銀世界...12

蝋燭を灯しておいて欲しいと紺に頼んだが、もう眠らなければ駄目だと消されてしまった。
しょうがなく、暗がりで枕元を探り、鏡を取る。

布団の中。指先で、細かな彫刻をなぞる。
狐の花嫁が、嫁入り化粧をするための、鏡…。

もちろん、蔵馬は俺にそんなつもりで渡したわけではないだろう。ただ、俺を救うために…貸して、くれたのだ。

腕が治るまでここにいればいいと、以前に蔵馬は言った。
今度は、いつまでいてもいいのだろう。体が癒えるまでいてもいいのか?
…体が癒えたら、この毒が完全に体から消えたら、俺はここを出て行かなければならないはず、だ。

狐の花嫁。
以前に書庫で読んだ本で、花嫁というものについては知っていた。

金色と銀色の、あの男。
蔵馬の生涯の伴侶となる、者…。

欲望には、限りがない。

ずっとずっと、望んでいたのは、自由に生きること。
あたたかい場所で、生きること。
それが叶うのならば、何でもする、何でもできると思っていた。

なのに今、俺の望みは形を変えている。

ここに、いたい。
この白緑の森で、紺や緑や橙と一緒に。

何よりも、蔵馬の、あの男の側にいたいのだ。

「……自惚れるな……忌み子」

呟きが、闇に溶ける。
生きて氷河を出れただけでも、有り難く思え。自由を手に入れた、それ以上の何を望む?
そう自分を叱ってみても、胸の内の思いはおさまらない。

…ここにいたい。ずっとここにいたい。
蔵馬の側にいたい。

できることなら、愛し愛されて。

俺の方には、蔵馬を愛する理由がごまんとある。
けれど、あいつが俺を愛する理由は何一つ思い浮かばずに、夜が明けた。
***
「ゆっくりと妖気を流して。手のひらに丸く溜めるような感覚で…」

緑に指示されるままに、両の手のひらに妖気を集める。熱い流れを塊にするように思い描く。
しばしの静寂の後、俺の手のひらの上に、ゆらゆらと熱気が立ち込める。

だが、それだけだ。
何度やっても、俺は炎を作ることができないでいた。

お前は炎の種族なのだから、きちんと炎を使いこなせるようになれ。

蔵馬にそう言われたのは十日程前で、緑に教えてもらいながら、自分の妖気をあやつり、火を熾すという修業を始めていた。
ずいぶん前に雪菜から、俺は炎の種族の血を引くと聞いていたし、妖気の質は炎の種族のものだと、蔵馬も言う。
けれど何度試しても、俺は蝋燭に小さな火を灯すことさえできずにいた。

「……くそ」

自分に毒づいてみたところで、何も変わらない。
だが、もう十日以上も経つというのに、このざまだ。本当に苛々する。

「今日はこれぐらいに。剣をもう少しやりましょう」

緑の言葉に、俺は力なく頷いた。
こめかみを伝う汗を手の甲で拭い、剣を受け取った。

久しぶりに屋敷に帰ってきていた蔵馬は、縁側で酒を飲みながら俺と緑を眺めていた。

抱きかかえられ布団に寝かされたあの日以来、蔵馬が俺の寝所にくることはなかった。
蔵馬は蔵馬の寝所で、俺は俺に与えられている寝所で、眠っている。食事をともにすることさえ、ない。
蔵馬の側に他の者がいる気配はなかったが、なにせ広い屋敷だ。俺がわからないだけで、人の出入りはあるのかもしれない。
あるいは、他にも屋敷はあるようだし、そこには誰かがいるのかもしれない。

…例えば、あの女たちのような、者が。

髪をかすめた剣先に構わず、一歩踏み込む。

「飛影」

近頃、蔵馬に声をかけられると嬉しい反面、ひやりとする。
いつまでいる気だ。いつになったら出て行くんだ。そんなことを言われるのではないかと、胸がひやりとするのだ。

「攻撃だけを考えるな。今お前が防御しなくても殺されずにすんでいるのは、緑が相手だからだ。剣を盾にもできるよう使いこなせるようになれ」
「…ああ」
「お前は小柄過ぎるが、その分素早く動けるだろう。緑、あまり手加減するな」

出て行けとは言われなかった。蔵馬に気づかれないよう小さくため息をついた途端。

「しかしなあ。炎を使えなくてどうするんだ。やはり氷女の血が邪魔をするのかもしれんな」
「けれど蔵馬様、剣の素質はあるようですよ」

緑がめずらしく褒めてくれたが、蔵馬は眉を上げた。

「その程度の剣術じゃ、外では通用しない。魔界で生き残るのは容易じゃないぞ」

蔵馬が指をぱちんと鳴らした途端、庭に焚き火用に積み上げられていた木に炎が宿る。
俺の修業用にと緑が用意してくれていた薪に、蔵馬の炎が綺麗に燃え上がる。

外。
その言葉が、胸に重く響く。

…外。
ここではない、場所。

串に刺した野菜を橙が焚き火にくべるのを見ながら、俺は唇を噛んだ。
***
その五日後だった。
いつもなら部屋に夕餉を運んできてくれる紺が、今夜は蔵馬さまのお部屋でお食事です、と俺を呼びにきた。

嬉しい、とは素直に思えない。
今度こそ、ここを出て行けと告げられる気がした。

紺に連れられ、大きな部屋に案内される。だだっ広い部屋には膳が並んでいる。二人分の膳が並ぶその部屋は、広すぎて落ち着かなかった。

「何をぼさっと突っ立ってる。座れ」

無言で座った俺の前に、食事が並べられる。
紺はすいすいと給仕をし、部屋を出て行ってしまう。俯いたまま向かい合うように座り、気まずく箸を取った。
蔵馬は食事はせず、いくつかの肴をあてに酒を飲んでいた。静かな部屋に、酒を注ぐこぽこぽという音が響く。

「上達しているか?」

緑との修業のことを聞かれ、俺は黙ったまま首を横に振る。
情けないことに、炎はまだ一度も熾せていなかった。

こんがりと焼けた魚に箸をつけ、白飯と一緒に口に運ぶ。
いつものように料理は美味いのに、今夜は喉につっかえるようだった。

それ以上、蔵馬は何も聞かなかった。
静けさの中、金色の瞳がこちらを見つめているのを意識しながら、味もわからずにひたすら食べ続けた。

「…で?」

盃を片手に、蔵馬が再び問う。

「お前はこの先、どうするつもりだ?」

この先。
動揺を気取られたくなくて、椀を取り、口の中のものを熱い汁で流し込んだ。

「お前は素寒貧だ。魔界で生きるのにも金はいる。なんなら、都合をつけてやるぞ」

何もいらないから、ここにおいてはくれないか。
それはなんとも惨めで、そして図々しい願いだった。
紺たちのように役に立つわけでもないのだし。おまけに炎のひとつも熾せないときた。

「…どうした?」

黙り込んだ俺に、蔵馬が声をかける。

「…金などいらん」
「わかってないな。外では何もかも金がいる。あるいは、力が」
「俺は…」
「まさかあれしきの剣術で、力を持った気じゃあるまいな」

空になった碗を置き、目をふせる。

「蔵馬様」

襖の向こうから、紺の声がした。

「どうした?」
「雲が晴れまして、素晴らしい満月でございます。良かったら縁側でお飲みになられては」

すっと開かれた戸の向こうに、金色の満月が輝いていた。
***
徳利を持ったまま縁側に立った蔵馬の後に続き、隣に腰を下ろす。
もう一つ盃を持ってきてくれた紺は、またもやさっさとどこかへ行ってしまう。

「飲むか?」

俺の答えを待たずに蔵馬は盃に酒を注ぎ、俺の前に置いた。透明のそれは、水のようにも見えた。
酒というものを飲むのは初めてだった。氷河の国にはなかったのか、俺が知らなかっただけなのかはわからないが。

ひとくち、飲んでみる。
奇妙な味で、不思議な匂いがした。美味いとはいえないが、口の中に胸の中に、不快ではない熱さが広がる。

両手で持った白い盃。残った酒には、満月が映り込み、揺らいでいた。
綺麗で、儚げで。それはまるで…

「おい。大丈夫か?」

惚けていた俺の肩に大きな手がのせられ、声がかけられる。
蔵馬の方を振り向き、慌てて頷いた。

「…大丈夫だ。初めて飲んだから」
「お前、酒も初めてなのか」

再び徳利を持った蔵馬が、肩から手を離し、俺の盃を顎で指す。
どうやら飲み干せということらしい。うながされるままに盃を空け、注がれる酒を見つめていた。
頭の中も、ふわりと熱い。眠いような、それでいて高揚するような、変な気分だった。

「…礼を言う」

とろりとした気分の中、自然に言葉が出た。
言わなければならなかった言葉が、酒の力を借りて俺の口をすべり出てきた。

「助けてくれたこと、鏡を…」

酔いのまわった頭でも、くれた、というのはずうずうしい気がした。

「…大切な鏡を、貸してくれたことも。礼を言う」

蔵馬は無言のまま、月を見つめていた。
まるで水のように酒を干し、またなみなみと盃を満たす。

書物さえ読めそうな月明かりの中、その沈黙はずいぶんと長く感じられた。

「…それだけか?」

銀色の眉の片方を上げ、蔵馬はすいっと酒を飲む。
月明かりが、銀色の髪を輝かせる。

「他に何か、俺に言うことはないのか?」
「……俺…は」

手の中で、月が揺れる。
映る月ごと、一気に飲み干した。

「俺は…俺は、お前に会いたかった」

するすると、言葉が口からこぼれる。
俺らしくもない。

「会いたかった。生まれて初めて、妹以外の誰かに会いたいと思った。氷河から逃げ出したかったからだけじゃない。ただ…お前にもう一度会えたらと。会って…」
「会って?」
「会って……お前に」
「俺に?」

いくら酔っていても、その先を言葉にすることはできなかった。
愛し愛されたいなどと、忌み子の分際で。
これ以上べらべら喋るまいと、俺は顔を背け、盃を置いた。

「飛影」

低く甘い声。
長い指が、俺の髪をくしゃりと乱した。

「外の世界を、見てみたらどうだ?」
「……外?」
「ああ。お前が知っている世界といえば、氷河の檻の中と、この白緑の森ぐらいだろうが」
「そうだが…」
「外には、もっといいものがあるのかもしれないのに?俺は確かにお前を助けてやった。だからって俺に惚れる義理はないんだぞ?」

いつの間にか、月の光を遮るように、目の前に蔵馬はいた。

「…蔵馬?」
「そんなに簡単に、俺に惚れていいのか?」
「俺は…」
「何も知らないくせに。生まれて初めて愛されて、お前はそれが嬉しくてしょうがないだけじゃないのか?」

この気持ちが、恩義とやらではないことはわかっていた。
側にいたい、触れていたい。触れてもらいたい。
俺を見ていて欲しい。俺もまた見ていたい。

愛し愛されたい。

自分の体を思い出す。
乱雑な去勢を施された、みっともない、醜い体。傷んだ体。
一度も誰にも愛されたことはないのに、こんな綺麗な生き物にそれを望むなど、あまりに高望みだろうか?

「……愛されて?」

急に我に返った。
生まれて初めて愛されて?

何と言った?
この狐は、何と言った?

生まれて初めて愛されて?
生まれて初めて愛して、の聞き違いではなかったか?

「…蔵馬?今、何と」
「生まれて初めて愛されて、それが嬉しいだけだろうと、そう言ったんだ」
「愛されて?誰が?俺を?」
「俺がだろう。お前もだろうけどな」

混乱してきた。
俺が?俺に?蔵馬が?それとも俺が蔵馬を?

「なんだ?お前は俺に惚れているんだろうが」

自惚れるな、とか、誰が惚れていると言った、とか。いつもならとっさに口にしているであろう言葉は、出てこなかった。
これもまた、酔っているせいなのだろうか?
違う、そうじゃない。聞きたいのはそうじゃなくて…

「……お前も、俺を…愛して?」
「そりゃそうだろ。でなきゃあの鏡をやるわけないだろうが。家宝なんだぞ」

あっさりと、盃を片手にぽいと投げられた言葉。
蔵馬が、俺を?この美しい狐が、俺を?

「……どうして俺を?お前は何でも手に入るのに?」
「さあなぁ。何が良かったんだか、自分でもよくわからん。まあ強いて言うなら、その赤い瞳。負けん気の強さ。いざ泣いた時の泣き顔」

あっさりと、軽い返答。
とても、信じられるものではない。

「そんなもの…っ」
「いいだろう別に。お前の何を気に入ろうが俺の勝手だ」
「…お前が俺を…?そんなこと、信じられるか」

物の怪が、妖しく笑う。

「…俺を信じなくて、お前は一体何を信じられるんだ?」

言葉に、詰まる。
雪菜を失った今、信じられるものなど、俺にあるのだろうか。

この狐を…信じてもいいのだろうか?

急に抱き寄せられ、床を擦った布ごしの局部が痛んだ。
自分の醜い体を、思い出す。
みっともない体、そう冷たく見下ろされたことも、思い出す。

「…俺は………醜いのに?」
「構わん。綺麗なものが見たけりゃ自分の顔でも鏡で見るさ」

銀色の髪が、俺の頬に肩に、降り注ぐようにかぶさった。
蔵馬の薄い唇が頬をかすめ、俺の唇に重なる。

以前のような、恐怖も不快感もなかった。
口を開け、もぐり込んできた舌を受け入れる。

「…飛影」

蔵馬の手が、衿にかかる。
水音を立てて離れた唇が、首筋に…

ー見よあの首を!あやつは下界で男と交わったのだぞ!!

頭の中に響く、しわがれた声。
あれは、あの声は、何と言っていた…?

「…飛影?どうした?」
「……ぁ」

ー汚らわしい性交の跡をさらしてのこのことここにいるとは!!
ー今さらもう遅いのではないか!? やはり産まれた時に処分するべきだった!
ー黙れ黙れ!! まだ手遅れではない!
ー忌み子の石を知られたらこの国は滅びる!!
ー氷河の法度など、無意味なものとなる!!!!

そうだ。思い出した。
俺に毒を盛った婆どものしわがれ声。怒鳴り声。

忌み子の石。氷河の法度。

あれはいったい、何だったんだ…?
***
「わからんな」

この自分にわからないことがあるなど信じられないとでも言いたげな蔵馬の顔。

ようやく思い出せた、氷河の婆どもの言葉を伝えた後は、なんだかもうそんな雰囲気ではなくなってしまった。はだけかけていた衿を戻し、きちんと座り直そうとした俺を、蔵馬は膝の上に抱き上げた。

「忌み子の石…。お前は石を造れない。それはもうわかっている」
「そうだな。俺には氷泪石は造れない」
「どういうことだ?氷女たちは何を恐れていた?」
「お前にわからないのなら、俺にわかるはずもないだろ」
「…まあいい。今夜はもう、しないぞ」

俺はきっと、がっかりした顔をしてしまったに違いない。
蔵馬はにやりと笑い、したかったのか、などとのたまう。

「別に…!どうせお前は、他のやつとも…誰とだって…!」
「ああ。散々寝た。何人と寝たかなんて思い出せないくらいにな」
「…そうか」

胸が、苦しい。
本当に、欲望には限りがないのだと思い知らされる。
この男の側にいたいというのが願いだったじゃないか。愛されることなど高望みだと自嘲していたじゃないか。

本気かどうかはわからないにしろ、俺を愛していると蔵馬は言ってくれた。
なのに愛されるのは自分だけでありたいと、そこまで望むのか、俺は。

「千人の女と、千人の男を抱いたさ。だが、それももう、終いだ」
「…終い?」
「俺はお前を、正式に娶ってやろう。初夜は正式に迎えねばならん」

めとる、という言葉の意味がわからず、俺は眉を寄せた。
しょや、の意味も無論わからなかった。

「何を言っ…」
「飛影。お前は」

どうしてここにあるとわかったのだろう?
蔵馬は俺の袂を探り、するりと鏡を取り出した。

優美な仕草。長い指が鏡の蓋を開ける。
月明かりの下で、鏡が俺の方に向けられる。

氷女のように白い顔。真っ赤な瞳。真っ黒な髪。
丸い鏡に、映るその姿。

「覚悟は、できたか?」
「…覚悟?」
「狐の花嫁になる、覚悟さ」

手のひらに戻された鏡は、ずしりと重く感じた。
立ち上がった蔵馬は、月を頭上に、俺を見下ろし、言った。

「今ならまだ、逃げ出せるぞ?」
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