銀世界...5辺りは一面の雪景色。雪を蹴散らし舞い上がらせて、逃げる女。 追われているというのに、女はどこかふざけているようにも見えた。 長い髪を、着物の袖を、ひらひらとなびかせて、女は走る。 まるで追っ手をからかっているかのように。 女の顔が見たくて、俺は必死で追いかける。 あと一歩、というところで、女が振り向いた。 白い顔、蒼い瞳。 驚いて立ちすくむ俺に、女が冷たく笑う。 手のひらにいっぱいの、氷のつぶて。 「…生きていたって、苦しいだけでしょう?」 雪菜は、哀れむような、蔑むような目で、俺を見る。 足元にあるのはただの雪のはずなのに、俺の足は凍りついたように動かない。 「死ねば、いいじゃない」 綺麗な唇から零れた言葉と、丸く硬く冷たいつぶてが、俺をめがけて飛んでくる。 「雪菜……!」 無理やり目を開け、夢から逃れる。 やわらかな場所で、目を覚ました。 何がなんだか、わからない。 けれど、もう一度うとうとと眠ってしまえば夢の続きに落ちてしまいそうで、必死で目を開ける。 すぐそこにまだあの夢があるようで、俺は震えていた。 …どこだ、ここは。 やわらかくあたたかい、布団の中。見覚えのない天井。 手をついて起き上がろうとしたが、できない。 右腕が、ない…? おそるおそる、布団の中を、探る。 右腕はあるべき場所にきちんとあったが、動かすことができず、感覚がない。 左手だけで体を支え、どうにか起き上がる。 薄い緑色の床のようなものが続く、広い部屋。 彫刻の施された、艶のある木の柱や天井。 綺麗な物がそこここに飾ってある部屋。 「誰だ…?」 部屋の隅に、頭の上にふっさりした茶色い耳を突き出させた、小さな生き物が座っていた。狐にも似たその生き物は、きちんと着物を着ている。 瞳孔のない奇妙な目が、何かを確認するように頷き、背後の戸を引いた。 「蔵馬様、目覚めました」 「ご苦労。下がっていいぞ」 その声に、誰の屋敷なのかようやく気付いた。 服を着た動物のような不思議な生き物はどうやら召使いらしい。音も立てずに部屋を出て行った。 「起きたか」 隣の部屋。座卓に向い何かを書き付けながら、狐は座っている。 顔を上げ、ふっと笑う顔は、腹が立つほど綺麗だった。 「……」 ここはどこなのか。 どうして俺はここにいるのか。 なぜ俺は、生きているのか。 …氷女たちはどうなったのか。 聞きたいことが山ほどあって、何から聞いたらいいのかわからない。 おまけにこんな状況でもひどく空腹で、眩暈がするほどだった。 「……氷女は、どうなった」 それだけは、どうしても聞いておかなければならない。 返事を待つのはほんの一瞬の間だったのに、恐怖に体が震えた。 「どうとは?氷河に帰ったさ」 あっさりと言う狐を見つめたまま、俺は固まっていた。 「帰った…」 間に合った、のか? 狐は何事もなかったかのように、傍らに積んであった書物から一冊抜き出し、また筆をさらさらと滑らせる。 俺は慌てて、掛け布団を払いのけた。 「おい…!」 「本当に何も知らないんだな、お前は」 筆を置いた狐は立ち上がり、布団の側まで来ると、どかっとあぐらをかく。 狐が続けた言葉は、俺を心底驚かせた。 「氷河から氷女をさらって、氷泪石を搾り取る?」 馬鹿を言うな。 氷河に手を出すのは、この魔界では数少ないご法度の一つさ。 下界に下りてきて捕まった氷女は別だがな。 氷河に侵入して氷女を捕まえるのは禁じられている。 なぜかって? そんなことが可能なら氷泪石は取り放題だ。氷女より強い妖怪はいくらでもいるんだからな。 それを許せば、氷女は絶滅してしまう。 絶滅しては氷泪石は二度と手に入らない幻の石になってしまうだろう? 「じゃあ…なぜあいつらは氷女をさらった…?」 「馬鹿だからさ。自分ならば禁忌を犯しても大丈夫だと自惚れている大馬鹿どもだからだ」 おまけにお前の牢の番をしていた氷女は殺してしまったんだぞ? まったく始末に負えない。だから、片付けた。あいつらはもういない。 自分の手下だった男たちだろうに、あっさりと恐ろしいことを言う。 「それじゃ……最初から…氷女を氷河へ帰すつもりだったんだな、お前は」 「ああ。法度を別にしても、氷女に手を出す気はない」 片方の眉を皮肉っぽく上げ、狐は俺を見る。 「氷女は執念深いんだ。何百年何千年も恨みを忘れない。絶対にな。恨み骨髄とはよく言ったもんさ。長すぎる寿命を持て余してるんだろうよ」 いくら力の劣る相手であっても、あの執念深さは相手にはしたくないね。 こっちは忘れていたって、あいつらは忘れるってことは絶対にないんだからな。 俺が手を下さなくとも、黄泉はいずれ氷女に殺されただろうよ。 「女は怖いもんだぞ」 あっけらかんと言い座卓に戻ろうとした狐を、左手で俺は力なく叩く。 「なんだ?」 「なんだだと…!? なぜ俺にあんなことをした!?」 布で巻かれた右腕はだらりと垂れ、まったく動かせない。 首筋から肩へも、奇妙な痺れがある。 「手当てはしてやっただろう。呪符も剥がしてやった。だいたいお前がくだらない嘘をつくからだ」 「嘘だと知っていたのか!?」 「まあな。しかし忌み子に会うのは初めてだったから、もしかしたら本当かもしれないと思って一応試しただけだ」 一応、だの、試した、だの。 心底頭にきたが、だからといってできることもない。 唖然としたまま、へたっと座り込む。 「それで…俺を殺さなかったのか?」 「ああ。お前も一応氷河の国の者だ。あいつらが返せって言ってきたら、お前も氷河へ帰してやるさ。今のところその気配もないけどな」 俺は思わず苦笑する。 「……そんな可能性はない」 「なら、どこにでも好きな所に行けばいいさ」 「なんだと…?」 どこでも?好きな場所へ? 好きな場所へ、行っていい…? 急にぽんと与えられた自由。 あれほど望んでいたものなのに、俺は途方に暮れてしまう。 雪菜。 雪菜に会いたい。 この先一生、雪菜に会えないなんて、そんなことは嫌だ。絶えられない。 …けれど。 そう思っているのは、多分俺だけなのだ。 つい先刻の、夢を思い出す。 俺という忌み子の兄がいなくなれば、雪菜は普通の氷女として、氷河で平穏に暮らせるだろう。 認めるのは辛いが、それが真実だ。 今までこんなやわらかな布団があるとは想像もしていなかった布団の上で、ぼんやりする。 どこへ行くのも自由だと言われた途端、行きたい場所も思いつかないなんて、お粗末な話だ。 「腕が治るまで、ここにいたけりゃいてもいいぞ」 「…治るのか?」 「しばらく経てば神経が繋がるし、ひと月もすれば使えるようになるさ」 神経が繋がれば、痛みも出るがな。痛み止めを煎じてやるよ。 そう言いながら、小さいが豪華な棚の引き出しから取り出した白い布で、狐が俺の右腕を吊るす。 首の後ろで布を縛るために近付いたその顔に、胸が騒めくのを抑えられない。 氷女たちだって、顔としては整っていたが、その顔はどれも精気がなく、降り積もる雪のようだった。 この狐は違う。作り物のように整っているのに、生きている力を感じる顔、体。 そういえば。 鏡…ここには鏡があるはずだ。 「おい!」 「なんだ」 「ここに鏡はないか!?」 「そりゃあるさ」 再び棚を探り、無造作に渡された鏡。 これまた彫刻の施された持ち手のついた鏡に映る、自分の顔。 「……………目が…赤い」 赤目だ。 狐の言葉を疑っていたわけではないが、俺は本当に赤い目だったのか。 大きな目はどちらかといえばつり目で、真っ赤だ。まるで血で色をつけたかのようだ。 黒い髪は短くて逆立っている。 美しいとはとてもいえない、生意気そうな顔。 …少しも、雪菜には似ていない。 氷女たちに、俺はまったく似ていないじゃないか。 布団の上に鏡をふせて置き、しみじみと溜め息をついた。 「お前、本当に自分の顔を見たことがなかったのか?」 「…ああ。初めて見た」 「自分がどんな姿をしているのかも知らずに生きてきたのか」 「……そうだな」 自分が雪菜に少しも似ていないということは、俺を心底がっかりさせたと同時に、諦めにも似た思いをわき上がらせた。 この姿を知ってしまうと、雪菜と共に生きる人生を夢見ていたことが馬鹿馬鹿しく思える。 あの真っ白な世界で、俺はどれほど異質な者に見えただろう。 「がっかりするな。そんなにひどい顔でもないぞ?」 「…何の慰めだ」 「真っ赤な目も可愛いものさ」 俺のことをみっともないと言ったその口が何を、と言いかけたが、先ほどの召使いと思しき者が静々と運んできた盆に、後の言葉は消えてしまった。 丸い朱色の盆の上には、見たこともない食べ物が並んでいた。 湯気を立て、いい匂いをさせていなかったら、食べ物なのだということさえ俺にはわからなかったかもしれない。 召使いは盆を狐の前に置いたが、狐は俺を手招きし、畳…というものだと教わった…の上に置かれた盆を俺の方に押しやった。 「食えよ」 米に、汁に、何品もの料理が並んだ盆。こんなにたくさんの食べ物を見たのは初めてだ。氷河での俺の食い物は、時折雪菜が差し入れてくれた食べ物を除けば、米と野菜の冷たい粥だけだった。 箸を持ってはみたが、利き手ではない左手では上手く使えない。 おまけに、どうやって食うのかもよくわからない物が並んだ盆。 「…貸してみろ」 驚いたことに、狐は俺の手から箸を取り、料理の器を持った。 「ほら」 口元に差し出された料理。 もう何日も何も食っていない。食べ物の誘惑に勝てず、俺は口を開けた。 これは、魚。 これは、豆腐。 これは、豆。 これは、茸。 説明をしながら、米の上にのせ、一口ずつ俺の口へ運ぶ。 ただ口を開けてそれを受け、夢中で咀嚼した。 雪菜がこっそり俺にくれた食べ物は、握り飯や干した柿、砂糖を煮詰めて固めた飴だった。どれも本当に嬉しかったが、今食っている物は全然違う。 信じられないくらい美味い食べ物。 あたたかい食べ物だ。食べ物があたたかいなんて、考えたことがなかった。 「美味いか?」 汁の入った腕を口元にあてられ、夢中ですすっていた俺は、はっとする。 腕なら左手でも持てるのに、何をしているんだか。 「美味いか?」 慌てて腕を受け取った俺に、狐がもう一度聞く。 これだけがつがつ食っておいて今さら不味いと言うのもみっともない。 無言で頷き、汁をすする。これにも魚と、不思議な香りの葉が入っていて、火傷しそうに熱くて、びっくりするほど美味い。 盆の上の料理が綺麗になくなり、狐が箸を置いた。 すっかり腹がくちくなり、眠くてたまらない。畳に寝転がった俺を、狐が笑う。 「寝るなら布団で寝ろ」 「いい…ここで」 この畳とやらの上で、十分だった。 氷女たちが、ちゃんと氷河に戻れたということ。 生まれて初めて見た自分の姿。生まれて初めてのあたたかい食事や厚い布団。 様々なことがどっと押し寄せ、起きたばかりだというのにひどく眠かった。 畳の上で丸くなった俺に、狐が自分の羽織を脱ぎ、ばさっとかける。羽織には狐の体温が残っていて、あたたかかった。 「お前、名はなんというんだ?」 「…飛影」 「忌み子なのに、いったい誰が付けたんだ?」 「……俺を産んだ女だ」 あの女が、生前に遺言として残していった名だと雪菜は言っていた。 母親、などと絶対に言いたくなかった。 寝惚けた頭でも、それだけはお断りだった。 「飛影、か。俺は蔵馬だ」 知ってる、と返すよりも先に、瞼が落ちた。 |