銀世界...8

「………馬鹿な」

認めたくはないが、声が震えた。
氷河の国が、氷女たちが、俺が帰ってくることを望んでいるだと…?

渡された文を、開く。

戻る?
氷河へ?あの氷の国に?

なぜ。どうして。
あれからひと月近くも経っている。今さらどうして。

「…読んでくれ」

手が震えて、何より俺にはまだ読めない字が多くあり、俺は蔵馬に文を返した。

「明晩、迎えの使者を送る。我等が子を戻されよ。貴殿がこれに背かれし時は」
「時は…?」

口をつぐんだ蔵馬が、俺を見る。

「時は、なんだ!?」
「…貴殿に捕らわれし我等が子の妹、雪菜を処刑する」

力が、抜けた。
襖の引き手をつかんでいた手が離れ、倒れ込みそうになった俺を、蔵馬が片手で支える。

「…どういう…こと…どういうことなんだ!?」

俺に戻ってこいと?
戻らねば雪菜を殺すと?
なぜ?一体どういうことなんだ!?

蔵馬は片手のままひょいと俺を抱き上げ、あぐらをかいた上に座らせる。
しげしげと文を眺め、何を思ったか、文のにおいを嗅ぐ。

「何を…」

爪の先にぱちっと小さな火を灯すと、蔵馬は文の余白を炙った。

「おい!」
「…見ろ」

黒々と墨で記された文の最後には、血で押したのかとでも思うような、どうやら氷河の紋であるらしい、赤い印があった。
その左側、僅かに残る、余白の部分に…。

“氷河へは戻るな。望むままに自由に生きよ”

真白い紙、炎に炙られたその部分。
そこには細く蒼い文字が、くっきりと浮き出していた。
***
朝がきて、昼がくる。
暮れる日が、夜が近付くことを知らせている。

あの手紙を受け取った昨夜から、召使いが運ぶ食事にも手を付けられずに、俺は縁側に座って庭を見つめていた。
二度と見ることのできないであろう、緑あふれる庭や素晴らしい香りの木々や花や陽射しを目に焼き付けることもできず、ただぼうっとしていた。

赤く輝かしい夕日が、遠い空に沈んでいく。
沈んで、しまう。

「お別れだな」

いつの間にか隣に座っていた蔵馬が、俺を見下ろし、言った。
氷河の国で着ていた着物はだめにしてしまったが、召使いが似たような着物を蔵から探し出してきてくれた。白い着物に、青い帯。しかし氷河のものとはだいぶ質が違うとわかる、なめらかな手触りの高価な着物。

「本当に、戻るのか?」

首を傾げ、蔵馬は尋ねる。

「あの隠し文を書いたのは、お前の妹じゃないのか?」
「………」
「文を届ける者が万一読んでしまう可能性もなくはない。だから名を記せなかったんじゃないか?」
「……さあな」

そうかもしれない。
けれど違うのかもしれない。
蒼の文字は墨で書かれた文字の筆跡とは明らかに違ったが、雪菜の文字を見たことはないのだから、それに意味はない。

氷女たちにとって雪菜は同胞で、俺は異端の者だ。俺が戻らなくとも、代わりに雪菜の命を奪う理由はないはずだ。
だからといって、その可能性に雪菜の命を賭けるなど、俺には絶対にできない。隠し文を書いたのが雪菜だとしても、俺は氷河へ戻るしかない。

「おい」

長い腕がのばされ、俺の髪を梳いた。

「なんだ」
「……逃がしてやろうか?」

いつもの、どこかふざけたような軽い物言いではない。
金色の瞳が、射貫くような強さで俺を見る。
白い肌が銀の髪が、夕日に赤く染まり、それは神々しい何かに見えた。

「俺なら…お前を匿うことも逃がすことも、できるぞ」

髪を梳いた手がそのまま下り、俺の左手の上に重なる。
大きくて熱い手のひらに、俺の手は包まれてしまう。

「……何を馬鹿なことを…氷女は執念深いんだろう?」
「ああ。それを知っている上で、逃がしてやるぞ。どうする?」
「お前に何の得がある?」
「ただの気まぐれさ。氷女ごときに命令されるのも面白くないしな」

一瞬たりとも心が揺れなかったと言えば嘘になる。
だが、選択の余地はない。雪菜の命がかかっているのだから。

「……俺は、帰る」

氷河へ、と言った声は、自分のものとは思えないくらいひび割れていて。

昨夜の記憶が、蘇る。
誰にも絶対に言えないが、今思うのは。

…こいつに、抱かれてしまえばよかった。
昨夜、あのまま肉の交わりをかわせばよかった、という我ながら呆れた後悔だった。

女を抱いて、酔っぱらって、そんなやつに抱かれたくなかった。
裏を返せば、そうでなければ俺は抱かれたかったのだ、この男に。

女のように抱かれたかったわけじゃない。ただ、この男とならしてもよかった。
他人の肉が俺の肉を押し広げ、他人と一つになる。その行為を、この男としたかった。

重ねられた手が、あたたかい。
他人の手。他人のぬくもり。今までもこれからも、氷河では決して得ることのできない、そのあたたかさ。
きっともう、誰かのぬくもりを感じることは、永遠にできないのだろう。

こいつは色狐だ。自分で言った通り、相手に不自由などしていないだろう。けれど愛されることは高望みだとしても、抱かれることは昨夜ならできたのに。
せめてこの先、氷河の国で生きていくための、思い出として。

美しい姿、甘く低い声。俺を小馬鹿にするような金色の瞳さえ。

…魅かれた。
この男に、魅かれていた。

どうしてもっと早く、気付けなかったのだろう。
二度と会うことは叶わなくなる、今この時ではなく。

「…別に、俺はお前に不憫がられる筋合いはない」

戻ってこいと言うのだから、俺が必要なんだろう。
なら、戻ってやるさ。

なんでもないことのように、俺は軽く言ってやる。

「今まで通り、あの国で生きていくだけだ」
「氷河の国の、牢獄でか」
「……ああ。そうだ」
「…そうかな?」

狐が、笑った。

けれどその笑みは、今までとはどこか違う。
長く生きてきた者特有の、苦々しい笑み。この先に起こることがわかっているかのような、苦い笑み。

「お前は忌み子だ。あの国にとって必要な存在ではない。なんのために、氷女たちはお前の帰還を望んでいる?」

答えられずにいる俺を、蔵馬が見つめた。

「…氷河の国に戻ったお前を、あいつらはどうするつもりなんだ?」
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