糸...3

幸せだな、と柄にもなく思ったのがまずかったのかもしれない。

窓際の席は天井から足元までガラス張りで、視界の先には冬の終わりから春にかけてのやわらかい青色の海と空が広がっている。
テーブルに運ばれてきたパンケーキの皿に雪菜は歓声を上げ、ナイフとフォークを取った。

「いただきまーす」
「写真、撮らないのか?」

店内を見回すと、客は女ばかりで、ぽつぽつと女に連れられてきた男がいるという感じだ。
女たちはまるでそれが食べる前の儀式だとでもいうように、こぞって写真を撮っている。皿を持ち上げ、パンケーキと自分とが一緒に映るよう必死になっているやつさえいる。やれやれだ。

少なくとも今現在、この店の中にいる女の中で一番美人であろう俺の妹は、写真も撮らずにパンケーキを頬張っている。
写真は撮らないのかという俺の言葉に一瞬、あ、という顔をしたが、多分こういうものは食べかけを撮るものではないのだろう。

「いっつも撮るの忘れちゃう。だって出来たてで食べたいじゃない?」
「こっちと変えて撮るか?」
「ううん。ほら、飛影も食べて。美味しいよ。冷めちゃう」

パンケーキという物の存在は知っているが、食べるのは初めてだ。
ホットケーキの親戚みたいなものかと思っていたが、ふわふわと分厚くて甘いバターが乗っかったそれは、ずいぶん違う味だった。

フォークを持つ俺の左手、小指の付け根には今日も赤い糸が巻き付き、テーブルの上でゆらゆら揺れている。

この糸はどうにも不思議すぎる。

指から垂れてテーブルに流れ、テーブルの縁から先は空中をゆらゆらしている。窓や扉が開いていればその開いた場所を通っているし、電車に乗っても同じことだ。

糸一本通るすき間もないような場所に行ったらどうなるのだろうとは思うが、まだ試したことはない。
飛行機とか船とか、そういう場所だったらどうなるのだろうか?

実際にこの糸を辿ればその先には必ず蔵馬がいるのは確かなのだろうが、何キロ、あるいは何十キロもの間をこの糸は切れることなく俺とあいつを繋いでいるのかと思うと、本当に不思議だ。

パンケーキを美味そうに食べながら、学校の話、家の話、新しくできた友達の話と雪菜の話題は尽きない。

雪菜を引き取った泪という名前の女は、以前は結婚していたが夫には先立たれたのだと聞いている。
いきなり押し付けられた遠縁の娘に戸惑っていたが、どうやら最近は打ち解けて雪菜を娘のように思ってくれているらしい。

「泪さん、着物をいっぱい持っててね、今度着付けも教えてくれるって」
「着物か」
「うん。着物って着たことないから楽しみ。あ、交換しよう!そっちの味も食べたい」

俺の方の皿はバナナとバターとシロップだったが、雪菜の皿は苺やよくわからないベリー類と、チョコレートがかかっていた。
名前もわからないベリーにフォークを刺し、チョコレート味のパンケーキを口に入れたところで本日一発目の爆弾は落とされた。

だいたいだ、幸せだなんて思った時こそ油断してはだめなのだ。
神を信じているわけもないが、いるとしたら油断している人間に足を引っかけて転ばすような性格をしている、と思う。

「あのね、飛影」
「なんだ?」
「私、彼氏ができるかも」
「彼氏!?」

チョコレートソースのしずくがテーブルに垂れた。
彼氏?恋人?男?できるかも?かもってなんだ。

許さん。と思ったが、口に出す寸前でなんとか飲み込む。
許さんってなんだ。親父か?許すも許さないも、俺の決めることではない。

「かもって…決まっていないのか?」
「うん。この間電車で痴漢にあって」
「痴漢!? なんだと?許さん!」

今度は口に出してしまった。
痴漢?二発目の爆弾だ。

「飛影、落ち着いて。ちゃんと捕まえたよ?」
「…だろうな」
「泣き寝入りすると思うの?私が?」
「思わない」

なんというか、自分の妹に対してこんなことを言うとシスコンみたいで気が引けるが、雪菜はすごく美人だ。

けれど、綺麗で儚げで繊細そうに見えて、芯は強く気も強い。
自分が正しいという信念さえあれば、危ないことにも平気で飛び込んでいくタイプだ。
兄としてはそんな妹が頼もしくもあり、心配でもある。

「でね、その痴漢ときたら」

雪菜はその男の手をつかみ、この人痴漢ですと叫んだそうだ。ところがその男、ちょうど駅に着いたタイミングだったのをいいことに、雪菜の手を振り払い、あたりの人間を手当たり次第に鞄で殴りつけ押しのけ、混雑で身動きもままならない電車から飛び出そうとしたのだという。

「絶対逃がさない、と思って」

雪菜も負けじと追いかけようとした瞬間、大柄な男が人垣から飛び出し、痴漢をあっさり捕まえホームに引きずり下ろした。
往生際の悪いことにまだ逃げようと暴れる男を押さえつけ、駅員の通報で駆けつけた警察に引き渡すところまで完璧だったらしい。

「…で、その助けてくれた男と付き合うと?」

電車にはもちろん大勢の人間がいただろうに、皆が呆気にとられて怯んでいたところを躊躇なく行動に移る男。

妹を助けてくれた男だ。悪くは言いたくないが、痴漢を捕まえ助けた女に告白するというのは、なんだか引っかかる。
当然助けられた側は断りにくいわけで。

「悪くは言いたくないが、人助けの直後にお前と付き合いたいって言い出したのか?」
「ううん」

意外にも、雪菜は首を振った。

「その日は警察に行ったから、お互いに名前くらいはわかってたけど」

私もその人も制服だったから学校もわかるし。でもその日は何もなくて、お礼を言って別れて。
次の週に、私の学校の最寄り駅の改札口に、その人がいて。

「告白されたの。一目惚れだって」
「一目惚れって」

一目惚れなら痴漢を捕まえてやったその日に言うものじゃないか?
俺のそんな疑問が顔に出たのか、雪菜が笑う。

「あの日に告白したら、助けたことにつけ込んでいるような気がして、言えなかったんだって」

諦められなくて、でも自分は図体ばかり大きくて顔も良くないし、怖がらせるだけかもしれないって悩んでたんだって。
人が大勢いる駅でなら、告白したからってストーカーかなんかじゃないかって怖がらせたりしないですむだろうって考えたんだって。
いきなり彼女になって欲しいとかじゃなくて、良かったら友達になってくれないかって言うの。

「あなたは本当に綺麗だけど、痴漢を追いかける勇敢さもあって、そこを好きになってしまった、って」

照れたように、雪菜は笑う。
俺は無言でパンケーキを一切れ口に入れ、カフェオレで流し込む。

認めるのは癪だが、筋の通った男だと思う。
雪菜の顔を好む男なんぞ掃いて捨てるほどいるだろう。けれどあの気の強さや負けん気、そんな所も好きになる男。

そもそも妹を助けてもらったのだから本来なら礼の一つも言うべきなのだろうが、雪菜が男と二人で話したり出かけたりする。想像するのも面白くない。

「そんな顔しないで。まだ友達なんだし」
「気をつけろよ。男なんて」
「男なんて?飛影の方はどうなの?学校にかわいい子でもいた?」

思わず左手を見下ろし、小指を隠したいような気分になった。
雪菜には見えないのだから、焦る必要なんかないのに。

「あの学校で三十位以内が条件だぞ。そんなことをしている暇はない」
「えー?でもこの間は結構順位良かったって言ってなかった?何位だったの?」
「………四位」
「え?すごい!え?本当に?そんなに急に上がるものなの!?」
「勉強、教えてくれるやつが学校にいて…」

我ながら歯切れが悪い。

雪菜といる時に、蔵馬のことを考えたくない。いや、まったく考えないというのは無理な話ではあるが。何せ赤い糸はずっと巻き付いているのだから。

とはいえ蔵馬のことを考え出すと、あんなことやこんなことまで思い浮かべてしまって、妹と過ごす時間に考えるべきことではない。断じて。

「飛影?」
「え?ああ、だからその、取りあえず勉強の方は心配いらない」

ついさっき勉強が忙しいから女のことを考えるような暇もないようなことを言っておいて、矛盾していると口に出してから気付く。
喋れば喋るほど墓穴を掘るような気がする。皿をまた取り換え、溶けたバターのしみたパンケーキを頬張る。

「じゃあ、友達はできたってことだよね?」

パンケーキという水気のない食べ物が、文字通り喉に詰まる。
友達?あれって友達というのか?

「良かった。心配してたんだから」

飛影のことだから、むすっとして学校でも一人でいるんじゃないかって。
でも勉強を教えてくれるような友達ができたなんて。すごいね、ああいう進学校って、回りはみんなライバルじゃないの?自分の勉強が忙しくて人なんか構ってられないんじゃない、普通。なのに勉強を教えてくれるなんて、いい人だね。

にこにことそんなことを言われ、返事ができない。

勉強を教えてくれる「いい人」は学校の先輩で、男で、初めて喋った日に俺を便所で強姦し、挙げ句犯された瞬間から左手の小指には赤い糸が出現し、その糸は年中無休二十四時間繋がっている。

「いい人」は俺のことを運命の相手だの生涯の恋人だの夫婦になるだの言い出し、今はすっかり学校公認のカップルにされてしまっている。

妹に言える部分が、ひとつもない。
強いて言えば、学校の先輩。そこしかない。

俺は俺で、運命とやらを受け入れてしまっている。

運命だけでなく、「いい人」の性器まで尻に受け入れている始末だ。土曜日の今日、夜は蔵馬が泊まりにくる約束だった。

「会いたいな。今度会わせてね」
「今度な」

今度などない。永遠にない。
今度、と言い続けてのらりくらりとかわしていくしかない。

店の外まで人が並んでいることに気付き、食べ終わった俺たちは伝票を取り立ち上がる。
俺が払うというのを、自分も小遣いはもらっているからいいと断る雪菜とですったもんだし、結局半分ずつ支払い、店の外に出る。

いわゆる泳ぐための海ではない、港の風景が広がっている。
エサをくれる観光客でもいるのか、てくてく歩くカモメがかわいいと雪菜は写真を撮り始めた。

海風が雪菜の髪を、俺の指に巻き付く糸をゆらす。
ふいに、糸がくいっと強く引かれて…

「飛影!」

ほんの数ヶ月で完全に聞きなれた声。
驚きのあまり振り返れずにいると、近付く足音がする。

まるで海を背景に撮影でもしているモデルかのような顔で、蔵馬がいた。

「…くら」
「飛影、偶然だね」

何が偶然だ!そんなわけがあるか!
叫びたいのをぐっと飲み込む。

今日三発目の爆弾だ。
海辺にいるというのに、もう心象風景は焼け野原だ。

糸で結ばれているという生活は厄介で、いつだって糸を辿れば相手を見つけることができるのだ。
百歩譲ってたまたま近くを通ったのだとしても、誰かといるのを見たら声をかけないのが礼儀だろう。

携帯のカメラでカモメを追っていた雪菜が振り向き、あれ?と首を傾げる。

「雪菜、いや、これは…勉強を教えてもらっている…」
「あ、妹さん?雪菜ちゃんでしょう?初めまして」

すらりとした長身、モデルのように整った顔。海と空と、アンティーク風の建物とが並ぶこの場所に蔵馬はひどく似合う。
長い髪を海からの風になびかせて微笑む蔵馬を、何人もがこそこそ振り向き指差している。

笑顔で振り返り、口を開きかけた雪菜の笑顔がふいに種類を変える。
とまどいの色を浮かべた、作り物の笑顔だ。

目をぱちくりさせ、雪菜は俺たちを凝視している。
戸惑うようにそっとこちらに近付き、初めまして、と呟くように言う。

なんだか、変だ。
こういう時に雪菜は明るくそつなく挨拶をする方の人間だ。
さっきちょうどあなたの話を、とか、兄がお世話になってます、とか、そんなことを笑顔で言いそうなものなのに。

目にゴミでも入ったのか、しきりに瞬きをしている。
風が乱した髪を払い、俺たちにさらに近付き。

「飛影、これは…何?」

そう言って、雪菜は四発目の爆弾を俺に落とした。
白くて細いきれいな指で、俺と蔵馬を繋ぐ赤い糸をつまんだのだ。


...End
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