糸...2漠然と、人生計画は立てていた。十八歳までは施設で暮らすことができるし、公立高校であれば学費も出してもらえる。施設に一番近い公立高校に合格し雪菜と通い、高校を卒業したら俺は働く。 施設を出てアパートを借りて二人で暮らしながら、雪菜は大学か専門学校に奨学金で進学し、生活費は雪菜の分も俺が稼ぐ。 学費も俺が稼ぐと言いたいところだが、高卒の稼ぎでそれは現実的ではないということはぐらいはもうわかっていた。 なんとか生活費くらいは二人分稼ぎ、雪菜はきちんと学校を卒業して就職する。雪菜は美人だから学校でも職場でもきっとモテる。優しくて稼ぎのいい男と結婚し、幸せに暮らすのだ。 そんな地味で堅実な人生計画が俺にもあったのだ、一応。 制服姿を人が指差すような有名進学校に通い、一軒家にひとりで暮らしてひとりきりの部屋で、パジャマのズボンもパンツも脱いで鏡にまたがって尻を映す。そんな一ページは計画の中に全くなかったはずなのだが。 「…っつ…う」 痛いというか、ひりひりするというか。 とにかくとてつもない違和感がある。まだなにか中に入っているみたいな。 ………でも、とくになにも、ない。 ないように思える。 赤いようにも見えるし腫れているようにも見えるが、出血してるわけではない。 そもそも自分の体とはいえこんな場所を初めて見たのだからこれで正常なのか異常なのかもわかるわけがない、ということに唐突に気付き、気付いた途端に自分があまりにもバカみたいな格好をしていることにも気付き、慌てて足を閉じる。 何をしているんだ、俺は。 猛烈に恥ずかしくなってきた。 パンツもズボンも引っぱり上げ、鏡を片付ける。 この家の二階は六畳間が二つとごく小さな物置きがあり、部屋の一つは俺の部屋で、一つは納戸のようになっていた。その納戸で見つけたノートほどのサイズの鏡はひどくレトロなロゴの入った年代物で、久しぶりに映したのが尻の穴ではこの鏡も浮かばれない。 昨夜、よれよれとトイレから出てきた俺に、ホールのバイトがどうしたと声をかけてきた。 俺が返事をするよりも早く、あいつは俺の腰を抱くように引き寄せ「この子、具合が悪いみたい。熱もあるし。ふらふらしてるから俺が家に送るよ」とあっさりと、それでいて有無を言わせぬ口調で言った。 生まれて初めて乗ったタクシーで家に送り届けられ、また明日ね、と微笑む男によける間もなくキスをされた。 運転手のおっさんがギョッとしているように見えたのは、気のせいではない。 昨日という一日がまるごと、夢だったのかもしれない。 そう考えたい所だが、腹は痛いわ腰は痛いわ熱は出るわで、今日は初めて学校を休んだのも確かだし、それになにより。 「……消えないな」 持ち上げて、丸い傘をかぶった電球に掲げた左手の小指には、赤い糸が結ばれていた。 ***
「具合、大丈夫か?」席に座って鞄を開けた途端、凍矢が隣に立った。 風邪か?と尋ねる声にまあなと返事を返し、昨日の分のノートのコピーを取らせて欲しいと頼んでみる。 もちろん構わないと笑う凍矢に礼を言い、一限の数学の教科書を開いた。 教室の椅子は硬くて、なんだか尻が痛い。 たった一日の遅れさえ油断できないギリギリの成績なのだ。尻のことなんか考えている場合じゃない。 小指に巻き付いている糸のことも考えている場合じゃない、集中しろ。 窓側の一番前という席は、俺が背が低いことと無関係ではなさそうだ。 この学校ではどうも背の低いやつばかりが前の席を占めているような気がする。 大雨が降っているのでもない限りは教室の窓はどの窓もいつもごく細く開けられていて、俺の指に絡みつく糸は、その隙間に吸い込まれるようにふわふわ揺れている。 青い空に糸は赤く細く、上へ向かってのびている。 …ここは二階で、二年生の教室は三階だ。 青い空。赤い糸。 気を抜くと蘇ってくる一昨日の記憶をなんとか押さえ込み、黒板と教師の声に意識を戻した。 ***
「飛影」教室の中が、ざわっとするのがわかった。 視線が突き刺さる、というのはこういうことを言うのだろう。 午前の授業が終わり、いつものように昼のパンを買いに行こうと立ち上がったところで教室の扉ががらりと開き、やつが立っていた。 満面の笑みで。 「飛影、弁当?購買?」 まるで親しい友人のように話しかけられ、俺は泡を食ってやつの腕を引き、廊下へ飛び出したが意味はない。 パンだの牛乳だの買いに行く生徒たちがわらわらと廊下へ出てくる時間なのだし、規則では昼は自分の教室で食べることになってはいるが、他のクラスに仲のいいやつがいれば、別の教室で食べているやつらもいる。 「何しに来た!?」 「何って。一緒にお昼」 当然のように、こいつは言う。 通り過ぎるやつらがちらちらと、あるいはあからさまに俺たちを見る。 そもそも、部活に所属していない限り、上級生と下級生に繋がりはない。こんな風に二年生が一年生の教室を訪れることなど、普通はないのだ。 「なんで俺がお前と」 「だって俺たちは、う」 俺は小柄だが非力ではない。 運命とか言い出そうとしているらしい、この馬鹿の腕を力いっぱい引っぱり、廊下を駆けた。 「力、強いんだね」 引っぱられるまま走りながら、やつはご機嫌で寝ぼけたことを言ってやがる。 購買と呼ばれている、昼だけパンやおにぎりを売っている小さな部屋は一階にある。 人気のある物はすぐに売り切れてしまうので昼休みの始めはいつも人でごったがえしている。ここであれば逆に人目にもつかないだろうと考えた俺が浅はかだった。 すらりと背が高く、長い髪をゆるいポニーテールに結んで、テレビの中の芸能人なんて目じゃないような綺麗な顔をしていて、中等部からずっと学年一位の成績をキープしている男。 そして「一日彼氏」という、ろくでもないあだ名を付けられている男。 つまり簡単に言うと、こいつは学校内の有名人なわけだ。 めちゃくちゃ、見られている。 変な汗が出てきた。もはや選ぶもなにもなく、手近にあったパンを二つと牛乳をレジに置き金を払う。 今ごろ気付いたが、やつの手には弁当らしき包みがある。 「どこで食べる?屋上行く?」 「屋上?」 ***
高いフェンスに囲まれた屋上は体育の授業にも使うが、昼休みにも開いているとは知らなかった。階段の終わりに、唐突に扉から現れた四角く切り取られた空がまぶしく、俺は目を細める。 「昼は教室で食う決まりだろうが」 「真面目だね。表向きはそうだけど教室にいなくたってバレないよ」 まあ、そうなのだろう。 皆、制服を着ているのだ。誰が教室にいようがいまいがぱっと見でわかるわけもない。誰がどこで飯を食っているかなど教師だって把握していられないだろう。以前に注意を受けたのは、教室にいるにもかかわらず、飯を食っていなかったからだ。 屋上には三十人ほどの生徒がまちまちに散らばり、腰を下ろしフェンスにもたれ、飯を食ったり喋ったり勉強したり本を読んだり背を丸めて携帯を見つめたり、と思い思いに過ごしている。もう食い終わったのか、大の字にひっくり返って寝ているやつもいる。 けれど、見知った顔はいない。多分、この場所で昼休みを過ごすこと自体が限られた生徒の特権で、そこには一年生は含まれていないのだろう。 元々は男子高だったというこの学校は共学になった今も男の方がずっと多く、女は二割ほどしかいない。 だからこそ女を連れているやつはどこか得意げで、この屋上にもカップルらしき男女がちらほらいた。 ここでも驚いたような視線が蔵馬に注がれ、その視線は俺へと下りてくる。 何見てやがるとケンカをふっかけるわけにもいかず、蔵馬に促されるまま、体育で使う用具が詰め込まれている小さな倉庫によりかかり、牛乳のパックにストローを差した。 「飛影」 「学校でなれなれしく話かけるな。教室へも来るな」 弁当の蓋を開け、箸を取ったところだった蔵馬は、心底びっくりしたように俺を見る。 「どうして?」 「どうしてって…」 何を言われているのかわからない、というその顔。 箸を持つ右手。弁当箱を持つ左手。母親の手作りなのであろう弁当は、卵焼きやハンバーグ、きんぴらごぼうと美味そうだ。 べとべとしたナポリタンを挟んだパンを持つ俺の左手の小指に巻き付く赤い糸は、屋上を吹く風にそよそよ揺れ、隣の男の左手の小指に相変わらず繋がっている。 「だって、俺たちは運命で結ばれているんだよ」 「…人を便所に連れ込んで強姦しておいて、何言ってやがる」 走ったせいで、また尻の穴が痛くなってきた。何か塗り薬でも塗っておけば良かったのだろうか。そういえば納戸になっている部屋には救急箱らしき木箱もあったが、中身は確かめなかった。何か薬が入っているのだろうか。 そんなことを考えながら、麺やら具やらが落っこちないようパンを噛り、牛乳で流し込む。 そこでようやく沈黙に気付き、俺は顔を上げた。 「おい?」 「悪かった」 笑みのない、真剣な眼差し。 この男が本当に綺麗な顔をしていることに、改めてドキッとしてしまう。 「ずっとずっと探してたんだ。…本当に探してた。だから嬉しくて、でも信じられなくて、あんな風に焦って…」 「え、いや」 「すぐに繋がって確かめたくて。お前の気持ちも体のことも考えなかった」 「あ、いや、おい…」 真っ直ぐに謝られると、怒ることができなくなる。 脅され、狭い場所に閉じこめられ、体格差を利用して組み伏せられた。 強姦以外の何物でもないが、繋がって体を揺らされ、自分の小指の先に赤い糸が見えた時、感じた思いは怒りではなかった。 運命だか因縁だかわからんが、俺はこいつのものだし、こいつは俺のものなのだ。 熱くて硬い棒に尻の中をかきまわされる熱に浮かされながら、そう思ったのも確かだ。 「もうい…」 「だから、今度は正式に。きちんとした場所で繋がろう」 「え?」 びっくりして、パンから薄切りのマッシュルームが落っこちた。 「正式にって…なに言って…」 「俺たちは夫婦になるんだから。きちんとしないと」 「は!?」 大きな声を出してしまい、屋上の何人かが振り向き、慌てて声をひそめる。 「お前、何言って…とにかく、学校では他人のふりをし…」 学校では他人のふりをしろ、と言い終える前に、卵焼きを口に押し込まれた。 朝食のおかずに時々卵焼きはあったが、味が薄くかすかに甘く、今口の中にある卵焼きとはだいぶ違う。 刻んだウインナーとチーズが入った、胡椒をたっぷりきかせた卵焼きだ。美味い。 片手にパン、片手に牛乳。口の中には卵焼き。 空は青く、小指には赤い糸。 呆気にとられたまま、綺麗な顔が近付くのを避け切れず、またもや唇が重なった。 ***
「あーーーーーー…」木枠とガラスでできた引き戸の扉を開け、靴を脱ぐことさえ億劫で、玄関に座り込み、仰向けに倒れる。 抹茶色の砂壁と節のある天井の木、消したままの電球を玄関から廊下へひっくり返ったままで見つめる。 「……厄日だ…」 夕暮れの光がガラスから差し込む玄関。 古い商店街がちょうど終わるあたりにあるこの家は、西日が強い。 屋上でのキスの後はもう、何もかもがしっちゃかめっちゃかだ。 驚きのあまり飛び上がり、牛乳とパンを落っことした俺を見つめているのは一人や二人じゃなかった。 ヒャッと息を飲んでこちらを指差した女生徒に続くように、ざわめきは一気に屋上に広がった。 「……むぐ、ん、なにしやがる!」 卵焼きをようやく飲み込み、叫んでみても手遅れだ。 落っことした牛乳も食べかけのパンも放り出したまま、俺はその場を逃げ出した。 自分がゲイだったことに気付かず手当たり次第に女と接触していたモテモテの「一日彼氏」は、下級生の男子生徒に一目惚れをし、ようやく自分の「性的嗜好を認識」し「告白した」はいいが、相手の下級生はそんなつもりはなく、逃げ回っているらしい。 というのが、本日の昼の屋上のキス事件から、放課後に至るまでの三時間で学校中を駆け巡った噂だ。 誰にも話しかけられたくなくて、授業の合間の休憩はトイレにに逃げ込み、六限の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に席を立った。おかげで凍矢から借りるはずだったノートもない。 とはいえ凍矢やクラスメイトに、この話は本当かなどと聞かれたらなんと答えたらいい? その一。噂通りだ。狂った「一日彼氏」に好かれて大迷惑している。 その二。誤解だ。俺たちは赤い糸で繋がっている運命の二人なんだ。 どっちも、不正解の答えだ。 前者は嘘だし、後者は真実だが狂ってる。 逃げ出したのは、今日が金曜日だったせいもある。 取りあえず、土日という猶予が与えられるわけだから。 鞄の中で、携帯がブーブーいっている。きっと凍矢だろうが、出ても何も説明できない。凍矢の場合は好奇心からではなく俺を心配してかけてきてくれているのだから、できれば嘘をつきたくない。 いつまでも玄関にひっくり返っていてもしょうがない。のろのろと起き上がった所で、今度はブーと玄関のブザーが鳴った。 醤油のような匂いはさっきから玄関まで漂っていた。ということはもう夕食は届けられている。婆さんではない。だいたい婆さんの家なのだからブザーを鳴らす必要ももない。 なにより、婆さんのシルエットではない。すりガラスとはいえ、色や大きさはわかるのだから。 青いブレザーも、濃いグレーのズボンも、俺が今着ている物と同じだ。 鍵はまだかけていなかった。あいつなら図々しく入ってきかねない、とすりガラスを睨んでいたが、入ってくる気配はない。行儀よく待っているらしい。 商店街の外れ、というのはつまり商店街に行く人も帰る人も通る道で、人通りはかなりある。ため息をついて起き上がり、扉を開けた。 「…なんなんだ、それは」 花束。俺は花に詳しくない。赤と白とピンクの花で作られた大きな花束、としか表現できない。 花束という物が存在することはもちろん知っているが、自分に向かって差し出されたのは初めてだ。 「お土産。お婆さんに」 「土産?」 友人が家に遊びに来る、という経験も俺はしたことがない。 普通の家庭の子供が施設に遊びに来る、というシチュエーションはないし、友人というものがいなかった俺は、例えば学校のクラスメイトの家に遊びに行った、という経験もない。 友人の家を訪ねるのに花や食い物といった土産を持って行くのが普通のことなのだろうか、と一瞬考えたが、普通の家庭の子供とも友達だった雪菜がそんなことを言っていた記憶もない。施設で暮らす子供が土産を用意できたはずもない。 「ん?ちょっと待て、お前なんで俺の家の家族構成を」 なんで家を知っている、という問いは無意味だ。 小指を繋ぐ赤い糸を辿ってくればわかるのだから。しかし住所がわかったからと言って、家族構成までわかるわけがない。 「ああ、教えてもらったよ」 誰にだ!と思ったが、別に婆さんと暮らしていること自体は秘密にしているわけでもない。実際は一緒に暮らしているとは言えない状態ではあるが、そこはややこしいので凍矢にしか教えていない。 高校から入学してくる生徒は珍しいから、入学当初は俺に話しかけてくるやつもいたが、俺が無愛想で聞かれたことに答えるだけだとわかるとつまらなそうに離れていった。凍矢だけが、どういうわけか最初も今も変わらずに淡々と接してくれる。 「お婆さんは留守?」 「いない」 玄関先で話していてもしょうがない。 線香と醤油のにおいの混ざる居間に案内し、座布団もない畳を指した。 色褪せた畳、玄関よりは薄い色の砂壁、茶色の座卓や棚といった色味の部屋に、花束の色味は華やかというより場違いに賑やかだ。 ラップのかけられた一人分の食事に、蔵馬は不思議そうな顔をする。 今日の夕食は焼いた鮭に大根おろし、高野豆腐の煮物で、やたらと醤油のにおいがした。 「お婆さん、出かけてるんだ?」 どう説明したものか。 多分、嘘の上手いやつは真実と嘘を混ぜて、ちょうどいい具合にして話すのだろう。妹の雪菜にも指摘されるまでもなく、俺は嘘が上手くない。すぐ顔に出る。だいたい、こいつに嘘をついても無駄なような気もする。なんとなく、見破られそうな予感がする。 地味な夕食の乗った卓に手を置いた途端、目に入った赤い糸に諦めの気持ちになる。こんな糸で繋がっているやつに、何かを隠してもしょうがない。 しょうがなく、最初から最後まで、何も隠さず説明した。 「面白いね」 俺の下手な話を遮ることもなく蔵馬は聞き、そう言った。 大変だったね、とか、苦労したんだね、などと同情めいたことを言われても困るが、面白いというのもよくわからん。 「面白いか?」 「うん。なかなかに波瀾万丈で。じゃあ今はこのレトロでかわいい家にほぼ一人暮らしなんだ?」 レトロでかわいい?このお化け屋敷みたいな家が? こいつの感性はよくわからない。 「婆さんが毎日食事を届けに来るがな。夕方に夕飯と明日の朝飯を持ってくる。今日は金曜日だから土日の分もまとめて冷蔵庫に入ってる」 丸い卓を挟んだ俺たちの真ん中に、盆に置かれた夕飯がある。 「ダイエットには良さそうな食事だね」 「出されたものにケチをつける立場じゃない」 「なるほどね。自分で料理はできないのか?」 蔵馬の目が、引き戸で繋がる台所をちらりと見た。 「料理をしたことはないな。家庭科の授業くらいだ」 「鍋とか包丁とかあるなら、食べたいものを自分で作るという手もあるんじゃないか?」 「食い物なんぞどうでもいい。お前と違って三十位以内に入るのにこっちは必死なんだぞ」 そろそろ帰れ、俺は勉強しないとならん、そう言うと、明日出かけない?などと寝ぼけたことを言う。 「出かけるわけないだろう!」 「なんで?デートしようよ」 「お前、人の話を聞いているのか?」 「聞いてる。成績が落ちなければいいんだろう?」 ゆるいポニーテールからこぼれていた髪を耳にかけ、蔵馬が笑う。 とんでもなく綺麗な顔で、とんでもなく綺麗に笑う。 心臓が、跳ねた。 なんだって「一日彼氏」なんてあだ名の男と一日でも付き合う女がいるのかと不思議だったが、この顔では無理もない。 明日には他人になるとしても、こんな顔で見つめられたら断れないだろう。もしかして自分だけは特別な存在になれるんじゃないかと、期待してしまったやつらをどうして笑えるだろう。 「お前な…」 「デートして、あちこちへ出かけよう。お前が選んだ場所できちんとしたセックスをしよう」 納戸をひっくり返してでも、座布団を探しておくべきだった。 この綺麗な顔に投げつける座布団のひとつもこの部屋にはない。ので、拳で殴った。 「いった!」 「セックスとか!言うな!」 「他の表現…?性交とか?」 「いいから帰れ!」 殴られた頭をさすっているやつを引っぱり起こし、玄関へ押して行く。 花束も置いていかれても困る。婆さんに見られても困るし、だいたいここには花瓶もない。あるのかもしれないが、探す気にもならない。 「持って帰れ」 「せっかく持って来たのにな。でもまあ、これはお婆さん用の花だから」 靴を引っかけながら蔵馬は振り向き、俺の頭のてっぺんに唇を押し付ける。 「おい」 「…お前に花を贈る時は、お前にふさわしい花を選びたいからね」 蹴飛ばしてやろうとしたが、ひょいと避けられた。 見上げて睨んでやれば、綺麗な男が綺麗な花を抱えて笑っている。高校生という生き物にも男という生き物にも花束が似合うとも思えないが、結局のところ、顔が良ければなんだって似合うのだ。 「飛影」 「デートなんぞしないぞ」 「時間は作るものだよ。勉強なんて適当に片付けよう」 こいつ、全然わかってない。 跳ねていた心臓を元の位置に戻し、今日何度目になるかわからないため息をつく。 「あのな」 「じゃあ、こうしよう」 明日から、俺が勉強を教えてあげる。 土日はお昼から夕方まで。平日は学校が終わってから。そうだな、五時から七時くらいまで。 「それで、次のテストでお前が十位以内に入れたら」 「十位だと?馬鹿を言うな」 「聞けよ。入れたら」 「入れたら…?」 大きな手。長い指。 長い指は俺の短い髪を探り、頬に下りる。花束を小脇に挟んだまま、両手で頬を包まれる。 「俺と繋がって。俺のそばにいて。放課後も、休みの日も、ずっと俺と過ごして」 あたたかい手に頬を包まれたまま、返事ができない。 十位以内?入れるわけがない。でももし入れたら? 妹と離れて暮らすようになってから、俺はずっと一人だった。 その一人だった時間を、こいつと一緒に過ごす? 一緒に過ごして、赤い糸で繋がって、一対の生き物のように生きていく? 頬の下、顎に近い部分に糸の感触。 指に巻き付いた糸が、俺の頬に触れている。その状態で。 「……わかった。明日からだ」 他の返事なんて、しようがあるか? ***
「解く順番さえ理解すれば、大丈夫だよ」スプーンで大きくすくったカレーを飲み込み、蔵馬は言う。 じゃがいもと、にんじんと、玉ねぎと、ごろっとした牛肉が入ったカレー。それにキャベツやコーンやシーチキンをマヨネーズで和えたサラダが添えられている。 カレーはやけに美味かった。ごくありきたりの食べ物なのに、ずいぶん久しぶりに食べる。施設ではなぜか金曜日の夜はカレーと決まっていたが、この家に暮らすようになってからは初めて食べた。 「…成績がいいだけじゃなく、お前は口まで上手いんだな」 そう毒づきたくもなる。 土曜日曜と勉強を教わり、月曜日はもちろん俺は学校へ行った。 その月曜日、家に帰ってみれば、婆さんと蔵馬があの座卓を挟んで茶を飲んでいるという有り様だったのだ。 「くらっ…」 「おかえり飛影。お邪魔してたよ」 いったいどう婆さんを丸め込んだのか、婆さんは俺に食事を作るのをやめ、かわりに食費を寄越すようになった。 一日二千円の食費、そこに洗剤だのティッシュだのの雑費や服を買う金や小遣いだと言って月に三万円までくれると言う。電子レンジや炊飯器を買うようにと、別に十万円もくれた。 「今どきの子供が何を食べてて、何がいるかもわからなかったから。悪かったね」 婆さんはぼそぼそと言い、この家はもう十年近くも空き家だったし、家具も家電もろくにない。 他にも要る物があったら連絡をくれと言い、そそくさと帰って行った。 「おい…。お前、婆さんに何を言った?」 「たいしたことは。人生を快適にするためには、自分から行動しないとね」 「あの一族にこれ以上の借りは作りたくない」 「いいじゃない。お婆さんも本家の人も、お金には全然困っていないみたいだよ。だいたい毎日食事を届けるなんて、あっちも面倒だろうしさ」 本家?金?いったい何を聞き出したのやら。 ウインクと共にそう言われては、脱力するしかない。 学校では「一日彼氏」に迫られて困って逃げ回っている下級生、という周りの見立てをそのまま否定も肯定もせずに俺はいた。卑怯な気もするが、上手い説明も思いつかない。 授業が終わり、五時頃になると蔵馬は家にやってきて、俺にいくつかの課題を出す。俺がその課題を解いている間に簡単な夕食を作り、六時になると一緒に食べる。六時半には食べ終え、課題のチェックと間違えた箇所の解き方を説明する。 認めるのは癪だが、教師に教わるよりもよっぽど分かりやすい。どこでなぜ間違ったか、少ない言葉で的確に蔵馬は説明をする。 「毎日ここへ来ていて、親に怒られないのか?」 「全然。俺、信用されているから」 「お前だって自分の勉強をする時間がなくなるだろうが」 「大丈夫だよ。俺、そもそも順位とか気にしてないし」 空になった俺の皿に蔵馬はどさっとおかわりの米を盛り、カレーをかけて差し出す。小さいわりには食べるね、と余計なひと言も添えて。 勉強を教わり、飯を食わされ。何だか餌付けされる野良猫のような気分になってきた。とはいえ飯は美味い。別に凝った料理ではないが、どれも美味かった。 朝は多めに作った夕飯の残りを食うか、トーストと目玉焼きか何かを食う、そのくらいは俺も作れるようになった。問題ない。 居間で勉強している俺と、台所で料理をする蔵馬の動きに合わせて糸が揺れるのも、段々気にならなくなってきた。 「留年しようかな、俺」 「は?留年?」 どうしてこいつは次から次へと、わけのわからんことを言い出すのか。 高校を留年してどうするって言うんだ。 「そうしたら飛影と一緒の学年になれるじゃない?」 「…頼むから、わけのわからんことを言うな」 ***
「飛影」どういうわけか、凍矢の手はいつでもひどく冷たい。 その冷たい手が、肩に食い込むように置かれている。 「すごいじゃないか」 「…ああ」 我ながら気の抜けたような返事だ。 手ごたえはあった。いつもよりずっと楽に問題を解けた。もしかしたら十位以内に入れるかもしれない、とも思った。 「惜しいな」 その言葉とともに、反対側の肩に手を置かれる。 いつものように、二年生の順位表の一番右に名前を置いた男が、隣に立っていた。 「もう少しでベストスリーだったのに」 俺の名前は、一年生の順位表の四位の場所にあった。 同じように順位表を見に来ていたやつらの、好奇心と嫉妬の視線がいたたまれない。 カンニングをしたわけでもなんでもない。なのに、ズルをしたような気分だ。 チャイムが鳴る。 この休憩はたったの十分だ。生徒たちが散り散りに教室へ戻っていく。 「飛影、戻るぞ」 遠慮がちな声で凍矢が呼ぶのにハッとし、肩にかかる手をそっとどかした。 ここは一階で、俺たちの教室は二階、二年生の教室は三階だというのに、蔵馬は焦るそぶりもない。 歩き出し、階段へ足をかける手前で俺は振り向いた。 笑みを浮かべた蔵馬が、口だけを動かして言った。 今夜行く、と。 ***
「あーーーーーー…」二ヶ月前と同じく、俺は玄関にひっくり返る。 クラスメイトたちの好奇の視線を振り切って、二ヶ月前と同じく今日の最後の授業のチャイムが鳴ると同時に席を立った。 凍矢にだけは、今度きちんと説明すると短く囁いて。 凍矢はこちらが話したがらないことは何も聞かないのだ。そういう品の良さみたいなものがあいつにはあって、俺はそれに助けられている。 いや、説明も何もない。 蔵馬は学校でも遠慮なく話しかけてきたし、勉強を教えてもらっておきながら無下にするわけにもいかなかった。 俺と蔵馬が親しい関係になっていることは、きっと学校中がもう知っていた。 結局あの下級生は「一日彼氏」のしつこい求愛に陥落したらしい、などという噂も、今日の順位の発表で噂ではなくなってしまったようなものだ。自分の力だけであれほどランクアップするはずがない。 多分、そういうことだと受け止められてしまっただろう。 玄関に差し込む西日は確実に二ヶ月分弱くなっていて、秋の空気は冷たい冬の匂いを含みはじめている。 この二ヶ月、次のテストが終わるまで会えないとメールをし、雪菜にも会っていない。バイトも辞めてしまった。 蔵馬だけでとっぷりと満たされた毎日と、四位の順位表が、今の俺の手元にはあった。 今夜行く、とは? いつものように五時から七時まで勉強するという意味ではないだろう。 夜来るということか?夜来てどうする?泊まるのか? 泊まって………何をするんだ? 寝転がったまま、鞄をずるずると引き寄せ、携帯を取り出す。 いくつかのキーワードを打ち込み、検索をかける。 動画もあるのだろうが、見る勇気がない。文章と写真や図で説明してくれているサイトを見つけ出し、おそるおそる読んだ。 …想像通りの形、もあれば、とんでもなくアクロバティックな格好をしているものもある。こんな格好で抜き差しされたら体がつりそうだ、というものから、こんな格好をさせられたら恥ずかしくて死ぬ、というものまである。 体の中をきちんと洗って、オイルやローションをなどの潤滑剤を用意して、指で丁寧に解し、コンドームをはめて挿入する。 挿入された側が腹痛や下痢に苦しむことになるので、体内に射精することはできるだけ避ける。 何一つ、合ってない。 あいつ。 ああ、雪菜に会いたい。 会って、他愛もない話を聞きたい。美味しいコンビニアイスとか、安いけど唇がつやつやになるリップクリームとか、靴ひもの色を変えるとスニーカーが全然違って見えるとか、黒猫を飼いたいとか。そういう話を。 蔵馬のおかげで貰った四位の順位表が、ひやりとした廊下に落ちた。 ***
柱時計は七時の少し前を指している。風呂で暖まった体でパジャマを着て、そういえば飯を作ることも食うことも忘れた、と思ったがそもそも飯が喉を通るとも思えない。 何をしているんだ、俺は。 風呂から上がって部屋に戻り、布団を敷いた。それは毎晩同じことで別に今日が特別なわけではないが、布団は一組敷くのか、二組敷くのか迷った。 この家はどういうわけか布団だけは豊富にあって、四組もある。とはいえ干してあるのは自分が使っている物だけで、後は納戸のようになっている部屋で巨大な風呂敷に包まれたままだ。 狭い階段を上がり、部屋に敷いた布団を見下ろす。 泊まるなら布団は二組いるんじゃないか? いや待て、そもそも夜行くと言っただけで泊まるなんて言ってないぞ? じゃあ帰るのか?夜来て、そして帰るのか? 布団の上に座り込み、ぐるぐると考え込む。 無意識に、小指の赤い糸を引っぱっていたことに気付き、手を離す。 何をしに来るのかと考えると、多分そういうことなのだろうと思うが、全く違うのかもしれない。 全く違った場合、布団を二組も敷いていたら馬鹿みたいだ。いや、全く違うなら泊まることもないわけで、一組だけ敷いてあるこの状態が正解なわけで…?でも何もしないなら二階に来る必要もないわけだから…? 「ああ、くそ…」 何を考えているんだ俺は。 ばふっと布団に寝転がり、ため息をついた途端、玄関のブザーが鳴った。 ***
「かわいい…」は?と思ったが、どうやらこのパジャマのことらしい。 白地に水色の細い縞模様の、いかにもパジャマっぽいパジャマで、ズボンも袖も長すぎて折り返して俺は着ている。 制服だけはきちんと採寸してもらった物なのでサイズが合っているが、婆さんなのか婆さんが頼んだ誰かなのかがこれまでに届けてくれた服はどれもぶかぶかだった。まあ、Sサイズでも俺には大きすぎるのだから、文句を言ってもしょうがないが。 「…別にかわいくないだろう。普通のパジャマだ」 「それを着ている飛影がかわいい」 脱いだ靴をきちんと並べながら、笑顔でそんなことを言われても。 「ところでさ」 勝手知ったる、という感じで上がり込んだ蔵馬は振り向く。 「パジャマで待ってたってことは、そういうこと?」 「ちが…違う!」 よく考えたら、なんで俺はパジャマを着ていたのだろう。 いつもの癖で風呂に入った後だからとパジャマを着ていたが、部屋着を着ていれば良かったのだ。 俺のパジャマをかわいいとぬかす蔵馬は、ごく普通のジーンズとパーカーを着ている。 「なーんだ。違うのか」 いつもは勉強を教えてもらったり一緒に夕飯を食っていたりした居間の畳に座り、蔵馬は携帯を取り出す。 茶でも淹れようかと台所へ立とうとした俺を止め、蔵馬は携帯を差し出す。 「デート、どこ行こうか?」 「え?ああ…」 俺の暮らすこの街から電車で三駅も行けばいわゆる観光地で、港の周りには小綺麗な建物や店や名所が山ほどあるらしい。 勉強は忙しいわ金もないわでろくに見たこともなかったが、画面を滑る景色は確かに魅力的なのだろうが、俺にはよくわからない。 「いきなりラブホもなんだしね。普通のホテル取ろうか」 「ホテル!?」 「うん。ほら、海の見えるホテルとかどう?飛影の好きな場所でいいよ?」 動顛して、茶筒から茶葉をこぼした。 どうやらこいつは、本当に俺ともう一度セックスをするつもりらしい。 お金は気にしないで、俺、結構貯金あるんだ。 そんなことを言いながら、蔵馬はなめらかに指先を動かし、次々と小綺麗な部屋の写真を映していく。 急須にお湯をいれ、こぼした茶葉を手で集めてゴミ箱に片付ける。 そうしている間にも、俺たちの小指に繋がった赤い糸はゆらゆら揺れている。 「…糸が繋がっていれば、誰でもいいのか?」 古い商店街のはずれは、昼の喧騒が嘘のように夜になると静かだった。 急須の中で茶葉が開き、静かな部屋に香りが満ちる。 「飛影?」 「…お前は…この糸が繋がっていれば誰でもよかったのか?その…つまり…」 「誰でも?」 「つまり…」 「男でも女でも、ってこと?」 整った顔の中の大きな目が、不思議そうに俺を見る。 「それも、あるが。好みとかないのか、お前には」 「んー。考えたこと、なかったな」 さらりと髪をすべらせ、蔵馬は言う。 「なるほどね。俺はこの糸の相手が運命の人だって決めて探し続けて生きてきたけど、全然好みじゃない相手とか、あるいは百歳のお爺さんとか二歳の女の子とかの可能性もあったのかな?」 「それでもいいのか?」 「それはちょっと困るね。好みはともかく百歳や二歳じゃお近づきになるのは大変そうだ。じゃあさ」 俺はすごくラッキーじゃない? 同じ学年じゃなかったのは残念だけど、だいたい同じような歳で同じ学校で出会えるなんて。 「しかも俺、飛影のこと好きになったし。運がいいな」 好きになった、に思わずごくりと唾を飲む。 「………俺は男だぞ?」 「うん?」 それが何か?みたいな顔をされても困る。 よくよく考えたら大問題じゃないか? どうなってるんだこいつの人生計画は。 「飛影は?」 「え?」 「飛影こそ、俺は男なのにいいの?」 そうだ。それも大問題のはずだ。 なぜ俺は、自分が男とそういうことになるのを疑問に思わなかったのだろう。 「あ、ここは?バスルームからも海が見え…」 「……ここ」 「え?」 「…………ここで、いい」 沈黙の中に、柱時計の振り子が揺れる音と、緑茶の香りと、赤い糸だけが漂う。 海の見えるホテルとか、そんなものはいらない。 ロマンチックな演出が欲しいわけじゃない。 今日だ。 今日しなきゃいけない。 今日じゃないと俺は、タイミング、みたいなものを逃してしまう気がする。 どうしてとか、なんでとか、やっぱりだめだとか、きっと考えすぎて、逃げ出したくなってしまう。 こいつは俺を欲しがっている。 真っ赤な糸でからめ捕って、俺を自分のものにしようとしている。 でも…。俺も、欲しい。 こいつが、蔵馬が欲しい。 赤い糸で、ぐるぐるに巻かれて蔵馬の中に閉じこめられてしまいたい。 頭でも心でもない、体の奥のもっと深い場所からそう叫んでいる声がする。 赤い糸ごと、蔵馬の左手が近付いてきて、頬を撫でられる。 もう片方の手が頭の後ろに回り、唇が重なった。 ***
どうやって階段を上がってこの部屋に来たのか、思い出せない。畳の上に敷いた布団、というロマンチックからはずいぶん遠い場所に座り込み、息苦しくなるほど長く、唇を重ねていた。 他人の舌が自分の口の中で、自分の舌を探して、見つけて、絡めている。想像もしたことがなかった行為に、頭がくらくらしてきた。 「…ひえ、い…」 背中と頭に蔵馬の熱い手のひらを感じる。 抱きしめられて、何度も何度もキスをした。 子供の頃はよく、雪菜とくっついて眠ったり、ふざけて抱き合ったりした。 久しぶりの他人の体温は、やけにあたたかい。 ぷは、と唇を離し、深呼吸をする。 頬を紅潮させ、濡れた唇をして、蔵馬は俺を見つめている。 大きくて形のいい目、すっと通った鼻筋、色味の薄い、綺麗な唇。 綺麗な、男だ。 赤い糸なんて厄介なものがなければ、より取り見取りで相手を選べただろうに。 俺を見つめたまま、蔵馬の手が俺の胸元へのびる。 パジャマのボタンが外され、袖を抜かれた。 「…気の毒にな」 パジャマの下に着ていたタンクトップも脱がされ、そこにあるのは平らな男の体だ。 こんなもの、見ても触っても面白くもなんともないだろうに。 「気の毒?」 「ああ。ずっと探していた相手が俺なんかでな。その糸さえなければ、好きに選べ…」 「…黙れよ」 形のいい眉が寄り、唇がきゅっと結ばれる。 怒らせたのだろうか? 「飛影、俺は」 「なんだ?」 「ずっとずっと探していた。この赤い糸が繋がる相手を。そして見つけた。その相手がお前であることが、嬉しい」 「…嬉しいって」 ズボンも脱がされた。 下着一枚で布団に座り、ぽかんと蔵馬を眺める。 嬉しい。 確かにそう言った。 裸になった胸の上を、あたたかい手のひらが覆う。 心臓が馬鹿みたいに跳ねていることが、ばれてしまいそうで。 「…会いたかった。見つけられた。相手がお前でよかった。本当に嬉しいんだ」 耳元で囁くように言われ、くすぐったくてぶるっと震える。 下着の中に長い指が入り込み、指先で弄られる。 「ちょ、待っ……電気…」 この部屋の照明は、他の部屋と変わらず丸い傘をかぶった電球で、紐で点けたり消したりするやつだ。 紐は短くて、立ち上がらないと届かない。 「…電気、消すぞ」 「だめ」 だめ? 何を言われたかわからず瞬くと、どこかうっとりしたように蔵馬が言う。 「全部見せて。頭のてっぺんからつま先まで。体の外も中も」 「何言って…!」 「探してた。やっと見つけたんだよ。全部見せて。何もかも」 ぶん殴って逃げる、という手もなかったわけじゃない。 それなのに、俺は蔵馬の目に捕まったまま、下着をおさえていた手を離した。 ゆっくりと下着が足から引き抜かれ、俺は丸裸で布団の上に座っていた。 平均よりも随分と小さい身長や、高校生になった今もほとんど毛のない股間のあたりが恥ずかしい。 俺を裸にし、蔵馬は自分も服を脱いだ。 女みたいな顔をしているくせに、体は均整が取れていて綺麗な筋肉が付いた男の体だ。 はやくも勃起しかかっている大きな性器や黒々と生えている毛に、自分の体が惨めにさえ思える。 文字通り、頭のてっぺんからつま先まで、蔵馬の視線を感じる。 冬の始まりの部屋の中はどちらかといえば寒いはずなのに、恥ずかしさで暑いくらいだ。 「くら、もう…おい!っな、あ!」 両手で腰を引き寄せられ、座った蔵馬の両足をまたぐように座らされ、股間がくっつく。 ずいぶんとサイズの違う二本をまとめるように蔵馬は握り、大きな手がゆっくりと上下に動く。 「っあ、あ、ちょ、やめ……!」 サイズの違いを見せつけようとでもいうのか、こいつ。 そんなことを考えムッとしたのも数秒で、俺はすぐに何も考えられなくなる。 「あっ、あっ、あっ、あ……くら…」 「…飛影…っ」 ただくっつけて、擦られているだけなのに。 みるみるそこは熱く硬くなっていく。 「……ん!あ……ぁ…おい…っ」 もうちょっとで、という所で、急に手を離された。 恨みがましく見上げると、涼しい顔で蔵馬は微笑んでいる。 「…蔵馬」 「まだ、いかないで」 蔵馬の両手が、俺の膝をすくい上げるように動き、足を広げた。 施設にいた頃、幼い赤ん坊がされていたのを見たことがある、おむつを換える時のような格好に本当に顔から火が出そうになる。 毛のない股間も、まだ硬くなったままのものも、その奥の穴も全部見えているはずだ。 払いのけようとした途端、視界に赤い糸がかすめ、何もできなくなる。 「…ここ、舐めさせて」 期待していた場所に舌が触れたのはほんの一瞬で、硬くなったものの先端から下りるように、ぬるりと伝っていく。 舌先がつつかれた穴が、きゅっと収縮するのが自分でもわかった。 さっき風呂で外も中も洗った。 だからと言って、明かりの下でさらして舐められてもいいということではない。 「蔵馬!やめ、あ!くら……ま!」 綺麗な男が、俺の尻に顔を埋め、穴を舐めている。 脅され、狭い場所に閉じこめられ、体格差を利用して組み伏せられた。 それに腹も立ったが、この状況よりずっとマシだ。 大して広くもないがどんな格好でもできる部屋の中で、布団の上で、電気を付けたままで。 何もかもが相手に丸見えのこの状況に比べたら、薄暗くてろくに何も見えなくて外から音楽ががんがん響く、クラブのトイレの方がマシだったということに気付かされた。 「やめ……あ、あ、ひあ、っ」 ぴちゃ、くちゅ、と聞くに耐えない音がする。 入り口を舐め回し、時々中に入ってくる感触に背筋を何かが通り抜け、熱いものが硬くなった先端から噴き出した。 「……っあ、ああ!」 「あーあ。出ちゃった。一緒にいこうと思ったのに」 まるで全力疾走してきたかのように俺は息を切らしているというのに、俺の出したものを髪にかけられた蔵馬は余裕の笑みだ。 脱ぎ捨ててあったパーカーのポケットに手を伸ばすと、小さなボトルと何かの箱を取り出した。 それは携帯で見た説明にも出てきた見覚えのあるボトルだ。 パジャマ姿の俺に「そういうこと?」なんて聞いておいて、こいつはローションとやらとコンドームを用意してきているのだから呆れたもんだ。 「……な、にが…そういうこと、だ…お前の方こそ…そのつもりじゃないか…んん!」 どろっとした液体をまとった指が、体の中に入ってきた。 浅く、入口のところをくるくると掻き回し、時々奥に入ってくる。 嘘っぽい、いちごの匂い。 かき氷にかける、あの赤い液体の匂いに似ている。 気持ち悪いのか、気持ちいいのかわからない。 長い指が体内をいったりきたりする感覚に、太ももが震えるのが自分でもわかった。 「飛影…どう?気持ちいい…?」 「……んん、うあ、あ、ああ…っひ」 にゅく、と増やされた指が入ってくる。 ぐちゅ、と、ぴちゃ、という音が静かな部屋に響き、恥ずかしさに爆発しそうになる。 時折蔵馬は差し込んだ二本の指を広げ、中に息を吹き込む。熱い粘膜はそのヒヤリとした風に驚き、口を閉じようとひくひくしている。 「うあ、ああ…っ、くら…」 シーツを握り締めていた指を解かれ、蔵馬の足の間に導かれる。 膨らんだ今は俺の三倍くらいはありそうな、赤黒い立派なものを握らされた。 ローションを垂らされ、手を包むように握らされ、上下に動かされる。 手の中が、熱い。グロテスクにも見えるのに、俺の体はどんどん熱くなっていく。 あっという間に太く硬くなったものが、天井を向く。 いつぞや鏡で見た自分の肛門を思い出し、なんだか不安になってきた。 「ひえ……い」 「……あ」 こいつは俺に興奮して、俺に入れたくてこんなに硬く大きくしているのか。 赤い糸で繋がれているから仕方なくじゃなく、本当に興奮して? 「……くら、ま」 …なら、しょうがない。 繋がってやっても、いい。 「…くら……も……う、あ……いれ……」 待ってましたとでもいうように、ぬるぬるになった肛門に、硬い先端が押し付けられる。 「……っい!」 「っ、きつ……」 入らない。 というか、本当に入るのか?あんなものが? いや、一度入ったんだから入らないわけもな… 「あう!あっつう!痛い!」 「ごめ…なん、か……上手くいかな…もっ…かい…指…」 「うあ、あ…」 いちごの匂いのローションを足して、指を入れて、中を掻き回す。指を抜き、もう一度先端をねじ込む。 そのたびに俺は痛みに飛び上がり、慌てた蔵馬が抜いてしまう。 そんなこんなを繰り返し、柱時計が律義にボーンと時を刻む。 ということは、もう三十分も尻の穴を掻き回されているということだ。 「…あ、飛影…だいじょ…ぶ?」 「だいじょうぶ、じゃな…ない…」 俺たちは真夏のように汗びっしょりで、シーツを通り越し布団まで汗やらローションやらでぐちゃぐちゃだ。最初の涼しい顔はどこへやら、蔵馬も玉のような汗を浮かべている。 愚かで滑稽で、馬鹿みたいなひとときに、痛みの中で笑ってしまう。 「…なんで…あの時は入ったんだろ……」 「さ、あ…?」 多分、今日は蔵馬が俺をいたわろうとしているからだ。 準備なんかしないで、無我夢中で無理やり突っ込めば入るのだ。 「…飛影…今日は…やめと…」 「っ、あ……やめるな。…入れ、ろ」 今日繋がりたい。今繋がりたい。 何かを確かめたくて、俺は大きく息を吸い込み、吐き出す。 硬い先端が、また押し付けられる。 ひい、はあ、という乱れた自分の呼吸をどこか遠くに聞きながら、いきむようにしてそこを広げた。 「っあ!あああぁ……うああ!うぐ…」 ずる、と入ってくる。 先端さえ入ってしまえば、いけるはず… 「あ………っぐ、あ、ひ、ああぁ…」 「……っ、ひえい…!」 「…うっぐ…あ!う…ああああああ!」 腹が苦しい。どんどん奥へ入ってくる。 ぐちゅっと肉が開く音がし、尻にぱちんと蓋をするように、蔵馬の股間がくっついている。 「ぁうあ……うぅ…」 木目の天井が、涙でぼやける。 痛いし苦しいし、肛門とその奥に、吐き気を催すようなものすごい圧迫感がある。 でも。 「……くら…」 尻の中で脈打つものが、俺と蔵馬をひとつにしている。 赤い糸で繋がれた男が、今はもっと太くて熱いもので俺と繋がっている。 震える手で長い髪を引き、唇を重ね、広い背を抱きしめた。 「…っ、あ、飛影…」 「くら…くらま……」 ゆっくりと、蔵馬が腰を揺らす。 太ももを痙攣させたまま、俺もまた合わせて揺れる。 「…っは、う、あ、飛影……ごめ…ゴム…持ってきたのに…」 「…いい、から……もっ」 叩き付けるように動く蔵馬に合わせ、俺も尻を振る。 何度も何度も何度も突かれた。 体の中、奥の奥を蔵馬の先端が突き上げ、突き上げられるたびに俺は声を漏らす。 「…っひえ、あっ…好き…だよ…」 「あっ、うあ、あ、あ、あ」 体の中に、自分のものではない体温がある。 痛くて辛くて苦しくて、内臓が口から飛び出しそうなのに、痺れるくらい気持ちがいい。 ぐちょぐちょに尻を濡らすのがローションなのか汗なのかもわからなくなった頃、蔵馬がふいに体を離そうとする。 何をしようとしているのか気付いて、俺は巻き付けていた足をさらにきつくした。 「っ、あ、飛影…ちょっと離し……」 「……く…らま……や、だめ…だ…」 中に欲しい。 生きている液体を俺の中に放って、今夜を完璧にして欲しい。 今はそうして欲しい。 明日のことなんか、知るか。 「……蔵馬!」 俺の声に、広い背が大きく震えた。 「…飛影…っ…あぁ」 「………あ」 じわりと、腹の中に蔵馬の種が染みた。 多分この染みた液体は白から赤に変わり、俺たちを繋ぐ糸をもっと赤く染めるのだ。 階下の柱時計がボーンと、間の抜けた大きさでまた時を告げた。 ***
「堅実で地味な人生計画だなあ」変更を余儀なくされた人生計画について俺が語ったところで、蔵馬はそう言った。 どろどろの布団の上に毛布を敷き、その上に寝転んで。こっちは汚れずにすんだ掛け布団に二人でもぐる。 洗濯とかクリーニングに出すとか、ややこしいことは今は考えたくない。 「堅実で悪いか」 「悪くないけど、まあ人生は計画通りになんていかないじゃない?だいたいさ」 裸のまま、抱き合ったまま。 汗に湿った俺の髪を、蔵馬が指先でかきあげる。 部屋の中は、俺たち二人分のあれやこれやと、いちごのかき氷の匂いがした。 「その人生計画、妹の計画ばかりでお前の人生の計画じゃないだろう?」 「…え?」 「妹が卒業して就職して結婚して、幸せに暮らしましたとさ。で、お前は?」 「俺は…」 言われてみれば確かに。 俺はその時、いったいどこで何をしてるんだ? 「まあ、今後のその計画には俺が加わるわけだから、どっちみち計画は立て直しだね」 「そうなるのか…?」 「そうなる。ずっと俺が隣にいる前提で作り直して」 「…ずっと」 「ずっと、だよ」 蔵馬が、俺の小指に巻き付く赤い糸を引っぱる。 細くてはかなげで、それでいてまったく切れる気配のない糸を。 「飛影、愛してる」 「………俺、は」 「愛してる。永遠に」 先のことなんかわかるかと言い返したかったのに、俺は唇を噛んだまま、ゆるゆると頷いてしまった。 噛んだままの唇を開けるようにキスをした蔵馬の唇が離れ、笑みの形になる。 ふいに起き上がった蔵馬が電気の紐をひき、また布団にもぐり、俺を抱きしめる。 あたたかくて大きな体に抱きしめられたまま、いちごの匂いの眠りの波に素直に目を閉じる。 取りあえず、明日はこの布団をクリーニングに出して、納戸の布団を干そう。 そこから先の計画は、二人で一緒に考えるとしよう。 長いながい計画に、なりそうだ。 ...End |