銀世界...2微睡んで、いた。この寒い国で、ぐっすり眠れたことなど一度もなかった。 氷河の国ではやむことのない雪が、月の光を反射し、牢獄の床をわずかに照らす。 微かな、けれど異質な物音に気づき、寝台に身を起こす。 何かが、本能的な何かが、何者かが近づいていることを知らせていた。 「おい、何か音が…」 檻を背に直立不動の姿勢で立つ女に、声をかけ… 一瞬だった。 それは本当に一瞬の出来事だった。 大きな影が、牢獄へ飛び込んできた。 「ぎゃああああああ!!!!」 番の女は氷の剣を構え、玉にした氷を敵へ放ったが、舞い込んできた影は目にも留まらぬ早さで女の首を飛ばした。 断末魔の叫びが、石でできた牢獄にこだまする。 動く影はこの牢獄には一つだったが、外にはたくさんの異質な気配。ざわめき。 壁一面の血潮が、雪明かりに赤黒い。 一体、何が。 どうした。どうしたっていう… 「なんだ。大層な檻だな。お宝かぁ?」 ぎょっとした。 影は檻に手をかけ、にやにや笑っている。 男……? 男が…いる。 初めて見た“男”という生き物だったが、そいつが“女”ではないことはすぐにわかった。 いくつもの角が生えた、男。 手に持った大ぶりの剣は血塗れで、肉片さえもまとわせている。 「おい!黄泉!引き上げるぞ!」 「行くぞ!」 「たまらんな!! 氷泪石だらけだぜ!」 何人もの男たちの怒鳴り声。 遠く聞こえる、氷女たちの悲鳴。 賊だ。 氷女の造り出す石、氷泪石は高価な宝石。 こいつらは氷泪石狙いの、盗賊だ。 氷女以外の妖怪が氷河に入り込むことはできないはずなのに、なぜ。 「わかってる!今行く!」 立ち去るのかと思った男は、剣の一振りで檻にかけられた結界を消し飛ばし、俺の手をぐいっと引いた。 「てめえも来い!!」 「な、放せ!」 「うるせえ!今ここで首を飛ばされてえのか?」 俺は丸腰で、そうでなくとも腕の呪符のせいで無力極まりなかった。 抵抗らしい抵抗もできずに、布で口と手足を縛られ、男の肩にひょいと担がれる。 「よし!引き上げるぞ!!」 男の走りは尋常でない早さだった。 飛ぶように走り、見たこともない生き物に乗り、結界をやすやすと破り、氷河の国を飛び立つ。前を行く男たちも、いったい何が入っているのか、みな大きな袋を抱え、同じように飛び立って行く。 外の景色を夢見ていた年月が、あっという間に消え去る。 男に担がれたまま、流れるような早さで俺は見た。 長いこと夢見ていた“外の世界”を。 なんという哀しい世界だろうか。 氷河の国は、何もかもが鈍色で、寒くて冷たくて凍てついた、 ひどく寂しい世界だった。 ***
初めての外界。初めての、氷女以外の妖怪。男という生き物。 初めての、雪のない世界。 木々が枝をのばす夜空、満点の星。 緑の折り重なる、深い森。 結界で隠された、小さな館。 こんなに大勢の男たちが入れるような館には見えなかったのに、中はえらく広くて、何十部屋もあるようだ。 それはつまりなんらかの妖術が施されているということなのだろうか。 剣、弓、見たこともない、物、物、物。 初めて見るものばかりに囲まれて、俺は混乱し、きょろきょろしていた。 館はあたたかくて、それだけでも俺はすっかり興奮していた。 生まれて初めて見る炎が、部屋の真ん中で赤々と焚かれていた。 その明るさとあたたかさに、思わずうっとりしてしまう。 ずっと体に張り付いていた氷が溶けるような、そのあたたかさ。 「戻ったぞ!酒を用意しろ!!」 いかにも酷薄そうな顔をした男、まわりのやつらに黄泉と呼ばれていた男がそう叫び、乱暴に俺を床へ落とす。 木の床の感触にも、俺はまた驚いているだけだった。 「蔵馬」 大きな部屋の奥、一段高い場所で本を読んでいたらしい男が、顔を上げた。 「戻ったのか、黄泉」 長い髪をかき上げ、こちらを振り向いた男。 とくとくと脈打っていた俺の核は、胸の中で一層大きく跳ねた。 真っ白い、肌。 それは氷女を見慣れている俺にも、白く見えるほどの白さだ。 しなやかに、大きな体。長い手足。 銀色の髪はとても長く、同じ銀色のしっぽや耳。それは雪菜のくれた本の中にあった生き物に似ている。 これは“狐”だ。この妖怪は狐の種族なのだろう。 あの、金色の瞳。 整いすぎた顔の仕上げをするような、金の瞳。 赤い炎の向こうに、銀色と金色で造られた、妖怪。 こんなに綺麗なものが、存在するなんて。 食い入るように見つめていた俺の視線に気づいたのか、ゆっくりとそいつは俺を見る。 金の目が眇められ、薄い唇が溜め息をこぼす。 「…黄泉。なんだそれは」 「帰り道で氷河の国へ寄ってきたぞ」 寄って、という言葉には明らかに馬鹿にした響きがあった。 氷の国でひっそり暮らす者をあざ笑っているのか、自分より力の劣る種族を笑っているのかはわからなかったが。 「氷河の国に?」 「ああ。お前への土産に氷女を十匹ほどさらってきたぜ」 下品に笑う男に、狐が眉をしかめたが、俺はもうそれどころではなかった。 氷女を、十匹だと? 背筋がぞくりとした。 男たちの背負っていた大きな袋を思い出す。まさか中身が氷女だとは思わなかった。 こいつらは、まるで積み荷のように氷女を袋に詰めてきたのだ。 十人の、氷女。 その中にもし、雪菜がいたら!? 「氷河の国には手を出すなと言ったはずだ。氷女なんぞに、用はない」 狐ははそっけなく言うと、本に視線を戻す。 「なんでだよ?生かして盗ってきたんだぞ?たんまり氷泪石が採れるぜ?」 「不要だ。金に事欠いてなどいない。辛気臭い宝石にも興味はない。お前もそれはわかっているだろう」 「じゃあこいつはどうだ!? こいつだけ仰々しく檻に入れられてたんだ」 襟をつかまれ、狐の目の前に突き出される。 縛られたままの足が、宙に浮く。 二回目の溜め息。 これ以上くだらない話に読書を邪魔されたくない、と言わんばかりの溜め息だ。 「確かに、特別だな」 「ああ。檻に入ってご丁寧に結界まであ…」 「そいつは、氷女じゃない」 その言葉に、俺はびくりとする。 自分が女でないことはわかっていたが、それでも俺は氷女の産んだ子だ。 「黒髪赤目の氷女など、いない」 すっと優雅に立ち上がった男が、俺に近づく。 俺を見下ろす長身に、思わず息を飲む。 口を縛っていた布を外され、顎をつかまれ、上向かされた。 「…こいつは氷女じゃない」 「はあ?なんだよそれ。こいつは氷女じゃないってのか?」 「ああそうだ。違う。こいつは…」 ぐっと襟元をつかまれ、着物が乱れる。 むきだしになった平らな胸や、腕に巻かれた呪符に、角の生えた男は驚いたように俺を見る。 「……っ」 つかんだ襟元を引かれ、俺は床に転がった。 伸びてきた長い腕を止めたが、無駄だった。縛られたままの手足でばたついたところで何ができよう。 狐は片手だけで、やすやすと帯を解き、手足を縛る布も外す。 「……あ!!」 バサリと着物を脱がされ、全裸にされた。 片足をつかまれ、大きく足を広げられ…。 見られる。 見られて、しまう。 この綺麗な生き物に。 あんなに、醜いものを。 「やめろ…っ!」 「穴は一つ。尻の穴だけだ。おまけにこの…」 長い指がまがい物の性器の襞をめくり、ぎりっと奥をつねった。 「ぃひいっ!! ぐ、うあ!!」 体の中心を突き抜けた激痛に、思わず声が漏れる。 「偽物だ。去勢された雄だ。見ろ、このみっともない体を」 みっともない体。 それは氷女たちからも何度も言われた言葉だったが、氷女たちには俺に対する憎しみと嫌悪があった。 何の感情もこもらない狐の平坦な言い方が、ぐさりと胸を刺す。 「…忌み子だ。俺も見るのは初めてだがな」 禁忌を犯して、男と交わった氷女が産んだ男児さ。 普通は殺されるんだがな。なんで生かしておいたんだか。 狐は、淡々と続ける。 「こいつは氷女じゃない。氷泪石も造れない、ただの出来損ないだ」 |