mama...6…四十四夜目…『敵襲!敵襲!』 「…またか?まったく最近馬鹿が多いな」 女王様の呟きに、司令室に居合わせた者たちはひっそりと笑った。 「たまにはオレが外に出て相手をしてやろうか?」 「ご冗談を。躯様の相手になるような者はおりません」 「…つまらんな」 他人に指示を出す役目など、面白くも何ともない。とはいえ相手になるような敵もいない。 躯は煙管に火をつけ、深々と吸い込む。 「後はまかせたぞ」 司令室を出て、自室に向かう。 つまらん。退屈だ。 風呂でも入って、寝るとするか。 大あくびをしながら、煙をたなびかせ廊下を歩く。 パトロールのこの時間はいつも、廊下には人気がない。 だが、人気のない廊下に黒い影が見えた。 「…?」 廊下の壁際にうずくまって体を震わせているのは、飛影だった。 いつもの黒いマントに身を包み、激しく震えている。どうやら嘔吐した直後だったらしく、真っ青な顔をし、足下には吐瀉物が広がっていた。 「おい!…どうした!?」 「な、んでも…ない…」 「なんでもないが聞いて呆れるぜ」 そう言いながらも躯は飛影の腕をつかんで立ち上らせてやる。 「…お前、痩せたな?」 マント越しでもその腕が痩せたのがはっきり分かった。 そういえばこいつと最近手合わせはしていない…?いや、顔を合わせる事も滅多にないんじゃないか…? 躯がそこまで考えた所で、飛影が手を振り払った。 「…気のせいだろ」 「へえ。じゃあここでゲロ吐いてんのも気のせいか?」 「…何日か前に…毒のある実にうっかり触ったんだ。…多分そのせいだ」 「ならさっさと時雨の所へ行け。魔界ではそういうくだらん事が命取りになるといつも言ってるだろう。ああ、植物ならお前の狐の方が専門じゃないか?」 その言葉に、飛影の表情が、すうっと消える。 やっぱりケンカをしたのか。 今回は長引いているらしいな。やれやれだ。 躯はわずかに苦笑する。 「時雨の所へ行け。あちこちで吐かれてちゃこっちが困る…お、いい所に来たな、時雨!」 シャラン、という音がし、相変わらずいかつい男が現れた。 「…お呼びでしょうか、躯様」 「ああ。こいつ診てやれ。変なもんに触ったらしい」 それだけ言うと、躯はさっさと自室に戻ってしまった。 時雨の視線が、冷たく飛影を見下ろす。 飛影は手の甲で口元を拭い、その視線から目を反らした。 ***
時雨の管理している医務室で、手や顔を洗い、汚してしまった服を脱ぐ。裸身を見つめる時雨の視線は、痩せてきた手足とは対照的に、僅かだが丸みを帯びてきている飛影の白い腹部に集中していた。 「横になれ、飛影」 「…診てくれと頼んだ覚えは無い」 「診るだけだ。何もしない」 飛影は不審そうな眼差しを時雨に注いだが、それ以上文句は言わず、小さな寝台に横になった。 痩せたせいか白い裸体は寝台の上で、以前よりもさらに小さく見える。 時雨の指が腹部を滑る。 武骨な指には似合わない繊細な動きで体の表面を這い回る、その指。 冷えきった手足。熱い腹部。 少し躊躇った後、時雨の手が横臥している飛影の足を広げさせた。 「っ!何を…!」 「力を抜け」 油を塗られた一本の指が、出来るだけ苦痛を与えないよう、飛影の体内にそっと挿入される。 「っ…!」 体内を、ゆっくりと探る指。 それは決して乱暴な行為ではなかったのに、どうやら飛影には苦痛らしく、小さく呻き声を漏らした。 「ぁっ、っぐぅ…!」 ズルリと抜き出された指は、鮮血で真っ赤に染まっていた。 「…飛影、諦めろ」 「何、の…話だ?」 まだ引かない苦痛に息を荒げたまま、飛影は時雨を睨みつけた。 「諦めろ。今の時点でこれでは、体が持たん。…お主には無理だということだ。今ならまだ堕胎も可能だ」 「…貴様に心配してもらう筋合いはない」 「約束しただろう。無理なら諦めると。躯様になんと説明を…」 「躯にも、貴様にも関係のない事だ。貴様に頼んだのは、手術をすること。ただそれだけだ」 「…約束を守る気は、最初から無かったという訳か?」 時雨は手近にあった、自分の服を渡してやる。 「…やつは…お前の狐は、死んだんだな?」 飛影は寝台を降り、何も答えず、なめらかな動作で服を着た。 「そうまでして、やつの子が欲しいのか?」 「……」 「いくらやつの種でも、子は子だ。やつではない、別の生き物だ。分かっているのか?」 「……そうとも、限らんぞ」 「何…?」 しばらくの沈黙の後、時雨は目を見開いた。 「まさか…!? お主…」 「…そのまさかだと言ったら、どうする?」 ニヤリと笑った飛影の紅い瞳には、狂気の炎が宿り始めていた。 ***
…六十一夜目…潮時だ。 もう百足にはいられない。 ベッドに横になったまま、額に滲む汗を拭って、飛影は決心する。 闘技場でも見かけない、戦闘にも参加しなくなり、パトロールの割り当て時間以外は自室に閉じこもるようになったナンバーツーを不審に思う者は少なくない。丸く膨らんできた腹部はまだマントを着ていれば隠せるが、体調不良は隠しおおせなくなってきた。 今までは気付きもしなかった様々な生き物の汗や血の臭いに、魔界の臭い全てに、吐き気がする。内臓を押し潰されるような腹の痛みも日に日にひどくなってきた。手合わせどころかパトロールに出かける事さえ辛い。 自分の部隊の者は口には出さないが訝しんでいるし、いい加減、他の部隊の者たちにも噂は広がり始めるだろう。 そうなれば躯に知られるのは時間の問題だ。 しかも躯には、急に襲われた痛みと吐き気に耐え切れず廊下で嘔吐した所を、間が悪く見られている。 …もうここにいるわけにはいかない。 ようやく震えのおさまった体で立ち上がり、部屋の隅に投げてあった皮袋を取る。 風呂場にあった華奢な瓶や、いくつかの宝石、少しの服、小さな箱。それと小さな鍵をその中に放り込む。 この鍵を蔵馬に貰ったのはずいぶん前の事だ。 お前の妖気と、この鍵で、オレの隠れ家は全部お前にも開けられる。好きに使っていいよ。 蔵馬はそう言って笑ったが、あの時すでにこうなる事を知っていて渡したのだろうか? 自分の形見に、と? 袋の口を、ぎゅっと縛る。 詰めたのは、蔵馬に貰った物だけだ。 帰る場所などなかったオレにとって、ここは唯一の自分の部屋といえる場所なのに、この部屋から持ち出したい物は多くない。 飛影はそう考えて、笑う。 体調はいいとは言い難い。 なのに我ながらおかしいほどに、気分が高揚している。 要るものは、何もない。 要るのは、この自分自身の体だけ。 腹の中の、愛しい命だけ。 見納めに、殺風景な部屋を眺める。 ふいに部屋のドアが開くのに気付いたが、そんな事はどうでもよかった。 「オレに挨拶もなしなのか?」 聞きなれた声。 どうやら思ったより噂の伝わるのは早かったらしい。 百足の女王の声は、怒りというよりは諦念に満ちていた。 「躯…」 後ろに立つ時雨の困ったような顔。 どうやら女王様の詰問に、口を割ったらしい。 「…力尽くならお前など相手にもならん…オレなら今すぐお前を引き摺り倒して、無理やり堕ろさせる事もできるんだぜ」 その言葉に、飛影が動じる気配はない。 まるで躯がそんな事をするはずがないと分かっているかのように。 「お前はどうかしている。改造した体で子を為す者も確かにいるが、全ての種族に可能な訳じゃない。お前には無理だという事がわからないのか?」 しかもお前は…やつを…あの狐を憑依させる気らしいと時雨は言っていたが、まさかそこまで馬鹿じゃないだろうな? 一息に畳みかけるような言葉にも、飛影の返事はない。 「いい加減にしろ。死んだ者に執着するな」 何の返答もない飛影に苛立った躯が、そう吐き捨てる。 「お前は狂ってる」 …狂ってる? 「…だとしたら、なんだ?」 無邪気といってもいいほどの、飛影の返答。 しばしの沈黙の後、先に視線を反らしたのは意外にも躯だった。 天井を仰いで、溜め息をついた。 「…どうしても堕ろす気はないというなら、ここにいろ。ここなら馬鹿な雑魚に襲われる心配もない。医者もどきもいるしな」 死んだら墓ぐらいはオレが作ってやるさ。 そう言うと躯はもう一度深々と溜め息をついた。 その言葉は、言ってみれば親心に近いものだったのだろう。 その言葉に、今まで見た事もないような穏やかな表情で、飛影は頷いた。 わかった、と。 飛影が百足から姿を消したのは、その翌日だった。 それっきり、飛影が百足に戻る事は二度となかった。 |