銀世界...6奇妙な日々だった。何人いるのかもよくわからない、見分けのつかない召使いが一日三度運んでくれる食事を食べ、朝になれば目覚め、夜になれば眠る。 あの時“手下”と呼んでいたやつらはこの屋敷には入らないらしく、見かけることもなかった。 初めて入った風呂には、感激というしかなかった。湯のあたたかさ、浮かべられた葉の香り。のぼせるまでつかり、二人の召使いに抱えられて布団にひっくり返った俺を、蔵馬は笑った。 盗賊稼業である蔵馬は、屋敷にいたりいなかったりだったが、ある日俺を、屋敷の書庫に案内してくれた。 床から天井まで、ぎっしり詰められた本。数え切れないほどの本。 暇だろう?好きに読んでいいぞ、と蔵馬は言ったが、俺が字はほとんど読めないと言うと驚き、暇な時だけだったが、字の読み方を教えてくれるようになった。 何も知らずに生きてきたと思い知らされたが、本を読むことは楽しかった。 暗い書庫を照らす蝋燭の灯の中に響く、甘く低い声。 字や絵を指す、長い指。 隣に座る俺の口に、時折、どこからともなく取り出した甘い菓子を放りこむ、大きな手。 森の中の屋敷は、迷ってしまうほどに広かった。 「ここは、白緑の森と呼ばれてる」 「…びゃくろくのもり?」 「濃すぎる緑が、あらゆるものに映りこむからさ」 確かに、驚くほど大きく色濃い木々が屋敷を囲み、池を、平たい石を、白い壁を、薄い緑に染めていた。 白緑という響きも、この屋敷に、そしてその主に良く似合っている。 綺麗な場所。綺麗な言葉。 大きな屋敷はとても静かで、けれどもそれは氷河の静けさとはまったく違っていた。 召使いが煮炊きや掃除をする、小さな物音。 風の音や木々の葉擦れ、緑の匂い。鳥の声や雨の音。 何よりも、あたたかい陽射しがたっぷり降り注ぐ、この場所。 ここを出たら、と俺は考える。 どこでもいい。あたたかな場所で暮らそう。 こんな立派な屋敷は望むべくもないし必要もない。あたたかな土地に小さな家を自分で作って、ひっそり暮らそう。 一人きりで、ひっそりと。 もう誰とも関わらずに、生きていこう。 隣で流れるように本を読んでくれる蔵馬を盗み見しながら、俺は小さく唇を噛んだ。 ***
三日ぶりに帰ってきた蔵馬は、ひどく上機嫌だった。なんでも長年狙っていた宝が手に入ったとかで、手下たちと盛大に祝杯を上げてきたらしく、酒のにおいをさせていた。 飲み足りないのか、月明かりの縁側に徳利を持ち出し、肴を運ばせ、寝そべる姿。 そしてその傍らには、見知らぬ女が三人、べったりとしなだれかかっている。 胸がむかつくような甘ったるい香のにおいを漂わせ、蔵馬の髪に、体に、唇に触れ、何がおかしいのか、くすくすくすくす、絶え間なく笑う。 女たちは蔵馬の体に触れ、自分の体にも触れてもらうことで高揚し、声を上げて体を絡ませ合っていた。 …性交。 書物を読めるようになったおかげで、もうそれがなんであるのかはだいたいわかっていた。 男の性器は形を変え大きくなり、上を向く。それを女の体の中へ入れる。体内に種を放出し、場合によっては種から子ができてしまう。 くそったれ男が、馬鹿な氷女を抱いた時のように。 俺には一生、縁のないことだ。 男として誰かを抱くことも、女として誰かに抱かれることも、ない。 女たちがさらりと衣を脱ぐ。白く盛り上がった胸にのばされた蔵馬の手。 ふいに吐き気がし、俺は目を背けた。 縁側から遠ざかり、部屋へ戻る途中の厠へ寄る。 しゃがむだけで感じる違和感と痛み。 指で触れたそこは、やわらかい肉と硬い傷跡とが、重なっていた。 …蔵馬が自分の屋敷で誰と何をしようが、俺には何の関係もない。 ここはあいつの屋敷で、俺はただの居候なのだから。 神経の繋がった右腕は痛かったが、それはもうじき治るしるしだ。ここを出て、自由に暮らすのだ。 あれほど憧れていた、自由な生活だ。 何を俺は、苛々しているのだろうか。 別に、性交なんか一生できなくとも、構わない。 あんなこと、馬鹿馬鹿しい、くだらないことだ。 他人と肉を交えるなど、気持ち悪いったらない。 部屋に戻り、すっかり慣れてしまった布団に包まる。枕元には、いつものように煎じた痛み止めと水が用意されていたが、今夜は飲む気にはならなかった。 腹を立てる理由など一つもない。 もうじきここを出て行く。 そして氷女のことも、この屋敷のことも、蔵馬のことも、忘れる。 ………雪菜の、ことも。 忘れなければならない。 忘れなければ。 ***
蝋燭を消した部屋は暗く、布団の中はあたかかかった。薬を飲まなかったせいで右腕がしくしく痛み、久しぶりの浅い眠りだった。 急に体の上に感じた重みに、驚いて目を覚ます。 「なんだ…っ!?」 先ほど嗅いだのと同じ、甘ったるい香。 布団の上から、蔵馬が覆い被さっていた。 「何してる…どけ!」 「あー。なんだ、お前かあ」 誰と間違えているのかと腹が立って、布団ごと押しのけ、素早く起き上がる。 転がされたまま笑っているところを見ると、相当酔っているのだろう。 「ひーえい」 「寄るな酔っぱらい!」 つかまれた足首を、振り払う。 「何怒ってるんだ?」 片ひじをついて畳に寝そべり、にやにやと俺を見る。 「何も。酒くさいから寄るなと言っただけだ」 「…へえ。一丁前に妬いてるのか?」 「なんだと…?」 誰が、何に、妬いていると!? この男は何を言っているのか。 「お前は、俺に媚びないのか?」 「媚びる?」 意味が、わからない。 なぜ俺がこいつに媚びなきゃならない? 「魔界では、自分より強い者に媚びるのが普通なんだがな」 「…だからなんだ」 「女も男も、俺に媚びて何もかも差し出そうとするやつらばかりだぞ。お前もそうしてみたらどうだ?」 いけしゃあしゃあと、この色狐が。 すっかり頭にきてしまった。 「貴様が誰と何をしようがが知ったことか!」 「まあな。誰も抱けないお前には関係ないことだな」 まただ。 またこの狐は、人を突き落とす。 あたたかい居場所や食べ物を与えてみたかと思えば、綺麗な顔で、優しい笑みで、平気で胸の一番奥を突き刺す。 だからなんだと言われればそれまでだ。 俺はこいつに、何を期待しているのか。 「一生誰も抱けないんだろう?つまらんな」 「………余計な…世話だ」 どうにか言葉をしぼり出し、ぎゅっと布団を握った俺に、信じられない言葉が投げつけられた。 「この楽しみを味わえないなんて気の毒に。せめて抱いてやろうか?」 |