銀世界...10

城からだいぶ離れたらしいここは、枯れ木ばかりの森だった。
凍りついた枝は、空へ向かって黒い腕をのばしているようにも見える。

自分では立ち上がることもできず、指一本動かすことができないでいた。
降り積もる雪の中、雪菜に抱えられた体は、石のようだった。

毒。
氷女。
女王。
百。
妹…俺の、妹。

言葉だけが切れ切れに頭の中に浮かび、そして消える。

「なぜ、戻ってきたの!?」

煌めく氷のような瞳が、俺を見下ろす。
その言葉に、白い文の蒼い文字がよみがえる。あれは、やはり雪菜が。

「……ぁ」

答えようにも声を出すだけで、腹に胸に刃が突き立てられたかのようだ。
どろっと何かを吐き出し、俺はただ呻いた。

「愚か者!あれは最初で最後の、ここから出る好機だったのに!」

俺と雪菜の体に、きりもなく雪が降り積もる。
だが、もう寒さも感じない。

「…母さんはこの国の女王だった。無垢で愚かな、本当に愚かな女王だった」

雪菜の言葉はひどく緩慢に、俺の耳に届いた。
女王。俺を産んだ女は、氷河の…?

「知ってる?私は…いえ、私たちは今日、百になったのよ」

女王の娘。
それはつまり、次の女王となる者…

「…私は今日、王女から女王になった。これからはもう誰も、私に命じることはできない」

冷たく暗い、氷河の国。

……俺の妹は、
この国の王になったのだ。

「私は母とは違う。愚かでも、無垢でもない。この国を治めてみせるわ」
「……ゅ…き…」
「…そして、私はあなたを愛してはいない。けれど憎んでもいなかったのに」
「ゆ……」
「だから、戻るなと伝えた!愚かにも、戻るとは」
「………っぐ、あぁ…!」
「兄さん。あなたはもう助からない。この氷の国で死ぬか、それとも」

雪菜の指が、真っ直ぐ遠い大地を指す。

「…下界で死ぬか、選ばせてあげる」

雪菜の手の動きに合わせ、丸い雪山が出現する。中は空洞で、風や雪はしのげた。
その中に、雪の壁に寄りかからせるように俺を座らせると、くるりと雪菜は背を向けた。

「…謝らないわ。あなたに謝るべきは、母さんだもの」

雪菜は歩き出す。
女王のいるべき場所へ。統べるべき女たちの待つ城へ向かって。

姿が見えなくなる寸前、雪菜は一度だけ振り向いた。
哀れむような、蔑むような目。

それはいつぞやの夢に、そっくりだった。
***
全身が、焼けつくように、凍りつくように、痛む。
それなのに、なんだかひどく眠い。
眠ってしまえば、もう二度と目覚めることはないだろう。自分でも、それはわかっていた。

かすかに動かせた腕に、僅かな重みを感じる。
そうだ。鏡…。砂時計…。

鉛のような腕を動かし、どうにか、袂から鏡を取り出す。
蓋を開けることさえ、至難の業だった。

ぱちん。

小さな音を立て開いた鏡に映る、自分の顔。
赤いのは目だけではない。口元も、着物の袂も、べったりと血に染まっていた。

もうじき死ぬ者にしては、ずいぶんと色鮮やかなもんだ。
そう考えると、おかしくておかしくて、笑い出したいような気分だった。

…こんな所で、死んでたまるか。

どうせ死ぬなら、氷河の国では、死にたくない。
ここが俺の居場所だったことは一度もない。こんな所で、死にたくない。

喘ぎ、呻きながら、どうにか雪の中で立ち上がる。
踏み出した外は、強い風が吹きつけ、胸の中まで凍るような冷たい空気に思わず咽せた。
咳と一緒に吐き出した血は雪の上に飛び散り、あっという間に凍りつき、小さな宝石のようだった。
それはまるで、俺の目と同じような、深紅だ。

雪を踏みしめ、時に這いつくばり、恐ろしく時間をかけてどうにか氷河の端に着く。
いったいどれほどの時間が経ったのか、元々明るくはない氷河の空は、暗く澱んでいた。

ごつごつした岩の、突端に立つ。

百年前、俺はここから落とされるはずだった。自分の命と引き換えに、それを食い止めた女たちがいた。
なのに今、俺はここから降りようとしている。

誰の手からでもない。
自らの意思で、自らの足で、飛び降りる。

見下ろした下界は、大地は、遥か彼方だった。
とてもこの真下に、白緑の森があるとは思えない。

吹き上げる闇の黒さに、足がすくんだ。

一瞬、だ。
恐れるな。ここから地に落ちることなど、何秒とない。
なのに足がすくむ。

これが最後と決めて、鏡を開く。
映る、金色の、瞳…。

「………な」

鏡に映る、銀色の妖怪。
金色の瞳が、細くなる。

幻を、見ているのだろうか。

 行け
 踏み出せ

鏡の中の、薄く形のいい唇が、そう動く。
ほんの一歩先の、暗闇。

「……!!!」

空を意識する間もなく、冷たい風を切り裂きながら、俺は落ちた。
鏡と砂時計が手から離れないよう、両手で必死に握ったまま。

でも、もう。

恐ろしいほどの速度に、息もできない。
指が、ゆるむ。
丸い鏡が、手のひらをすべり…

銀色の影が、視界をかすめる。

あたたかな空気に、体を押し上げられた。
包み込まれた体はくるりとまわり、広げられた腕の中にふわりと落ちた。

「…離さず持ってろって、言っただろう?」

俺を抱えたまま、同じように落ちてきた鏡と砂時計を、大きな手がひょいと受け止めた。

金色の瞳。
銀色の髪。
からかうような笑み。

夢、だとしたら…自分に都合が良すぎる。

「………く」

がつんと胸を突く痛み。
白い衣に、銀色の髪に、暗褐色が飛び散る。

ああ…上等だ。

もう一度こいつに会えた。
まったく上等だ。

ここで、この腕の中で死ねるなんて。

「くら……」
「おい。誰が死んでいいって言った?」

霞む視界に、橙色の小さな実。
血でべたつく口を無理やりこじ開けられ、押し込まれる。

「話は、後でな」

ひどく、苦い。
そう感じた瞬間、降り積もる雪のように、目の前が白く覆われた。
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