銀世界...13蔵馬はまたもや、留守にしていた。盗賊家業というものは、俺が考えていたよりもずいぶんと忙しいものらしい。 「…っつ」 剣が手元から、弾き飛ばされた。 「ほら、考え事なんかしてちゃ駄目ですよ」 緑に咎められるのも無理はない。今日はもう何度も剣を落とされた。 衝撃に痺れる手を押さえ、剣を拾う。 「すまない。ぼんやりした」 「今日はこれくらいにしておきましょうか」 人のことを言えた筋合いではないが、緑は無口だ。無駄話をすることがない。さっさと剣を拾い、片付けに行ってしまった。 世話好きで思慮深い紺。おっとりして料理や掃除の上手な橙。剣術や妖術に長けた無口な緑。三人の見分けがつかなかったなど、今では信じられないくらいだ。 「お茶ですよ」 茶と茶菓子の乗った盆を手に、紺が縁側に現れる。橙が餡を練って作った綺麗な菓子は、紅葉の形をしていた。 「お手を」 湯のみを取ろうとした手を、紺に止められる。 俺の右手の甲には、手合わせで負った傷が血を滲ませていた。どこかの部屋から膏薬入れを持ってきた紺が、傷に薬を塗り込んでくれる。 紺の俺の扱いはいつでも丁寧過ぎて、気が引けてしまう。こんな小さな傷、どうということはない。 「いい。たいしたことはない」 「駄目ですよ。嫁入りまであと十日ですよ?」 嫁入り。 二十日前に言われた言葉を思い出し、胸がどくんと打つ。 三十夜後にまた、月は満ちる。 次の満月。それまでお前の気持ちが変わらなければ、お前を狐の花嫁に娶ろう。 それだけ言うと、蔵馬はさっさと行ってしまったのだ。 混乱している、俺を残して。 すっとする匂いの膏薬を塗られた手に、綺麗に包帯が巻かれる。 紺のあたたかい手。 「…紺」 「はい。なんでしょう?」 紺と緑と橙。三人は同じくらい優しくて、いいやつだ。それはよくわかっている。 だが、何か相談というものをしたくなるのは、紺だった。 他の二人が悪いというわけでは無論ない。ただ、なぜか紺は話しやすいのだ。 「俺は…蔵馬の伴侶になっても…いいのだろうか?」 「もちろんですよ。蔵馬様があなた様を見初めたのですから」 もしかして、と紺が困ったような顔をする。 「お嫌なのですか?」 「そうじゃないが…」 どう言えばいいのだろう。この不安を、心もとなさを。 女々しく愚痴を言うことなど、大嫌いなのに。 「…俺に、いったい何の価値がある?」 そうだ。それが胸に刺さった棘のように、引っかかっているのだ。 今ならまだ、逃げ出せる。 蔵馬のその言葉は、俺に執着がないように思えてならなかった。どちらでもいい、あるいは、どうでもいい、とでも言うような。 大切な鏡を使って、助けてくれたのだ。からかわれているわけじゃないことはわかっている。けれど、でも… 俺が途切れ途切れにこぼす言葉を、紺は黙って聞いている。 ぬるくなった湯のみの茶を、俺は一気に飲み干した。 うながされるまま口にした菓子は、甘く、口の中で溶けるように消えた。 「…飛影様」 「様などつけないでくれ。そんな者じゃない、俺は」 紺はにっこり笑って立ち上がると、座ったままの俺の手を取った。 「少し、外を見てみませんか?」 ***
屋敷や、屋敷の周辺から見る限り、白緑の森はどこまでも続いているかのように見えた。氷河に連れ戻される迎えがきた時には、蔵馬は屋敷内に結界を作り、そこから氷女たちを迎えていた。俺にはいまだに、この屋敷や森の大きさがよくわからなかった。 「確かにこの森は広大ですが、もちろん限りはありますよ」 尋ねた俺に、紺は笑うと、前をすたすた歩く。 森の木々はたっぷりと葉をつけ、素晴らしい香りを放っていた。 小道を行くと、唐突に、一枚の障子戸が現れた。 障子戸は本当に唐突に立っていて、その前にも、その後ろにも、何もない。ただ森が続いているだけだ。 「これはなんだ?」 「森には結界が張られてるんです。ここがその出入り口なんです」 ごく普通の障子戸であるかのように、紺はその戸をすっと引いた。 砂まじりの風が、吹きつける。 戸の向こうに広がる景色に、俺は息を飲んだ。 ***
俺たちの足元は、先ほどまでのやわらなか土ではない。草履に当たるのは、ごつごつとした岩場だ。目の前に広がる広大な大地。 それは砂と岩と厚い雲と灰色の空とでできていて、どこまでも続いているかのように見えた。 緑にむせるような白緑の森とはまったく違う。雪と氷とに覆われた真白い氷河の国ともまったく違う。 見たこともない世界が、目の前にはただ遠く遠く、広がっていた。 書庫のたくさんの本で、魔界には様々な気候や風土があるらしいとは知っていた。 けれど、書物で知ることと、目の前に本物を見ることは、まるで違っていた。 所々で、眩しい陽射しが厚い雲を切り裂くように、地面を焦がしていた。 風や、熱さや、におい。 それは本からでは伝わることは決してない。それをたった今、知った。 「…魔界とは…本来こんな世界なのか?」 乾いた、埃っぽいにおい。 風は強く、着物の裾を乱す。 「あの戸は、魔界の様々な場所に通じております。ここは、魔界のほんの一部なのですよ」 荒涼とした風景を前に、紺はいつもの縁側にいるかのように穏やかに話す。 懐から取り出した布を岩場に敷き、俺に座れとうながす。 「ここは七十四層です。魔界はたくさんの層に分かれ、様々な種族が暮らしています」 遠くに岩山があるのが見えますか?あのずっとずっと先には海もあります。海というのは、波という満ち引きをするものがある大きな大きな水の世界で、その水は塩辛いんです。そう聞いても、海がどんなものか想像つかないでしょう?私も自分の目で見るまでは海を理解できませんでした。 氷河にも川はありましたよね?氷河ではほとんど凍りついてますが、あたたかな国では水は一時も休まず流れ、田畑や森に、豊かな恵みをもたらします。時に崖から水は落ち、滝というものにもなるのです。あるいは、流れ着いた先で、海となります。 氷河の国のように季節というものがなく常に凍りついた国もあれば、年中暑くて暑くて、ほとんどの者が裸で過ごしているような国もあります。 七十四層の一つ下、七十五層では羽の生えた蝶のような種族が生活しています。彼らは皆、卵から生まれるのです。ひらひらと、綺麗な粉をまきながら飛ぶんですよ。 「つまり…魔界には無限の場所があり、無限の種族が存在しています。蔵馬様でさえ、魔界の全てを知っているわけではないのです。何千年何万年生きたところで、魔界のすべてを知ることは不可能でしょうね。誰にも」 何千年何万年生きたところで、魔界のすべてを知ることは不可能。 ぽかんとしている俺の手を、紺はぽんぽんと叩く。 …魔界は、そんなにも広い世界だったのか。 「蔵馬様は、それを心配なさっているのかもしれません」 「それ?」 「氷河の牢獄に閉じ込められていたあなた様は、あまりに何も見たことがなかったから。世界をまったく知らないまま白緑の森に来ては、蔵馬様を愛してしまうのは当然のことでしょう。他に愛する価値のあるものを何も知らなかったのですから」 「俺が…何も知らないから?だから、蔵馬を好きになったと。蔵馬はそう思っているのか?」 紺は小さく首を傾げる。 「それだけではないような気もいたしますがね。私ごときが言うのもなんですが、蔵馬様は言い寄られることには慣れていますが、言い寄ることには慣れてらっしゃらないですから」 ー魔界では、自分より強い者に媚びるのが普通なんだがな ー女も男も、俺に媚びて何もかも差し出そうとするやつらばかりだぞ。お前もそうしてみたらどうだ? そう言えば、蔵馬はそんなことを言っていた。 「……蔵馬は…本当に俺を好いていると思うか?」 「そうだと、思います。去る者は追わずの蔵馬様が、あなた様を連れ戻した時は驚きました。白緑の森には時折客人はありますが、二度いらしたのはあなた様が初めてです」 「俺だけ…?」 「ええ。長くお仕えしておりますが、あなた様だけです」 おまけに、盗み以外のことには面倒くさがりのあの蔵馬様が、ご自分で看病をなさるとは。あの毒はなかなか厄介なものでした。もちろん我々も手伝いましたが、あなた様は苦しがって散々暴れるわ吐くわで、大変でしたよ。なのに投げ出さずに看病なさるなんて。 言葉に出してはいませんけど、言い寄っているようなものだと思いますよ。 紺は何か思い出したかのように、くすりと笑う。 乾いた風。砂まじりの風が、俺の髪を、着物の裾を袖をはためかす。 侘びしげなのに、どこか力強さも感じる、風景。 「……紺」 「なんでございましょう?」 「俺も…盗賊になれると思うか?」 紺はちょっと驚いたように、目をぱちぱちさせる。 「盗賊になりたいのですか?」 「わからんが…守られているだけの花嫁になど、俺はなりたくない」 「ですが…危険な生業ですよ?」 「だからこそ、なりたいんだ!」 あふれる言葉を、紺にぶつける。 俺は蔵馬に、そして紺、お前たちに助けられてばかりだった。 だが、ずっとそんな弱い者でいる気はない。 俺を何も知らない餓鬼だと蔵馬が言うなら、この先、何もかも見てやる。 蔵馬と共に、俺はこの魔界を駆けてやる。 「俺は強くなりたい。蔵馬と同じように」 「…飛影様」 「蔵馬と一緒に、魔界中を見てみたいんだ。…できると思うか?」 困ったような顔をした紺が口を開きかけた瞬間、背後で戸が開いた。 長い尾羽をなびかせ、銀色の鳥が俺たちの頭上を羽ばたく。 「蔵馬様の使い魔です。銀、どうした?」 鳥は紺の肩に降りると、俺にはわからない甲高い言葉で何かを伝え、また障子戸の向こうへ飛んで行ってしまう。 「敵が、ここへ近づいています」 紺は俺の手をつかみ立ち上がらせると、障子戸を通る。 白緑の森に戻ると、紺は再び戸を開けた。 そこには、また違う風景が広がっていた。白緑の森とは種類の違う赤みを帯びた木々、今にも雨の降り出しそうな、湿っぽく、もやりと重い大気。 「ここで、待っていてください」 障子戸に手をかけたまま、紺は俺を白緑の森の側へ押し戻そうとする。 「俺も行く!」 「駄目です。敵が白緑の森を探しているんです」 「なら…!」 「ご心配なく。よくあることですよ。蔵馬様はいつも通り、ここまで引きつけて、一網打尽にするおつもりでしょう」 その言葉が聞こえたかのように、銀色の髪をなびかせ、飛ぶように走り、こちらに近づいてくるその姿。 障子戸を、紺の姿を見て、にやりと笑う。 「蔵馬…っ」 白く逞しい肩に、突き刺さった矢。 吹き出した血が、蔵馬の衣を染めている。 そんなことはまったく気にならないかのように、蔵馬は障子戸の前にすとんと降り立った。 血に濡れた手で、紺と同じように俺を白緑の森へ押し戻そうとする。 「引っ込んでろ、飛影」 弱い者を庇護してやろうという、その偉そうな態度に腹が立った。 かっとなった次の瞬間、雨のように降り注いでいた矢の一本が、またもや蔵馬の背に刺さる。 吹き出した血が、俺の着ている白い着物にも、跳ねかかった。 「あ……」 熱く、赤い血潮。蔵馬の血。 手が、震えた。 俺と紺とを背に庇うように、障子戸の前に蔵馬は立ち、近付いてくる敵の方に両手を掲げた。 「…っあ」 体が、熱い。 考えるよりも先に、体が動いた。 俺は紺を押しのけ、蔵馬の腰の両側から通すように、両腕を突き出した。 「飛影?」 体の真ん中に、炎が有る。 初めて感じた、感覚。 ようやく感じた、炎の息吹。 大丈夫。できる。 今なら…きっと。 息を深く吸い込み、握っていた拳を開いた。 「……ーーーっ!!」 手のひらから、炎が吹き出す。 炎は空で巨大な塊となり、まるで何かの生き物のように形を変え、凄まじい勢いで敵へ向かって飛んで行く。 十人ほどいた、えらく大柄で角の生えた男たちが目を見張るのが見えたのは一瞬で、あっという間に炎は何もかもを飲み込み、男たちを燃え上がらせた。 「ぎゃああああああああ」 耳をつんざくような叫びでさえほんの一瞬で、残ったのは、吹き飛ばされた木々と、炭のようにくすぶる、男たちの残骸だった。 …できた。 炎を、使うことができた。 炭のようにくすぶる、男たちの残骸。 もはやそれは、岩場に残された、ただの影だった。 …殺した。 俺が、殺したのだ。 ずるずると、蔵馬の衣にすがるように、俺は座り込む。 立って、いられない。なんだか、とても…眠い。 意識が遠のきそうになるのを堪え、蔵馬を見上げる。 二本の矢が突き刺さったままの体に、ぞっとした。 「くら…ま……矢が…」 「飛影、お前…」 炎、あれは龍の炎だ、飛影…おい…飛影… 何かを話しかけられていることはわかるが、もう目を開けていられない。 血に塗れた腕に支えられたまま、俺はその場で眠りに落ちた。 |