銀世界...4「……ぁ…ぁぁ……う、ぁ……っ!」艶のある床の上。 水を浴びたように汗を滴らせ、俺は百年ぶりの激痛にのたうちまわっていた。 手のひらに埋め込まれたものは、何かの種だった。 俺の手の中で芽を出し根を張り、腕の中をずるずると伸びていき、今や右腕をまるごと全部、侵食している。 筋肉や腱を突き抜け、呪符を貼られた皮膚の下でぼこぼこと暴れ、成長している、植物。 あたたかいはずの部屋で、全身に鳥肌が立つ。 「……っうあぁ…っ!!」 何箇所かは皮膚の外へも芽吹き、血が噴き出す。 時折、神経に触れるのか、びりっと全身に響くような痛みが右腕を貫く。 肉や皮膚を引き千切られる痛みとは全然違う、凄まじい痛み。 百年前と違うのは、俺はもう赤子ではなく、目の前にいるのが老婆たちではなく、一匹の狐だということ。 この苦痛は治まることはなく、どんどん激しくなるだけだということ。 そして、今度は絶対に、泣くわけにはいかないということ。 ぼんやりと目を潤ませる液体が乾くように何度も頭を振り、跳ねる右腕を押さえつける。昼間だというのに窓のない部屋は薄暗く、大きな蝋燭が一本だけ灯されていた。 痛い。苦しい。 息を吸っても吸っても、空気が体に入っていかないようで、静かな部屋に俺の乱れた呼吸だけが、いやに響く。 皮膚の下で、肉が波打つ。 右腕を、切り落としてしまいたい。 「ひ…っぁ…ぁ…ぁ…うぁぁ…っ!!」 いったいどれだけの時間が必要なのだろうか。 朦朧とする頭で、無駄だとわかっていつつも、考える。 氷河の国へあいつらが戻るには、空を飛ぶ生き物を使うか、結界で繋がっているという下界の入口から入るかの、二択しかないはずだ。 逃亡している身で空を飛ぶ生き物を調達できるとも思えないが、下界の入口は氷女しか通ることはできないと以前に雪菜から聞いていた。そこまでたどり着けば、氷河に戻れるはずだ。 「ああ!!!!」 びしっと音がし、羽織った着物を突き抜け、肩からも細く鋭い芽が飛び出した。 痛みのあまり気を失いそうになり、必死で唇を噛む。 「三刻、経ったな」 狐の、やわらかな声。 盃を片手に、読んでいた本から顔を上げ、にっこり笑う、その顔。 この部屋は俺の汗と血とで嫌な臭いがしているというのに、優しげにさえ見える笑みを浮かべるこいつが、怖かった。 まだ、三刻。 氷女たちは今どこにいるのか。もう逃げ切れたのか?まだ氷河へはほど遠いのか? 何もわからずに、後どれだけの時間が必要なのかもわからずに、俺はこの苦痛に耐えなければならないのか? そもそも、耐え切れる、のだろうか。 肩に飛び出した芽は、また中へ潜り、さらにいくつもに分かれて伸び、首や胸のあたりにまで来始めている。 鎖骨の下を根がうねり、目の前に痛みの火花が散る。 「ひぃぃっ!! うああ!! あ!あーーっ!!!!」 俺の核は、胸のちょうど真ん中だ。 ここまでこの奇妙な植物が到達したら、どのみち生きてはいられない。 「…ぁ、あぁ……っは」 目が、潤む。 精神を律したところで、あまりの痛みに生理的な涙が滲む。 くそ! 後どれだけだ? どれだけの時間を稼げる!? どれだけの時間を稼げばいいというんだ!? これで捕まった十人の中に雪菜がいなければ、心底馬鹿馬鹿しい。 あんなやつらのために、こんなに苦しい思いをして死ぬなんて、本当に無駄死にもいいところだ。 あちこちから突き出した芽のせいで、白い着物がだんだん紅色に染まっていく。 「氷河の国は…」 静かな声に、俺は顔を上げた。 いつの間にやら本を閉じた狐が、俺を見つめていた。 「氷河の国は、年中凍りついている国だろう」 寒くて、暗くて、陰鬱な国さ、氷河は。 あの女たちが何を楽しみに生きているのか、俺にはさっぱりわからんな。 美味い食い物も綺麗な服も綺麗な物も綺麗な景色も、男と交わる楽しみもない。 かといって、女だけで和気あいあいと楽しげに暮らしているわけでもない。 氷泪石を造って売って、国を潤わせようという風にも見えない。 本でも読むように、狐は続ける。 「お前たちは、いったい何が楽しくて生きているんだ?」 嫌味でもなんでもなく、ただ疑問を口にしただけだという、その口ぶり。 「…………さあ。俺にもわから…ん、っぅ…」 返事をする義理もなかったが、何か喋っていればこの痛みから少しは気を紛らわせられるかと、俺はぽつりと返事を返す。 「俺は…生まれた時から……檻の中…ひっ……だっ…た」 切れ切れに、言葉を押し出す。 金色の瞳が、俺にじっと注がれる。 「寒くて…暗くて…………嫌な、場所…っぁ、痛ぅっ……うぁ」 「…続けろ」 なんだか、朦朧としてきた。 血で濡れた体が、冷たくて…寒い。 「寒くて…何もかもが……凍りついていて…女たちはみん…な…青白い顔をしてた…」 あいつらはみんな似た顔をしていて、同じ服を着ているんだ。 自分の顔も見たことがない俺が言うのも、おかしな話だけどな。 自嘲めいたものが込み上げてきて、少しだけ笑った。 「……あいつらが…何が楽し…ひぁ…っ…わか…らん…」 狐は黙って、俺の話を聞いていた。 けれどもう俺は話すことさえ、苦しくて。 「それで?」 「もう……話す…ことはな、い……ぁ…ぁ」 胸のあたりにぞわぞわと痛みが広がり始めた。 とうとう俺は、目を閉じた。 やるだけのことは、やった。 あとは、もう。 「それで?お前が助けたいのは、姉か?妹か?」 驚きに、痛みも忘れて飛び起きた。 途端にまた、数箇所から皮膚を突き破って飛び出した芽に悲鳴を上げて、再び床に突っ伏す。 「うあああ!!!! ああ!! っああーーっ!! あ…あぅ……っな…んで?」 「なんで?簡単なことだろう?」 お前は、忌み子だ。 去勢され、檻に閉じこめられていたんだろう?氷女たちには恨みしかないはずだ。 そしてお前が存在する以上、お前の母親はもう生きてはいない。 ということは、以前に母親が産んだ子…つまり姉か、あるいは同時に生まれた姉か妹だ。 お前が助けたいと思う氷女なんて、それくらいだろうが。 「違うか?」 「………」 何も返せずに目を泳がせる俺に、狐が最後の矢を放った。 驚きに無防備になった俺の中に、いともたやすく。 「そして…もしあの十人の中にお前の姉妹がいるのなら」 そいつは、お前を捨てて逃げた。お前の生死を確かめることすらせずに。 お前はここで自分を犠牲にしてあいつらを逃がしたが、お前の姉妹はそうしなかった。 あるいは、あの十人の中に元々お前の姉妹はいなかったか。 「そういうことだろう?どちらにしろ、お前のやっていることは、ずいぶんと惨めなもんだな」 狐の手元を照らしていた、紫色の蝋燭の炎が、大きく揺れる。 風もない部屋で、 炎は、揺れた。 揺れて、見えた。 …違う。 揺れたのは、炎じゃなくて。 ぱた。 自分の手の甲に、滴が落ちる。 ぱたぱたぱたぱた、 切りもなく、落ちる。 後から後からあふれた涙が、宝石になることもなく、 ただ頬を伝い落ち、俺の手を、床を、濡らした。 止められ、なかった。 「遊びはお終い、だな」 狐は本を閉じ、蝋燭をふっと吹き消した。 あたりに、薄闇が広がる。 「……?」 「くわえてろ。舌を噛むなよ」 口の中に、丸めた布のようなものを押し込まれる。 肩に、大きな手が触れる。 狐が何をしようとしているのか気付いた時には遅かった。 衝撃に、上下の歯が勢い良く布を噛む。 悲鳴はそのまま、布に吸収される。 得体の知れない植物が巣くう肩や胸へと妖気を流し、俺の体内から飛び出していた芽を、狐は力任せに引きずり出した。 |