銀世界...9

岩が白く凍りついた洞窟のような、不思議な場所。
氷女しか通れない結界を、自分も通れるのは意外だった。

俺を迎えに来た氷女は五人で、整然と一列に並び、結界を通る。
以前のように呪符を巻かれ、さらに縄で縛り上げられた両腕を、ぐいっと引かれた。
そんなことをしなくとも、雪菜が人質である以上、俺は逃げ出したりはしないというのに。

気が遠くなるような感覚とともに、凍りついた大地に足がつくのを感じた。
草履も足袋も、あっという間に凍りつく。

凍てついた石城の中。いつも通りの場所。いつも通りの寒さ。
見慣れた牢の前では、待ちかまえていたいくつもの冷たく蒼い瞳が、俺を見つめている。
なぜかどいつもこいつも、俺の顔ではなく、首筋あたりを凝視している。

「雪菜はどこだ」

牢獄の前、出迎えた氷女たちの先頭にいた老婆に問う。
この国の長老と呼ばれる者たちの中でも最年長であるらしい婆が、無言で俺を睨め付けた。頭のてっぺんから、草履を履いたつま先まで。

「…ここよ。兄さん」

居並ぶ氷女たちから少し離れ、一番後ろに雪菜はいた。
大勢の氷女たちの中でも、一際蒼い目。

「…雪菜」

無事で、良かった。
安堵とともにかけた声だったが、雪菜はふいと、目をそらす。俺がいくら見つめても、雪菜は俺と目を合わせない。
俺と雪菜に代わる代わる、無言のまま注がれる氷女たちの視線。

がらがらと、大きな音を立てて檻が開けられる。
自ら牢に入り、霜に覆われた檻が音を立てて閉ざされるのを見ていた。
自分で戻ってきたくせに、これから永遠に続くのだろう年月を思うと、それはもはや嘆きを通り越して、恐怖そのものだった。

俺が寝台に座るのを見届け、長老たちが周りの氷女に頷く。
それを合図に、檻の前に何十人と集まっていた氷女たちも、雪菜も、牢獄を出て行く。
残されたのは、番をする一人だけだ。

全身に、冷気が染み込んでいく。
しっとりとした生地の着物に、霜が降りる。

寒い。
どうして、こんなに寒いのだろう。

以前と同じように、この牢獄の中ですることは何もなかった。雪菜と話をしたかったが、それは百日後まで叶わないのだろう。寝台に横になり、せめてもの暖を取ろうと粗末な寝具の中にもぐる。

薄い布団の中で、俺は袂を探った。

手のひらにのるほどの、蓋のついた小さな鏡。
もう一つは、薄い硝子で出来た砂時計。これも小さな物で、両の手のひらで包める大きさだ。

ー餞別に、やるよ。
ーせっかく綺麗な目なんだ。時々鏡で見ればいいさ。


そう言った蔵馬が、氷女に俺を引き渡す前に、袂に入れた物だ。
着ている着物でさえ、戻れば脱がされ取り上げられるかもしれない。こんな物を持って帰るわけにはいかないと言った俺に、俺を馬鹿だと思っているのかと、蔵馬は苦笑した。

「氷の妖怪には見えないよう術をかけてある。お前が余程のへまをしなけりゃ取り上げられる心配はないさ」

そう言われては、受け取らない理由もない。

「これは、なんだ?」

鏡はもう知っている。
もう一つの、中に金色の砂が流れる硝子細工のことを尋ねた。

「時計だ。砂時計」
「砂…?時計?」
「砂時計とは本来は刻を計るための道具だ。だがこれはちょっと違う。これは…」

これは、お前の知りたい刻を知らせてくれる時計さ。

「知りたい、刻…?」
「そうだ。魔界でも貴重なお宝なんだからな。無くすなよ。肌身離さず持ってろ」
「知りたい刻とは…どういう意味だ」
「自分で考えろ。どうせ牢では暇を持て余してるだろうが」

最後まで、嫌なやつだ。
そう思ったが、両方とも受け取った。

真ん中のくびれた硝子細工。上から下へ、さらさらと金色の砂が落ちる。ひっくり返しても、同じことだ。
おかしなことに、落ちた砂は底に触れる寸前、さあっと消える。そして上から落ちる砂は、尽きることがない。ずいぶんと不思議なものだ。

銀でできた小さな鏡は、細かな彫刻がびっしりと施され、途方もなく綺麗だった。
蔵馬の屋敷にならしっくり馴染むであろうそれは、この牢獄では居心地が悪そうに見える。

布団をかぶったまま壁の方を向く。音をさせぬよう、そっと蓋を開ける。
鏡の中からは、大きな赤い瞳がこちらを見つめていた。

霜の降りるこの牢獄には、いや、氷河の国そのものに、色のあるものはほとんどない。この世界では俺の赤い目は毒々しいほど強い色に見える。
ふと、鏡に映った首筋に、痣が何箇所かあるのに気付く。鏡をずらし確かめると、それは紫色の鬱血だった。

「……?」

鏡に見入り、昨夜、蔵馬が吸い付いた跡だということにようやく気付く。
通りで、氷女たちが首筋をじっと見ていたわけだ。

ーせっかく綺麗な目なんだ。時々鏡で見ればいいさ。

声には出さずに、くらま、と呟き、長く長く息を吐き、鏡をそっと閉じる。

ここで何日、何百日、何年か経てば、俺はきっとあの声を思い出せなくなる。
あの顔もあの髪も、あの金色の瞳も、思い出せなくなるのだろう。
狐のような召使いが、湯にのぼせた俺をふかふかの手で引っぱってくれたことを思い出し、胸が軋んだ。

もう何も、考えたくない。
何かを考えれば考えるほど、このひと月の記憶が、遠くへ押し流されてしまう気がする。

鏡と砂時計を袂に戻し、着物の上から握りしめ、目を閉じた。
***
内容は思い出せないというのに、嫌な夢だったことだけははっきりとわかる、そんな夢を見ながら、寒さに凍え、うとうとと夜を過ごした。
薄目を開けて見上げた天井は灰色で、雪がちらちらと舞い込んでいる。

陽も差さず、木々の香りもしない。
…氷河の、国だ。

番の女が変わっている所を見ると、昼近いのだろう。浅い眠りのわりには寝過ごした。

眠っていても、布ごしに握りしめていた鏡と砂時計が、手のひらにあとをつけていた。
金色の砂は、途切れることなくさらさら流れている。これがいったい、何を教えてくれると言うのだろう。

見張りの氷女に不審に思われないよう、壁を向いたまま、砂時計を見つめた。
俺が時計というものを見たことがなかったというだけで、氷女たちもなんらかの方法で刻を知ってはいるのだろう。季節のないこの国でも、種まきや刈り入れ、いくつかの祭礼の時期などはあると雪菜は言っていた。
だが、そもそも今が何日何刻なのか知ることは、牢獄にいる俺には意味がない。

蔵馬は、なぜ俺にこれをくれたのだろうか。

知りたい刻とは、どういう意味なのだろう。
知りたい、刻…?

番をしている氷女は、相変わらず檻に背を向けている。
頭から布団をかぶり、小さく囁いてみた。

「…この国が…次に種をまくのは、いつだ」

硝子の中の金色の砂が舞い上がり、集まり、玉になる。
驚きに跳ね上がる胸を押さえ、数を数えた。浮かんだ玉は、正確に数えたわけではないが五十個ほどだろうか。

「五十夜ほど、先ということか?」

無論、砂が返事をするわけもない。何事もなかったかのように玉は崩れ、元通りに上から下へと流れ始める。

「…俺は……いつここから出れる?」

無駄なことだとわかっていても、聞かずにはいられなかった。
砂は、ただ流れて続けていた。

「そうだな…聞くだけ無駄か…」

苦いものが込み上げる。
示す刻などないのだろう。

わからない。
これをなぜ、蔵馬が俺にくれたのか、さっぱりわからない。
あの人を食ったような狐のことだ、意味などないのかもしれない。

袂に砂時計も鏡もしまい、溜め息をつき、起き上がる。
起きたとて、何もすることのない一日の始まり。
四角く切り取られた空は、今日も鈍色だ。

あの、たっぷりの陽射し。
緑あふれる森。
二度と見ることはできないのだ。

この、天空をさ迷う氷河の国で、一生。

…さ迷う?
そうだ…氷河の国は常に移動している。いつか、蔵馬の頭上を通る日もあるのだろうか。

再び布団にもぐり込む。

「…氷河が…白緑の森の上を通るのは…何夜後だ?」

硝子の中の金色の砂が
舞い上がり、
集まり、

…たった一つの、玉になった。

「………な」

核が、止まるかと思った。
浮かんだ玉は、たったの一つ。
魔界の地理など何も知らぬ俺だったが、途方もなく広い広い世界であろうことは予想がつく。

今晩、氷河の国は白緑の森の上を通る。
結界を通った時点で、距離というものは関係なくなるとはわかっていた。氷河の国が今いる場所が、白緑の森からどれほど遠いのか近いのかは、まったくわからなくなった。けれどまさか。そんな。

これは、偶然なのか?
それとも…?
あの狐に限って、偶然などあるだろうか?

…だからなんだ。できることなど何もない。ここを逃げ出すことなど不可能だし、可能だったとしても雪菜をおいて逃げ出すことなどできない。
だが、この凍った大地の下にあの緑の森がある。緑が濃すぎて、あらゆるものを薄緑に染めてしまう、あの森がある。

そして、その森には……。
大きな森の、大きな屋敷にいる物の怪。銀色の妖怪。
熱い手で俺に触れ、俺を抱こうとした者が、いる。

この硝子細工の中を流れる、金色の砂を固めたような、あの金色の瞳。
それが今夜、この凍った大地の下にあるのだ。

気が、狂いそうだ。

がしゃん、と突然響いた金属音に、俺はびくりとする。
砂時計を慌てて袂に隠し、布団の中から顔を出し振り向くと、小さな器と水が一杯、置かれていた。
食事を持ってきた女が、番をしていた女と交代する。いつもならそうだった。だが、二人ともこちらを見ている。蒼く冷たい目が、俺に注がれる。
氷の種族には砂時計も鏡も見えないと蔵馬は言っていた。とはいえ、妙な行動をすれば、氷女たちだって何かを気付くだろう。

怪しまれてこの宝物を取り上げられたくはない。のろのろと寝台を降り、食事の前に座った。
蒼く冷たい二対の目は、まだ俺をじっと見つめたままだ。いったい、なんだと言うんだ。

白い椀と箸を取る。
粥はいつも通り冷たくて、味がしなかった。

「最初から、こうするべきだったんだよ」

その声に、顔を上げる。
二人の氷女の後ろ、牢獄の入口には、長老たちがいた。俺を見る、幾人もの年老いた氷女。

まるで…
まるで、何かに立ち合うかのように…?

冷たい粥が、喉をすべり落ちた。

「…さすがは氷菜の子だ。二代続けて男と交わろうとは」

老婆のしわがれた声。
わずかな粥を吐き戻したが、もう手遅れだと自分でもわかった。

「……ぃ…ぁっ…!!」

手が足が腹が胸が頭が。

氷のかけらでいっぱいになった血液が全身をめぐるような凄まじい苦痛。
痛いのか苦しいのか冷たいのか熱いのかすら、わからな、い。

「見よあの首を!あやつは下界で男と交わったのだぞ!!」
「汚らわしい性交の跡をさらしてのこのことここにいるとは!!」
「今さらもう遅いのではないか!? やはり産まれた時に処分するべきだった!」
「黙れ黙れ!! まだ手遅れではない!」
「忌み子の石を知られたらこの国は滅びる!!」
「氷河の法度など、無意味なものとなる!!!!」

何人もの、わめき声。
なに、を。何を言って。

体が、焼ける。凍る。

…死にたく、ない。
こんなところで、こんな寒いところで。
雪菜にも会えずに。

蔵馬にも、会え、ずに。

「静まれ」

氷を弾いたような、冷たく澄んだ声。

老いた者の声ではない。
その声は若く、聞き覚えがあ…

強く冷たい風が、牢獄を吹き抜けた。
怒り狂う女たちの人垣が割れ、そこにいるのは。

「……ゅ、き…」

俺を見る蒼い目。
檻ごしに話をしてくれた。本をくれ飴をくれた、妹。
けれど、その目はもう。

「誰が、勝手な真似をした…?」
「だ、だが雪菜!この者は!!」
「私の許しなく、毒を?」

凍った牢獄に、沈黙が落ちる。
込み上げた血に咽せて、思わず咳き込んだ。

「…我が兄を、追放する」

雪菜の言葉に、氷女たちが騒めく。
何か言おうにも考えようにも、粥に混ぜられた毒は強烈だった。内臓が煮溶かされるような、苦痛。たったの一口だったのに、俺は冷たい床で痙攣し、遠のく意識を必死でつなぎ止めていた。

「雪菜!何を言う!!」
「こやつはもうじき死ぬ身ぞ!なぜわざわざ…!」

顔は見えないが、声は老婆のものだ。
檻が開かれ、雪菜が俺の側に膝をつく。

「…雄を…不浄の者を、この城内で死なすわけにはいかぬ」
「されど!」
「私に命令することは、今この時から、許さぬ」

傲然と、雪菜が顔を上げた。

「私は今日、百になった。女王の座を引き継いだのだ!それを忘れるな!!」

高らかな、宣言。

雪菜がぐいと、襟をつかむ。
細い腕で、俺を軽々と引き上げる。

「共に産まれたのも、縁」

弔いは、私がする。

「女王になって初めての命だ!下がれ!!」

雪菜の声とともに、壁が床が一気に凍りつく。
老婆たちが氷女たちが、牢獄に吹きつける凄まじい吹雪に顔をおおった途端、雪菜は俺を抱えたまま外へと飛び出した。
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