事を山ほど依頼された。
そんなわけでオレたちはこうしてまた、二人で人間界にいる。

「ごめんってば。今回はオレ一人でも片づけられるよ。魔界で待ってる?」
「お前のような間抜けを、一人にできるか」

吐き捨てるように、飛影は言う。

あの日からずっと、文字通り飛影はオレのそばを離れない。
魔界にいても、人間界にいても、霊界に指令を受け取りに行くにも、飛影は一緒だった。

すっかり王の風格を身に付けた幽助に会う時も、年老いた桑原と暮らす妹を、こっそり覗く時も。

「じゃ、手早く片づけますか」
「ああ」
「飛影」

宙に片足を出した飛影が、こちらを振り向く。

「飛影。…オレを探してくれて、ありがとう」

短い髪、白い肌、生意気そうな大きな瞳、意志の強い、小さな唇。
何よりも、炎のような、その魂。

「ありがとう。オレを見つけてくれて」
「何を…」
「愛してる」

瞬間、頬を赤くし、よろめいた彼を抱き留める。

「おい…蔵馬!」
「オレはドジで間抜けな狐だから」

だから、飛影。

「側にいて。ずっと。…離さないで、オレを」

返事の変わりに、彼はオレの背に強く腕を回す。
地上百メートルでキスを交わし、二人で地上へ飛び立った。


...End.

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