mama...5

飛影自身にも、一体どこから、いつから、狂いはじめたのかは分からない。

迷うことなどない。自分が何をすべきか、考えるまでもなく分かっていた。
頭ではなく心と体が、どうするべきかを知っていた。

あと百夜、蔵馬にそう告げられた翌日、飛影は時雨の部屋にいた。
深く考える事も、躊躇う事もなく時雨に用件を告げた。

「断る」

時雨の返事はあっさりと、そしてきっぱりとしたものだった。

「…なぜだ?金は払う」

飛影が時雨に差し出した小さな袋の中には、薄く赤みを帯びた氷泪石が十粒程入っていた。希少な宝石の中でも、唯一無二の薄紅色だ。売れば莫大な金が手に入る。百足のような移動要塞を買っても釣りがくるだろう。

「金の問題ではない。あまりに危険すぎるからだ。躯様とて許可するまい」
「躯に何の関係がある?」
「何の、だと?お主も躯様の部下であろう?」
「躯の許可などいらん。引き受けるのか?引き受けないのか?」
「断ると言っただろう」

そうか。
あっさりと飛影は頷いた。

「…なら、他のやつに頼むまでだ」
「何を馬鹿な事を…本気か?信用できる術士などおるまい?手術中に体をバラバラにされて売り飛ばされるのが関の山だぞ」
「だから、お前に頼んでいる」
「断る。躯様に背く事はできん。ナンバーツーでありお気に入りであるお主に勝手な事など…おい!」

時雨の目の前で飛影は剣を抜き、自分の喉元にあてた。
白い喉に、刃が禍々しく光る。
自殺を試みる者のような仕草に、時雨は慌てる。

「何をして…」
「貴様の大事な躯にとって…オレは大事な者、なんだろう?」

飛影は薄く笑みを浮かべる。
時雨の躯に対する思いが尊敬や畏敬だけではない事は、飛影にだって分かっていた。
それは多分、愛情に近いものだ。

「貴様が引き受けないと言うなら…今すぐここで…この首、切り落としてやろうか?」
「飛影…よせ!気でも違ったのではないか!?」
「…かもな。だから…これを冗談だとは思わない方がいいぞ」
***
赤い瞳がゆっくり開く。

麻酔から目覚めた時の気分はひどく不快だった。
腹の中は焼けるように熱く、猛烈な痛みを訴えていた。

「二、三日は寝ていろ。三日もすればなんとか動けるし、五日経てば元通りに動ける」

ポッドに入ればもう少し回復は早いが、まさか使うわけにもいくまい。パトロールの当番は適当に誤魔化しておいた。時雨はぶっきらぼうに告げる。
辺りには血の匂いが立ち込め、手術に使った器具を片付けるカチャカチャという音、何かを洗い流す水の音がした。

「ちゃんと…頼んだ通りにやっただろうな」

時雨はますます憮然とし、ああ、と短く答えた。

飛影の出した条件は、
身篭れるよう、腹の中を造りかえる事、

そして…
この手術を受けた事を、自分を抱く者が決して気付かないように、体の外部はもちろん…性交の際、性器を挿入される内部にも…傷や違和感を絶対に残さない事。

「頼まれた通りにやった。五日後には傷は消える。…お主も約束は守れ」

時雨の出した条件は、
この事を機を見て躯に報告する事、
身篭る事に身体が耐え切れそうにないと分かったら堕胎する事、
その二つだった。

「……礼を言う」

普段の飛影がおよそ口にするとは思えない言葉に、時雨は眉をひそめた。
手術台の上で、再びすとんと眠りに落ちた飛影の白い顔を眺める。

間違った事に手を貸した、それは時雨にも分かっている。

だが、狂気は伝染するものなのだ。
***
なだめすかしてみた。
怒ってもみた。
懇願してもみた。

飛影の体の変化に、なぜ気付けなかったのだろう?
自分に残された時間は、あと十夜もないというのに。いや、だからこそ気付けなかったのか?
飛影がこんなぎりぎりまで自分に隠し通した事に、自分は死ぬ事を百夜前まで隠していたくせに、蔵馬は憤りを感じていた。

なんとか説得しようという蔵馬の試みは、ことごとく拒絶された。

「堕ろすんだ、飛影!どんなに危険な事をしているかわかってるのか!?」
「ああ。貴様に指図などされなくても、わかってる」
「だめだ。絶対に。オレはお前の中に憑依する気はない!」
「…どうしても、か?」
「どうしてもだ。絶対に」
「なら、しなければいい。どちらにしろ堕ろす気はない」
「飛影…?」
「貴様が憑依しなくても、少なくとも貴様の子を産む事はできるからな」

赤い瞳は、熱っぽく潤んでいる。
でもなんだかその燃えるような紅は…

困惑?
渇望?

……狂気…?

「…お前は…結局、オレを置いて逝くのか?」

オレはもう一人になりたくないのに。
ふいに飛影がそう言った。

「一人って…幽助だって、桑原くんだっているじゃないか。躯も。それにお前の大切な雪菜ちゃんだって…」
「オレはもう一人になりたくない」

蔵馬の言葉が聞こえなかったかのように、飛影は繰り返す。

オレはもう一人になりたくない。
なれない。
他の誰も、欲しくない。

「飛影…頼むよ…頼む。お願いだ…」
「オレはもう一人になりたくない」

同じ言葉だけを、飛影は何度も何度も繰り返す。

オレはもう一人になりたくない。
***
…あっけないもんだな。

まるでこの死を祝うかのように、月は真円を描いて輝いている。
その月明かりを浴びる死体は、なぜか少し湿っていて、ひやりとしていた。

気障なこいつの事だ、最後に言う言葉はきっと…

愛してる。

そう言うだろうと思っていたのだが。
飛影は硬直し始めた死体を抱え、冷たい頬を指でなぞる。

蔵馬の最後の言葉は、

飛影。

ただそれだけだった。

お前の中に憑依する気はない、最後まで蔵馬はそう言い張った。

それは、お前を死なす事になってしまう。
必ず、必ず帰るから、お願いだ。

そう、懇願した。
事切れる間際まで、必死で。

帰るって?
五年後?十年後?百年後?

「…待てない」

固く抱いていた死体を、ゆっくり地面に降ろす。
取り出した剣で長い髪を一房切り取り、懐に納めた。

飛影の手の平に、小さな炎が燃え上がる。

「蔵馬…オレを死なせたくないなら…」

オレの中に、来い。

飛影はそう呟くと、蔵馬の亡骸に火を放った。

冷たい月明かりを嘲笑うかのように、
肉を溶かし骨を焦がし、熱い炎が夜空に燃え上がった。
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