銀世界...1窓というより、それは壁に開けられたただの穴のようなもので、見えるのは四角く切り取られた空。空は小さくて、手をのばしても到底届かない高いところに、あった。 それでも俺は毎朝毎晩、その高い窓に向かって、手をのばしてみた。 見上げた窓の景色はいつだって鈍色の空ばかりで、重く冷たい雪は途切れることもなく、いつまでもいつまでも降り続いていた。 ***
痛み。途方もない、とても耐えきれない、痛み。 体に突き立てられた、鋭い氷の刃。 喉が裂けるほどに泣き叫んでも、俺を押さえつけるいくつもの手の力は少しもゆるまなくて。 それが俺の覚えている、一番古い記憶だ。 この冷たい世界に産み落とされてすぐに与えられたのは、食べ物でも言葉でも誰かの手でもなく、恐ろしいほどの、痛み。 ただ、それだけだった。 ***
霜に覆われた檻。粗末な石の寝台やその上の薄っぺらい寝具。いったいここで、どれだけの時が経ったのだろう。 季節の変わらないこの国では時間の経過すらも定かではないが、多分もう百年近く、何一つ変わらない。この檻の中は。 色のない、冷たい檻の中で、俺は今日も震えていた。 寒い。 どうして、こんなに寒いのだろう。 俺に与えられている衣は氷女たちの着ている物と同じ、白く硬い布でできた着物と色褪せた水色の帯だった。 手も足も縮めて、できるだけ布の中に逃れようと丸くなっているというのに、寒さは骨の髄までしみるようだ。 俺の世話、といっても日に一度の食事を持ってくるだけの氷女たちの一人に、一度だけ寒さを訴えたことがある。 同じような顔をした女たちの一人だったその女は、蔑みと憎悪とをくっきりと刻んだ蒼い目で俺を見下ろすと、それはお前が汚れた、男という生き物だからだ、と吐き捨てた。 生かしてやっているだけでもありがたいと思え、この汚らわしい、化け物が。 鬼のような顔をして女は言うと、粥の入った器を、俺に向かって力いっぱい投げつけた。 自分がどんな顔をしたのかはわからなかったけれど、きっと俺は女を睨んでいたのだろう。 「…化け物の分際で、なんだその顔は」 片頬だけの嫌な笑いを浮かべ、女は続けた。 「生意気なことよのう。雪菜に会えなくなってもいいと申すか?」 俺は女から目をそらし、唇を噛んだ。 それが俺の答えだった。 それっきり、俺は何一つ文句を言ったことはない。 雪菜と会わせてもらえる時間は百日に一度、半刻しかない。 その時間を奪われることは、耐えられなかった。 俺の、妹。 妹が生きていて、俺の名を呼んで、俺に話しかけてくれる。 その時間のためだけに、俺は生きていた。 ***
「兄さん。…飛影」氷女らしくない、やわらかい声が、俺を呼ぶ。 呼ばれて目を覚ましたかのように、俺はさも眠そうに起きあがったが、本当は何日も前から夜も眠れずに待っていた。 百日に一回だけの、妹と会える時間を。 「寝てたの?飛影」 そうだ、それが俺の名だ。 俺の名を呼ぶ者は、この世にたった一人しかいない。 「雪菜…」 氷女たちはどいつもこいつも同じような顔をしているし、雪菜とて似たような顔をしている。 けれど、俺にとっては特別だった。 檻ごしに、俺たちはぽつぽつと話をする。 畑で野菜を育てているという話。 氷った湖で小さな魚を穫るという話。 乾かした草で紡いだ糸で織物をするという話。 いつ聞いても、変化のない単調な話。 氷女たちの生活は豊かそうでも楽しそうでもなかったが、生まれてすぐにこの牢獄に閉じこめられ、外の景色は小さな窓から見える空だけの俺にとっては、遠い異国の話を聞くような気分だった。 番をする女によっては、雪菜はそいつに金や物を握らせ、二人きりの時間を作ってくれた。俺にこっそりと、握り飯や飴玉や本をくれることもあった。 飴玉はもったいなくて食べることができなくて、寝台の下に今も隠してある。 色の悪い紙でできた小さな本は、絵とほんの少しだけの文字が書かれたものが多かった。俺はあまり字が読めなかったから。 絵は、不思議なものだった。 見たこともない妖怪や動物。花や木々、雨や空や月。自然の風景。 数冊の本を、俺は毎日毎日、擦り切れるまで眺めていた。 外へ、出たい。 外へ出て、自由に歩き回って、本に描かれたものを見てみたかった。 この檻の中では、床はざらついた灰色の石だ。 俺は土を踏んだことさえ、ない。 雪菜と一緒に、暮らしたかった。 雪菜と一緒に、生きたかった。 外の世界で、生きてみたかった。 そんなことを俺が言い出せば、雪菜は困った立場になる。 そもそも俺という兄がいること自体、雪菜は他の氷女たちに多かれ少なかれ虐げられているはずだ。 雪菜のそばにいたい。まるで普通に生まれた双子の姉妹のように。 それができるのならば、一生をこの氷の国で凍えながら過ごしても、いい。 口には出したことのない願いに、胸が焼け焦げそうだった。 半刻が経ったことを告げる番の女の声に、俺は無言で両腕を差し出した。 雪菜もまた無言のまま、俺の腕から汚れた呪符を剥がし、懐から取り出した新しい呪符に取り替える。 妖気を封じるこの呪符の効果は、百日。 呪符を取り替えるこの時こそが唯一、俺がここから逃げ出す可能性のある時だ。 だが、俺はそれを試みたことはないし、この先もしない。 俺が生まれてこの方、それは雪菜の役目だったからだ。 雪菜を傷つけ、ここを逃げ出すことなど、考えられない。 綺麗に呪符を巻き終えた、腕。 肘とそのまわりとが、禍々しい文字の書かれた呪符で包まれている。 俺の指先に、雪菜が冷たい口づけを落とす。 「またね、飛影」 立ち上がった雪菜が、ふと俺を見る。 俺の吐き出す息は白く、俺は寒さに凍えている。 雪菜の吐き出す息にはなんの色もなく、当たり前だが寒さなど微塵も感じてはいないようだった。 ほんの数秒、俺たちは無言で見つめ合う。 その眼差しから逃げ出すように先に目をそらしてしまうのは、いつだって俺の方だ。 …わかっている。 雪菜の望むことがなんなのか、俺はとっくに知っている。 雪菜の望みは、俺の死だ。 氷河の国という元々閉ざされた世界で、さらに閉ざされた場所で、惨めに生きている兄が死ぬことを、雪菜は願っている。 それは俺のために願っているのだということも、わかっている。 この寒い牢獄で一生凍え、ただ生かされているだけの哀れな妖怪の死を、その妖怪のために、雪菜は願っているのだ。 いっそ死ねば、楽になれるのに、と。 生きていたって、苦しいだけでしょう、と。 ***
俺と雪菜の、母親。氷女の禁忌を犯し、男と交わり、俺たち兄妹を産んだ女。 俺を産むことと引き替えに、命を捨てた女。 氷河の国から地上へ落とすという処刑から俺を逃れさせようと、自分の命を代わりにと懇願した、母親の親友だとかいう女。 二人の女が、かつていた。 どちらも今は、もうどこにもいない。 感謝? 哀れみ? 冗談じゃない。 母親が、そしてもう一人の馬鹿女が生きてここにいたら、俺の手で殺してやるところだ。 あの女たちは、生かされた俺がどんな目にあうか、ほんの少しでも考えてはみなかったというのだろうか。 本当に頭の悪い、馬鹿女どもが。 男をこの国に置くわけにはいかないと、生まれたその日に性器を切り落とされ、縫い合わされ、地獄のような苦しみを味わった。 出血も痛みも治まらずに、激痛に泣きわめく赤ん坊だった俺の両腕を、氷女たちは呪符で覆い、結界をはった牢獄に投げ込んだ。 俺の父親だったろくでなしは炎の種族だった。 相手の女が死ぬことがわかっていながら、そして生まれる子供が処刑されることがわかっていながら氷女を抱いた、くそったれ男。 氷河の国の寒さは、炎の妖気を持つ俺の体にはどうしようもなく、辛かった。 両腕に巻き付けられた呪符に妖力を封じられているせいで、炎の種族の妖怪のくせに、火を熾すこともできない。 寒くて、寒くて、寒かった。 本当に、寒さがこれほどの苦しみになるとは、思いもしなかった。 冷たい寝床、冷たい粥、冷たい水。 飲む水も、浴びる水も、氷のようだった。 残ったわずかな肉で、外側だけを女に似せて乱雑に縫い合わされた性器は醜くよじれている。 女のようにしゃがんで用を足す度に、今でも鋭い痛みに身がすくむ。 あの女たちを、許すことなど、一生ない。 絶対に、ない。 氷河の国の氷女たちを全部合わせたよりもまだ、あの女たちの方が、憎い。 |