銀世界...11厚い布団にも、あたたかい部屋にも、見覚えのある天井にも、もう驚きはなかった。ただ、同じ布団で、隣で眠る狐には驚いた。 長い腕が、俺の首から胸へと、まわされている。 音を立てたら、これが夢となって消えてしまう気がして、身動きできずに、銀色の睫毛を見つめていた。 どれくらい、そうしていただろう。 長い睫毛が揺れ、金色の瞳が現れた。 「んー…」 ふあ、と盛大なあくびをし、長い髪を背にはらう。 だが、片腕は俺にまわされたままだ。 無言で見つめている俺に気付き、小さく笑う。 「…よう。忌み子」 こんな悪態をつかれるなら、どうやら夢ではないらしい。ほっとして、体の力を抜いた。 返事が思いつかず、黙っていた。目の前の金色の瞳をじっと見つめたままの俺に、銀色の眉がしかめられる。 「まったくお前は、面倒なやつだな」 面倒なやつ、という言葉に、朦朧としていた何日間かの記憶がいくらかよみがえり、ばつが悪い。 首に胸に腹に、痛む体のあちこちから妖気を流し込まれ、ずいぶんと暴れた。何度も無理やり流し込まれる薬もひどく苦しくて散々吐き戻し、宥めすかされてはまた飲まされた。よくこの狐が、辛抱強く飲ませてくれたものだ。 「……悪かった」 「ずいぶんと殊勝だな」 「お前は…俺を………見ていたのか?」 「ああ。俺に会いたくてしょうがないって顔で、鏡を見ていただろうが」 気恥ずかしさも、憤りも、なぜか今は感じない。 まわされたままの腕から、とろとろと妖気が流し込まれる。だいぶ体が癒えた今となっては、あたたかくて気持ちがいい。 蜜のように濃厚な妖気は、色があるのならきっと金色だろう。 悪かった、なんて言葉では足りないことぐらいはわかっていた。 あの時、鏡に映った金色の瞳は幻ではない。蔵馬は俺を見ていてくれた。鏡も砂時計も、俺を救うために、蔵馬はくれたのだ。 きちんと、礼を言わなければならない。 なのに、上手い言葉は思いつかなかった。 元々、しゃべることは得意ではない。 「……執念深い氷女には、関わりたくないんじゃなかったのか?」 仕方なく、そんなことを言ってみる。 本当に言いたいのは、そんなことじゃないというのに。 「言っただろう」 俺と同じように横になったまま、蔵馬はにやりと笑う。 自分で下界に降りた氷女は、捕まってもしょうがないんだ。 お前は自分で勝手に氷河から降りた。なら、盗賊に捕まって、二度と氷河に戻れなくともしょうがない。 「可哀想にな。もう氷河には戻れないぞ」 何と返せばいいのかわからなくて、 けれど、どうしても伝えたくて。 まだ痺れて上手く動かせない両腕をなんとか布団から引っぱり出し、銀色の髪ごと、蔵馬の頭を抱きしめた。 ***
「お前の母親と妹は、女王だったんだな」陽の当たる広々とした縁側で、あたたかい粥の食事をしている俺に、木々の手入れをしながら蔵馬が言葉をかけた。 粥を運んできてくれた召使いが、俺の背に羽織をかけてくれる。 「…そうらしいな」 とろんとあたたかい粥に匙を入れ、氷河の冷たい粥を思い出す。 雪菜は今日も冷たい粥を食べ、冷たい女たちを統べているのだろうかと、そんなことを考えながら。 「だから言っただろうが。あれはお前の妹が書いたんだと」 「そうだな…」 だとしても、雪菜の命を引き合いに出されれば、帰らないわけにはいかなかった。 …雪菜にはそれがわからなかったのだろうか。 俺が、あんな隠し文の言葉で、妹を見捨てることができると、雪菜はそんな風に考えたのか?処刑されるためにわざわざ呼び戻されるとは、俺だってさすがに思わなかった。 粥に匙を入れたまま、ぼんやりとした俺に、なぜか慌てたように蔵馬が言う。 「言っておくがな。お前の妹が冷たいわけじゃないぞ」 氷女は、元々あまり感情豊かな種族じゃない。 少なくとも、お前に氷河に戻るなと隠し文を記すくらいなんだから、そう嫌われていたわけでもないさ。 氷河は国としてはちっぽけなものだが、統べていくのは容易なことじゃない。ましてやこの百年女王が不在だった後だからな。 「それにな」 「…それに?」 「城にそのままいれば、お前は死ぬしかなかった。だが下界に降りれば、もしかしたら助かるかもしれなかっただろう?」 「もしかしたら?…毒を盛られて、あの高さから落ちてか?」 「ああ。現にお前は今、生きているじゃないか」 お前の妹は、その可能性を考えたのかもしれないだろう?だとしたら頭のいい女だ。女王にふさわしい器だな。 そう言うと、蔵馬は笑った。 「だから、あまり気に病むな。いい方に考えておけ」 どうやら、気を遣って言ってくれているらしい。 およそ気遣いなどというものを持ち合わせているとも思えないのに、そんなことを言う蔵馬はなんだか可笑しかった。 目が覚めてから八日、ようやく布団の上ではない場所で食事ができるようになった。今日の粥には、塩漬けにした実や、葉を細かく刻んだものが添えられている。白い粥に、紅や緑や黄色のそれは綺麗だった。 「お前は、俺が殺されるために呼び戻されたことを知ってたのか?」 少しの沈黙の後、蔵馬は溜め息をついた。 「…まあな。そうでもなけりゃお前を呼び戻す理由がないだろう」 「あの日、氷河がこの森の上にあることもか?」 「近くにいるはずだとは思っていた。氷女はそもそも下界に降りることを極端に嫌うからな。なんせ下界は危険が多い」 俺の前に腰を下ろした蔵馬は、皿から塩漬けの実を一つ摘み、かりりと噛んで続ける。 「迎えの者がここに来るときいた時から、氷河が近くにあることはわかっていた」 距離が離れれば離れるほど結界は高度なものが必要だが、氷女はそうした術には長けていない。強力な結界を作れるのは氷河の国では女王ぐらいだろうが、お前の話にも、あの文にも、女王の影は見当たらなかった。 「ならば、女王は死んだか、即位が上手くいってないんだろうと考えたわけさ」 事実、この百年、氷河の国の女王は不在だったというわけだ。 お前の妹が百の年になるまでは、長老どもが繋ぎとして国を治めてたんだろう。 そしてお前の妹は、百になった。待ちに待った女王の即位だが、そこでまた問題だ。長老どもは女王の兄であるお前を始末したかったんだからな。 お前の妹が女王となってしまってからでは、女王の許可なくお前を始末することはできない。 「だからこそ、白緑の森の近くに氷河がある、そしてお前の妹が百になる前のあの日にしか、お前を連れ戻せなかった」 黙って聞いていたが、降り注ぐたくさんの言葉が、なかなか頭の中に染み込まない。 粥をもうひと匙口に入れ、ゆっくり飲み込む。 「…俺は馬鹿なんだろうな。少しもわからなかった」 「安心しろ。大概の奴は俺のようには頭が回らん。だが」 わからないことが、一つある。 そう言って、蔵馬は眉をしかめた。 「何がだ」 「俺にもわからないのは、なぜお前を今さら始末しなけりゃならなかったのか、だ」 今さら、の部分を強調し、蔵馬は言った。 「忌み子だからだろう?」 「お前、やっぱり頭悪いな。考えてみろよ」 始末するなら産まれた時でよかった。それをしなかったのは、お前の母が女王であったためだ。 お前も一応は王族だ。前例のない王族の忌み子だったから、判断に困って、しょうがなく檻に閉じ込め生かしておいた。 ある日氷河の城は盗賊に襲われた。お前を含めた氷女が連れ去られたが、お前以外は氷河に戻った。お前は下界に捨て置いてもいい存在だ。生き延びたとしても、盗賊に殺されても、どちらでもいい。氷女たちにとってはむしろいい機会だっただろうよ。下界に降りる危険を冒してまで迎えに行く必要などない。 「そうだろう?」 薄い唇から、すらすらと流れる言葉。 金色の目に見つめられ、俺なりに考えてみる。 「…俺が盗賊に殺されなかったとして……生き延びて、氷河の国に復讐をするかもしれないからか?」 「違う。妹を人質にされてのこのこと戻ってくるようなお前が、妹のいる国に復讐なんぞできっこないだろ」 ない頭で一生懸命考えた答えを、あっさりと切り捨てられる。 氷河、氷女、妹、忌み子、処刑。わからないことだらけだ。 一度にいろいろなことを聞かれ、めまいがしてきた。匙を置き、目をつぶる。 ……何か…思い出さなければいけないことがあるような、気がして。 「蔵馬様」 俺のすぐ隣に、置物のように静かに座っていた召使いが、遠慮がちに声をかける。 「この者はまだ病み上がりです。今日はそのくらいになさっては…」 「ああ、そうだな」 ほっとして、召使いに礼を言い、立ち上がろうとした途端、大きな手に抱き上げられた。 「何をする…!」 「ここまで歩いてくるのにふらふらしてたくせに。病人は大人しくしてろ」 両腕に抱かれたまま部屋に戻され、布団の上に下ろされる。 横になった俺に布団をかけ、ちゃんと寝てろよなどと言い、妖狐はさっさと部屋を出ていってしまう。 驚くほど長身の、後ろ姿。 襖が閉まる寸前、長い髪が銀の糸のように、風にゆるくなびくのが見えた。 胸が、波打つ。 …頬が熱いのは、毒が体から抜け切っていないからだ、熱があるからだ。 それが半分言い訳であることは、自分でもわかっている。 ***
額や頬が熱くて、寝苦しい。うとうと眠り、目覚めては天井を見上げ、暗がりでも美しい木の細工に、やわらかくあたたかい布団に、ここは牢獄ではないのだとほっとする。 眠りのふちで揺れながら、夜を過ごしていた。 ー見よあの首を!あやつは下界で男と交わったのだぞ!! ー汚らわしい性交の跡をさらしてのこのことここにいるとは!! ー今さらもう遅いのではないか!? やはり産まれた時に処分するべきだった! ー黙れ黙れ!! まだ手遅れではない! ー忌み子の石を知られたらこの国は滅びる!! ー氷河の法度など、無意味なものとなる!!!! しわがれた声が、夢の中で何度も何度もがなり立てる。 ぴちゃんと水音がし、額に冷たいものが乗せられた。 はっとして、目を開ける。 「……っ」 何か、夢を見た…? 思い出さなければいけない何かが、またどこかへ消えてしまった。 「ああ、起こしてしまいましたか」 水を張ったたらいに手をかけた召使いが、すまなそうに言う。 濡らした布を、額を冷やすために乗せてくれたのだ。 「…いや。眠れなくて…うとうとしてて…」 「気分が悪いようでしたら、もう少し煎じ薬をお持ちしましょうか」 ふと、急に申し訳ない気持ちになった。 こいつらは、蔵馬の召使いであって、俺の召使いではない。布団から起き上がれないでいる間も、食事を運んでくれ、呪符で爛れた両腕に薬を擦り込み、熱い湯で絞った布で体を拭いてくれた。散々世話になっておきながら見分けもつかないなんて、失礼な話だ。 瞳孔のない目は、以前は表情が読み取れない不思議な目だと思ったが、しばらく過ごした今では、心配してくれていることはちゃんとその目を見ればわかった。見分けがつかないながらにも、どうやら三人いるということもわかっていた。 「…名を、聞いてもいいか?」 「名?…私の名ですか?紺と申します」 「こん…後の二人は?」 「緑、それに、橙」 「りょく…とう…」 俺が文字を思い浮かべられないでいるのに気付いたらしく、紺は蝋燭を灯し、部屋にある小さな文机に向いほんの少しだけ墨を擦ると、さらさらと文字を書き、紙を俺に手渡す。 紺、緑、橙。 綺麗な文字からは、墨のいい香りがした。 「蔵馬様がくださった名です。どれも、この白緑の森にある、色の名です」 夜空の紺、木々の緑、夕暮れの橙。 見分けがつかなかった?いいんですよ。我々は三つ子ですから、見分けが付かないのも無理はありません。 蝋燭の灯の中、紺はぽつぽつと説明してくれた。 「…綺麗な名だ」 紺は、嬉しそうに目を細める。 「さ、もう寝てくださいませ、蔵馬様に叱られますよ」 「ああ…悪いな。俺の世話をするのが仕事じゃないのに」 たらいを両手で持ち、立ち上がっていた紺が、不思議そうに俺を見た。 「でも、あなた様は狐の花嫁なのでしょう?」 「……え?」 「それを」 と、紺が目で指したのは、俺の枕元の砂時計と、鏡だった。 お前にやったものなのだから持っていろと、目覚めた時にはすでにここにあった。 「その鏡は宝物庫ではなく、蔵馬様の自室に長いことありました。白緑の森の先代から受け継いだ、門外不出の宝物なのです」 「でも…俺に…」 「ええ。蔵馬様はお渡しになりました。なので」 「なので、なんだ?」 「あれは、狐の花嫁が」 ふと、こんなことを話してはいけなかったのだろうかとでも考えたのかのように、紺は躊躇う。 すこしの沈黙。蝋燭が、じじ、と小さく音を立てた。 「…狐の花嫁が、嫁入り化粧をするための鏡なのです」 |