mama...7

…九十五夜目…

「放っておくつもりなのかよ!?」

幽助の大声が部屋に響いたが、時雨はまるで聞こえないかのように武具の手入れをしている。

「おい!聞いてんのかよ!一体どうなってんだよ!?」

きれいに磨かれた刀を置き、時雨は肩をすくめた。

「どう、とは?様子を見てきたのだろう?」
「様子って…あいつ…飛影は…あの腹…あんたがが手術したとか何とか…」
「ああ、そうだ。身篭れる体が欲しいと、やつは要求した」
「な、なんだよそれ…!? あいつ、大丈夫なのか?一体いつ産まれるんだ!?」

時雨はもう一度肩をすくめた。

「さあな。魔界では種族によってまったく違うからな。それにやつは混血の上に改造した体だ」
「無責任じゃねーか!? それ!」
「やつが望んだ事だ。責任などない」
「なんだと…」
「まだ、生きてはいたんだろう?」
「まだ、って…てめぇ、それが仲間に対するセリフかよ!?」
「お主にとってはどうだか知らんが、百足の中では仲間という言葉は存在しない」

くだらねー揚げ足取んじゃねえよ!と、怒声が上がる。

「少なくともオレにとっちゃ仲間なんだよ!」
「なら、放っておいてやれ。やつが望んだ事だ」
「それは……そんな訳にいくかよ!蔵馬はどこへ行ったんだよ!?」
「死んだんだろうな」

あっさりと放たれた答えに、幽助が絶句する。

「死んだ…?」
「そうだ。知らなかったのか?」
「…ずっと連絡が取れなくて、探してたんだ…そしたらおかしな手紙がきて…中に鍵と地図が…。死んだってどういう事だよ!?」

それはほんの数日前の事で、紫の体に銀色の尾という奇妙な鳥が届けにきた。
急に連絡が取れなくなり、それどころか人間界での痕跡を全て消していた蔵馬を幽助たちは一応、探していた。一応というのは、魔界の…つまりそれは飛影の所に…いるのだろうと思って、それほど心配はしていなかったからだ。

奇妙な鳥が届けた包みの中に入っていたのは鍵と地図、小さな紙切れには蔵馬の名が記されていたが、なんの説明もなかった。何か理由があって魔界で暮らす事にしたのだろう、先に教えてくれりゃいいのに水くさいな。
幽助にしてみればその程度の軽い気持ちだったのだ。

だが、そう思いながら訪れた先には、とんでもない光景が待ち受けていたというわけだ。

話は終わったとばかりに別の刀の手入れをしようとしていた時雨の前に、幽助がドカッと座り込んだ。

「…邪魔だ」
「うるせー!話せよ全部。話すまではここを動かねーからな!!」

…だろうな、と、時雨は溜め息をつき、刀を置いた。
***
…九十七夜目…

目を覚ましている時間よりも気を失っている時間の方が長くなってきた。それはまずい事だ、分かってはいるが、どうにもならない。

ぼんやりと見上げた天井は、飴色の木で出来ている。
蔵馬の隠れ家はいくつもあったが、この小さな家は蔵馬のお気に入りだった。

幾度も体を重ねた事のあるこの家は、飛影にとっても気に入っている場所だった。あちこちに置かれた家具や服に、蔵馬の妖気が染みついているからだ。

蔵馬の側にいるような気に、ほんの少しだけさせてくれる。この家は。

ゆっくりと息を吐き、飛影は枕に顔を埋めた。

…苦しい。
苦しくて、堪らない。

体が内側から膨らんでバラバラに壊されていくような、経験した事のない苦痛。以前は波があった痛みや吐き気は、もはや間断なく飛影を苛んでいた。

朦朧とする意識の中で、時折この狂った選択に気付いて愕然とすることもあった。

ここで…オレは何をしている?
百足に…躯の庇護の元で…時雨の治療を受けながら臨月を待つ方が、ずっと理にかなった選択だった。

それはよく分かっていたが、嫌だった。

百足では産みたくなかった。
いざとなったら躯は腹の中の命より、母体である自分の命を優先するであろう事は飛影には予想がついた。

それに…
この、産まれる者を誰にも見せたくない。
そしてオレ以外の誰も、見せたくない。

完璧に、完全に、自分だけのものにしたかった。
尋ねてきた幽助さえ、二度と来るなと追い返した。

それでも、悪臭の漂う部屋、化け物のように膨らんだ腹、自分で火を放った蔵馬の亡骸、もろもろの記憶の断片が水に浮き上がる泡のような恐怖となって、飛影を包む事がある。

だが、次の瞬間にはもう、

あの碧の瞳をもう一度見たい、
あの腕の中でもう一度眠りたい、
もう一度声を聞きたい、
自分の名を呼ぶ声を聞きたい、

自分だけのものにしたい。
永遠に。

飢えにも似たその渇望が、恐怖をたちまち追い払う。

腹の中の生き物が、大きく、動く。
その痛みに思わず眉をしかめたが、なんとか声は上げずに済んだ。
声を上げたりしたら…自分がひどい苦痛を感じている事を、蔵馬に知られてしまう気がした。

そうしたら、蔵馬はきっとこの体に憑依してはくれない。
…もう二度と、戻ってきてはくれない。

そのおかしな思い込みを、どうやら飛影は少しもおかしいとは思っていないらしい。

腹の中の生き物が、また動いた。
妖気が足りないと、催促しているらしい。

眠るだけでも普段ならいくらか妖気を回復できたが、この状態ではそうもいかなかった。何か食べる事も必要だ。

食事を摂る事は…その後戻さずに胃の中に納めておく事は…今となっては本当に苦痛だった。

この家には食べ物はふんだんにある。保存食として腐らないよう術をかけた果物や穀物、干した肉などがたっぷりと貯蔵されていた。
なんとか起き上がり、カゴに積んであった果物を口に入れる。
みずみずしく甘酸っぱい味は以前なら美味だと感じたものだが、飛影はたちまち吐き気を催し、震える手で口元を押さえた。

気を緩めたら、戻してしまう。一旦それに屈したら、胃が空っぽになるまで嘔吐しなければならない事はもう何度も思い知らされている。込み上げる胃液をどうにか押し戻し、なんとか一口、果物を飲み下した。

俯いて息を整える。
その視線の先に、自分の足先があった。

白かったはずの足は、秘部からの度々の出血で赤黒く汚れていた。
それは分かっていた。

だが、それだけじゃない。

足先は紫色に染まり、所々黒ずんだ斑点が浮かんでいた。

「……!」

…腐り、かけている。

力の抜けた手から、噛りかけの果物が、床に落ちて砕けた。

「…蔵馬…」

寝台に崩れ落ちるように横になった拍子に、この日何度目かの出血が足の間を濡らした。

「っぅ…!!」

激痛に身を捩った飛影の体が、枕の側に置いていた小さな箱をひっくり返し、中から艶のある長い黒髪が散らばる。

「…く、らま……」

…早く。
早く、戻ってこい。

飛影は震える自分の体を、自分で抱く。

「蔵馬……早く…」

でないとオレは…

…オレは…もう……
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