mama...3

…二十八夜目…

ちゃぷん、と水滴が湯船に落ちる。

百足の自室にあるこの殺風景な浴室には似合わない芳醇な香り。華奢な瓶。花の香りのする液体の入った瓶は、以前蔵馬に貰った物だ。

今日のパトロール区域だった31層は、寒い場所だった。
体が温まるように、飛影はゆっくり肩まで花の香りの湯につかる。

泡立つ湯の中で手を自分の裸身に滑らす。
肩から胸へ、胸から腹へと滑り落ちた手が、腹部で止まる。

「……蔵馬」

あれから…あの日から、二十八夜、経った。
もう蔵馬は、どこにもいない。

そう思い出すだけで、全身が戦慄に凍りつく。
温かい湯も、何の助けにもなってはくれない。

…もう蔵馬は、どこにもいない。

この宿した種を失ってしまうわけには、絶対にいかない。

時雨は、身篭れるように体を改造する事は比較的簡単だ、と言った。

だが、身篭ったところで臨月までは持たない、九割方、流産するだろうとも言っていた。
身篭った状態を維持する事も、流産する事も。
改造した体ではどちらにしても、母体となる者にひどい苦痛と…大抵の場合は死を…もたらすだろうという忠告も、飛影は聞いた。

一割。

…十分だ。
その一割を逃すつもりは、絶対に、ない。

自分の体を大切に扱った事など一度もなかった。
だが今はほんの少しでも自分の身を危険に晒す気はなかった。戦闘だの、手合わせだの、問題外だ。
寒さに身をさらす事さえしたくなくて、部下たちに後を任せて今日も早々に百足に戻ったのだ。

いつだって痛めつけていたこの体は、今はなめらかに傷一つない。

湯船の中で、まだ何の膨らみもない腹を撫でる。

「……蔵馬…」

湯気に曇った空間で、小さな呟きが響いた。
***
「ねえ飛影。オレの事をあんまり好きになっちゃだめだよ」

冗談めかして、蔵馬は時々そう言ったものだ。

誰もいない森を二人で歩く途中で。
美味しい食事を二人で摂っている最中に。
二人の体温に温もるベッドの中で。
肉の交わりに汗を落とす一時に。

様々な場所で、甘い睦言のように、時には冷めた忠告のようにそう言った。

「あんまりオレに惚れちゃうと、オレがいなくなったら困るでしょう?」

笑みを含んだ、囁き。

飛影の返す言葉はいつも決まっていて…

「…自惚れるな」

元々お前なんかいなかった。
お前がいなくなった所で元の生活に戻るだけだ。鬱陶しいのがいなくなってせいせいするさ。

なんなら今すぐ消えうせろ。

いかにも飛影らしい憎まれ口に、蔵馬は、なら良かった、と微笑んで返す。

そんなやり取りを、何度した事だろう。
前のページへ次のページへ