張り出された順位を、いつものように手に冷たい汗をかきながら見上げる。
二十八位、という三十位にぎりぎりで入る順位に、俺は握った拳を開き、安堵のため息をつく。

今回も、なんとかなった。
ぎりぎりではあるが、それでも条件には合致しているのだからそれでいい。

「飛影」

ぽんと肩を叩かれ振り向くと、クラスメイトの凍矢が同じように順位表を見上げている。
ちゃらちゃらした所がなく物静かで、色素の薄い目や髪がどことなく妹に似ているこの男は、俺にとって数少ない友人の一人だ。

「三十位、クリアできたな。良かった」
「ああ。なんとかな。お前は相変わらずだな」

凍矢の順位は十二位だ。毎回だいたいその辺りで、本人はいつもいつも俺は中途半端だと笑うが、俺にとっては羨ましい限りだ。十位前後をキープできれば、どれだけ安心して暮らせるだろう。

三十位までには、クラスの担任からミニサイズの表彰状ともいうべきご大層な順位表が配られる。
金色のインクで印刷されたその紙が、俺にはどうしても必要な物だった。

「二ヶ月後にはまた同じことを繰り返しているかと思うと、うんざりだ」
「まあな。でもここではそれが日常だ。慣れるしかない」

凍矢は笑うと、薄荷の飴が入った袋を鞄から引っぱり出し、水色が透けて見える飴玉の包みを俺の手にも二つ乗せた。

そうだ、ここではそれが日常だ。
でもなんだか、必死になっているのは自分を含めてごく少ない人間ばかりじゃないか、とも思う。
勉強というものを、苦もなくさらりとこなすやつら。一学年は百人ほど。どの学年も、上位の十人はいつもいつも同じ名前が並んでいる。

もちろん塾だの家庭教師だのと見えない場所で必死に勉強しているのかもしれないが、流行りの形に制服を着崩し、週末にどこへ行こうと笑いさざめく姿を見ると、嫉妬というには情けない、やるせない気持ちになる。

必死で勉強をし、二ヶ月ごとの定期テストを受ける。
胃を痛くしながら結果を待ち、ぎりぎりの順位に冷や汗とため息をこぼす。その繰り返しだ。

こんなことを三年も続けられるだろうか。
今年入ったばかりの高校に、俺は心底うんざりしていた。
***
ただいま、とぼそっと挨拶はしてみるが、俺の声に応える者は今日もいない。
手を洗ってうがいをし、机と本棚以外何もない自室へ行き、部屋着に着替える。

古いが手入れはそれなりに行き届いた日本家屋、という風情の小さな一軒家は、どこもかしこも線香くさく居心地が悪い。
仏間にはよく似た一族の遺影がずらりと掲げられており、薄気味悪いこの家をさらに暗いものにしている。
大きな仏壇の前の座布団に順位表を置き、襖をきっちりと閉めた。

二度ほどこの家を訪れたことがある凍矢は、昭和初期や大正時代の小説に出てくる三番手の妾の家みたいだ、と言ったが、小説なんか読まない俺にもなんとなくその意味はわかった。陰と陽で言えば、陰の家という雰囲気がこの家にはある。

仏間と続く居間には、一人分の夕食が用意されている。
一膳分の米と、茄子の味噌汁、煮魚にぬか漬けという色味のない食事だが、食えれば文句もない。ここの食事は味は取り立てて美味くも不味くもないが、どれもこれも冷めているのが残念だ。

卓袱台というには大きな丸い木の座卓と、茶葉やら茶器やらが入った飴色の小さな棚。
電子レンジのない家では食事をあたため直すこともできずに、俺は座って箸を取る。

テレビやラジオのない家でのひとりきりでの食事にも、もう慣れた。
学校からの連絡は全てメールで来る。それを受け取るために携帯電話は与えられているし、ゲームでも動画でも見ることはできるが、そんなことをしている暇は俺にはない。静かな部屋の中には時計の音と咀嚼音だけが響く。

お化け屋敷にでも置いたらよさそうな柱時計が六時を告げる。
片付けてバイトに行けば、ちょうど七時に間に合うだろう。

明日になれば何を食べたのかも思い出せなくなりそうな食事を平らげ、食器を手早く片付けた。
***
暑いとか重いとかはそれほど苦ではなく、苦手なのは酒の臭いと裏まで漂ってくる煙草の煙と、ごくたまにではあるが、表に出ろと言われることだ。

貼り出されたレシピ通りに酒を混ぜ、次々に下がってくるグラスを洗い、酒瓶をケースに片付ける。働けるのは七時から九時までの二時間、週に二回だけで、この店までは片道三十分以上もかかる。もっと近くでもっとマシなバイトはあるだろう。けれど選択の余地はなかった。

現金で、手渡しで。こっちの住所だの身分証明書だの面倒なことは言い出さず、つまり、税金やらなんやらもごまかしているであろういい加減な店はそうそう見つからない。

俺の通う高校は県内トップの進学校で、バイトは許可していない。バレれば即退学だ。
そもそも、生徒は裕福な家庭の子供が多いらしく、金に困っているようなのはあまりいないようだが。

お前は金に困っているのか、と問われたら返事に困る。

困っているとも言えるし、困っていないとも言える。
そもそも県内トップの私立の進学校に行けること自体、金に困っているとは言えないのだろうが、少しでいいから自由に使える金が欲しかった。

母親が死んだのは俺たちが二歳だった時らしいが、もちろん記憶には全くない。

父親は元々いない。俺と妹が存在する以上、生物学的にはいるんだろうが、ようするに知らないということだ。物心ついた時には俺たち双子は施設で暮らしていた。
施設での暮らしなんてものはたいしていい暮らしのはずもないが、妹がいつも一緒だったし、普通に飯が食えて学校に行っていた。個室ではないが部屋があり屋根があり布団があった。だから特別に不幸だったわけでもない。

だというのに、一年前にそれは一変した。
ある日突然、母親の親族を名乗る者たちが現れたのだ。

母親の身内というものに会ったことはなかったし、突然、十人近い親族が現れたのには俺も雪菜も驚いた。何より、その親族が女ばかりということにはもっと驚いた。妙に顔が似通っていて、気味の悪いやつらだった。

「我が一族の血を引く者を、このような場所で人様の施しを受けさせておくわけにはいかない」

気味が悪い、と思っていたのはハゲ頭の施設長も同じだったらしく、居並ぶ陰気な和服の面々に額の汗をしきりに拭っていた。
黙っていたら死んでるとこっちが勘違いしそうなえらく年寄りの婆は、施しなどという失礼な言葉を厳かな宣託のように告げ、同席していた二人の女を指し、俺たちの引き取り手だと説明した。

雪菜と離れて暮らすなんて冗談じゃない、そうは思ったが、雪菜の引き取り手だという女は写真で見た母によく似た女で、居並ぶ女たちの中で唯一まだ若く、気弱そうではあるが優しげな雰囲気をしていた。まあ、嫌だとごねたところで未成年の俺たちには選択権などなかっただろうけど。

不幸そうな薄い顔立ちの、八十近い女が俺の引き取り手だった。お前たちの祖母の姉妹だと名乗り、それっきり口を開くことはなかった。祖母の姉妹というのはいったい何にあたるのか、未だにわからない。
よくはわからないが、まあ祖母自体に会ったこともないのだから、祖母の姉妹と暮らすのも実の祖母と暮らすのもたいした変わりはないだろう、とは思う。

一緒に暮らす、という表現でさえ正しいのかどうかもわからない。

この家は祖母の姉妹とやらの婆さんの持ち家のひとつだとかで、婆さん自身が寝起きをする家は別にあるらしい。そこには爺さんという生き物もいるのか、はたまた一人で暮らしているのか、それもわからない。どうも子や孫に囲まれて賑やかに暮らしている、という雰囲気もないが。

夕食と朝食、それに昼食代だという五百円が毎日用意されているが、台所は使った様子がない。多分、どこかで作った物を持って来ているだけなのだろう。金曜日だけは土日の分の食事もまとめて作ってあり、冷蔵庫に入っている。
時折食事を届けに来た所に出くわすこともあったが、挨拶程度の会話でそそくさと婆さんは出て行ってしまう。

つまり、小学生だったら夜に便所へ行くことさえためらわれるような古い家とはいえ、何もせずとも三食出てくる家でほぼ一人暮らしをしているわけだ。高校生だったら大喜びで堕落の道をまっしぐら、になりそうなものだが、堕落している時間も金も俺にはない。

婆どもが俺に出したここで暮らす条件は、指定された高校に合格し、常に学年で三十位以内の成績をキープすることだった。
それができなければ、遥か遠くの地方にある一族の本家へお前を引き渡す、と言われた俺としては、必死で勉強をするしかなかった。

なぜって俺が暮らすこの家と、雪菜の暮らす家とは電車で二十分ほどの距離だ。
飛行機だの新幹線だので行き来するような場所へ行くということは、すなわち雪菜とずっと会えなくなると同じことだった。
***
学費はもちろん払ってもらっているし、衣服に関してはあの婆さんが選んだとも思えない、流行り廃りとは関係ないがひどいセンスというわけでもない、変哲もない服が定期的に届く。平日は制服なのだし、俺は服装にこだわりはないのだから充分だ。
衣食住が保証されていて、何の金がいるのかと問われれば、それは雪菜に会うための金だった。
二週間に一度、日曜日に雪菜と会うことにしていたが、どこへ行くにも電車代やバス代はいるし、会って昼飯でも食えばその金もいる。

お互いに他人の家に厄介になっている身なのだから贅沢をするわけではないが、会って気兼ねなく話すために月に一万円くらいの金は欲しかった。雪菜は多少の小遣いをもらってはいたが、双子とはいえ俺は兄で、奢るくらいの格好はつけたいという見栄もあった。
一日五百円の昼食代を貯めることも考えたが、昼食は教室でとるルールがあり、何も食べていない姿をすぐに担任に見咎められてしまった。
学校から参考書だの臨時講習だのの集金がくれば、金はもらえた。そこからごまかしてくすねることもできるのだろうが、それはしたくない。あの薄気味悪い一族に、必要以上の借りを作りたくなかった。

「おい!」

ホールのやつにオーブンを指され、俺は皿を取り、中で焼けていた冷凍のピザを乗せる。
焦げたチーズやサラミの匂い。美味そうだと思ったのも最初のうちだけで、一汁一菜の粗食に体が慣れたのか最近はなんとも思わない。

えらそうに命令した大学生のバイトに渡そうと差し出すと、表はバタバタだ、お前カウンターへ持って行け、とまた短く命令が飛んでくる。
裏だけという約束で安い時給で働いているというのに、オーナーがいない日となると時々表へ出ることを言いつけられる。

舌打ちをしてもしょうがない。
店の中は暗く、大音量の音楽が鳴り響いている。ここはクラブと呼ばれる店だが、高校の教師たちはみなこんな場所で酒をあおり踊るような年齢ではない。用心してはいるが、見つかることを真剣に心配しているわけではない。

この店では基本的にはドリンク以外のメニューはない。入場時に買うチケットにドリンクの価格も含まれているらしいが、仕組みはよくわからない。
ちょっとした食べ物をオーダーできるのは、店の関係者や常連の得意客だけらしい。

焼き立て以外に取り柄もないピザをカウンターに置いた瞬間、何語なのか、どこの国の音楽なのかもわからない音楽がぴたりと止んだ。

様々な色の光だけが、俺の目の前を無音で横切っては消えていく。
止まったのはもちろん俺の頭の中だけで、実際は体が跳ねるくらいの音量で音楽は流れ続けていたのだろう。

「あれ?」

あれ、なんてとぼけた言葉が、こんな馬鹿みたいな大きさで音楽が流れる場所で聞き取れるはずもないのに、俺にははっきり聞こえた。ピザの皿を邪魔そうに押しのけ、長い指を持つ大きな手が伸びてくる。

伸ばされた左手が、俺の左手をぎゅっとつかんだ。

「うちの一年生、だよね?」

癖のある長い髪も、女のように綺麗な顔をしているのに広い肩幅や高い身長も、男相手にさえ甘い笑みを浮かべるちゃらちゃらとした雰囲気も。

嫌なやつだ、と思った。
嫌いだ、と思った。

いつもいつも、二年生の順位表の一番右に名前を置いている男が、俺を見下ろし、笑っていた。
***
「名前は?」

笑顔のままで問われ、俺は返事をせずに睨み付ける。

この現状が、まずいことになったのかそうでもないのか、わからない。
バイトが学校にバレたら一発退学だ。とはいえ、こんな店に出入りしていることも同じく退学処分になるはずだ。おまけにこいつの目の前にあるのはさっき俺が作ったジンライムだ。

「名前は?顔はわかるんだけどな。いつも順位表の所で不安な顔してる一年生でしょ?」

つかまれたままだった手を、力いっぱい振り払う。
頬がカアッと熱くなるのが自分でもわかった。

俺はこいつの名前を知っている。
ひとつ上の学年とはいえ、毎回順位表の一位にある名前を忘れるわけもない。
何より、しょうもない話もさんざん聞かされていた。学校のやつらの噂話になんぞ興味も信憑性もないが、凍矢もその噂は本当だと肩をすくめていた。なら、それは本当のことなのだろう。

とんでもなく顔が綺麗で、成績優秀、部活動には所属していないが運動もできる男。
その男は、とっかえひっかえ、毎日違う女を連れていた。

顔も成績もいい男が女をとっかえひっかえしていても、時には複数の女に囲まれていても何の不思議もない。
そんなことは嫉みの対象にはなっても、おかしな噂になどならない。

噂になっているのは、あれだけ毎日のように違う女を連れていながら、誰ともセックスはしない、ということだ。
セックスをしたかしていないかなど、どうして本人たち以外にわかるのか、と思うが、ようはふられた女たちが腹いせに言いふらしているらしい。

勃たねえんじゃねえの、と下品に笑うクラスメイトや上級生を見たことも一度や二度ではない。
中学校も一緒だったという凍矢に言わせれば、中学時代から同級生から年下年上、はたまたその母親にまで粉をかける始末で、それでいて誰とも付き合うことはなく、「一日彼氏」というあだ名を付けられていたという。

「一日彼氏」は、こちらを見つめたままカウンターを離れない。
裏に戻らなければならないのに、俺はこの状況をどうしたらいいのかわからず、動けずにいた。

こんな場所にいてまずいことになるのはお互い様だ、いらんことを口外するなよと釘を刺せばいいのだ。
そしてここから離れる、それでいいはずなのに。

ふいにやつがほとんど減っていないジンライムのグラスに触れ、濡れたままの指先、左手でもう一度俺の左手をつかむ。

「…おい、離せ」
「キスして。してくれたら離す」

はあ?と間抜けな声が出た。
瞬間、音楽が振動が戻り、大音量に包まれる。

慌ててまた手を振り払う。
さっとあたりを見渡せば、客は変わらずに狂ったように踊り続けている。遥か遠くに見えるDJやフロアに出ているバイトも何も様子に変わりはない。音が聞こえなくなったのは、気のせいに決まっている。

「キスして」
「ふざけるな。なんで俺がお前に!」

そこそこ大きな声を出しても、こうもうるさくては周りには聞こえない。
やつはカウンターに身を乗り出し、言った。

「こんなところでバイトしてるのバレたら、困るんじゃないか?」
「それはお前も一緒だろう。バレればお互い退学だ」

振りほどかれた方の手でやつはグラスを持ち上げ、ひとくち飲む。
暗がりに様々な色のライトが踊るここはある意味幻想的で、男はますます綺麗に見えた。

「そうだな。バレれば退学だ。ところで、俺は退学になっても困らないんだけど、そっちは?」

ひときわ大きく、脳天に叩き付けるような大音量と、まったく予想をしていなかった言葉に、俺はよろめく。

退学になってもいい?そんなことがあるか?
虚勢を張っているだけなのか?

普通に考えればあり得ない。
だが「一日彼氏」なんてあだ名の男が、まともなはずもない。
なんとかと天才は紙一重ってやつだ。

高校は元々中高一貫の私立校で、俺のように高校から入学する方が少ない。大半がそうであるように、この男は中学からの生徒だ。
涼しい顔で中学時代からずっと一位をキープし、日本の大学どころか海外の大学でも好きなところへ進学できるという話のこの男が、退学になってもいいなんてあり得るのか?

あり得るかどうかはともかく、こっちは退学になるわけにはいかない。
それは確かだ。

キスなんて、誰ともしたことがないというのに。こいつと?
俺はカウンターに両手をつき、背伸びして身を乗り出し、やつに顔を近づけた。

唇を、重ねる。

酒のにおいはほとんどしないが、グラスの当たっていた唇は冷たい。
重ねて一秒、唇を離そうとした瞬間、伸ばされた腕にカウンター越しに抱きしめられ、口の中にぬるりと熱いものが入ってくる。

「んーーー!」

口の中で、他人の舌が動いている。
絡みつき、歯をなぞり、飲み込み切れない唾液が顎に伝うのがはっきりわかった。

「ん、ぐ……っやめ…!」

なんとか腕を解き、突き飛ばすようにして離れる。
口から飛び出そうになっている心臓を押さえつけ、後ずさってカウンターから離れると、やつは夢見るように自分の左手をじっと眺め、俺に差し出した。

「触って」

失せろと叫びたいが、退学の二文字と雪菜の顔が頭に浮かぶ。

俺は嫌々手を伸ばし、やつの左手に触れる。指をからめるように握られた手が熱い。
長い指、なめらかな皮膚。指の付け根…

ふと、微かな違和感を感じる。
左手の小指。根元に何か、巻き付いている…?

まじまじと眺めるが、何もない。
ここは暗いが、手元が見えないほどではない。
何もないのに、細くて、かすかなこの感触は…これは…。

「いっ」
「行こう」

強く腕を引かれ、カウンターに腹をしたたかにぶつける。
やつは身軽にひょいとカウンターに上がると、俺をそのまま抱き上げ、カウンターを下りた。

「離せ!下ろせ!」

いくら暗くてもうるさくても、さすがに周りの客も様子のおかしい俺たちに気付き始めた。
どうやらこいつの今日の連れだったらしい女がこちらへ近づき、何やら叫んでいるのをやつはうるさそうに追い払い、俺を担ぎ上げたまま足早に歩き出す。

「離せって言っ」
「ゆっくり優しくは後でしてあげる。取りあえず繋がらせて」

取りあえず?繋がる?
わけもわからないまま押し込められたのは二つあるトイレのひとつで、鍵をかけられ、洗面台の脇のわずかなスペースに押し付けられ、またキスをされた。

「んむ、んん!…あ、何、やめ、おい…っ」

どうなってるんだこの「一日彼氏」は!
女に飽きて、とうとう男にも手を出すようになったのか?

フライヤーだかなんだかがベタベタ貼られたトイレの洗面所は狭く暑苦しく、三十センチ以上は背の高い男に覆いかぶさられ、逃げ出そうにも身動きが取れない。
もがいているうちに、やつの手は俺のジーンズのボタンを外しファスナーが下ろされる。

この洗面所でセックスをするやつらもいると、大学生のバイトたちがニヤニヤしながら言っているのを聞いたことがあるが、今まさに、どうやら俺はその危機に見舞われているらしい。
トイレや洗面所でセックスをするやつらだって、いくらなんでも合意の上だろう。なのに俺ときたら、退学の二文字にされるがままになっている。もうズボンと下着は膝の辺りまで下ろされてしまった。

「ちょ…待て…この変態…!おい、お前は勃たないんだろ?一日彼氏!」

叫んでみたが、そもそもこの扉の外は大音響だ。
誰にも何も聞こえているはずがない。

強姦?男が男に?
そんなことがあるか?

「おい!蔵馬!!!」

順位表の不動の位置にある名前。
こいつの名前を、喉が裂けそうな大声で叫んでみたが、足の間を探る手に急所を握られ、息を飲む。

指先が器用に動き、俺は感じたくもない快感を感じ始め、膝が震える。
初めての他人の手の感触に、熱さが全身に広がるようだった。

「……うあ…っ!」

出た。
出してしまった。
このイカレた男の手に。「一日彼氏」の大きな手に。

いつの間にやらシャツのボタンも外されていて、首筋に鎖骨に唇が吸い付く。
勉強のできる男は手先も器用で、俺のズボンと下着はもう床に落ちている。靴さえ脱がされ両方とも転がっている。

「ちょ、待っ……おま、え……ひっ!」

乳首をゆるく噛まれ、舌先で突かれる。
俺の出したものを受け止めたままの濡れる指先が、尻を割るように奥を探っている。

は?え?
何…なんだ、おい。

「んあ!」

尻の穴に、指先がねじ込まれる。
指は精液に濡れてはいたが、引きつるようでとんでもなく痛い。暴れてみたが、狭い場所で完璧に覆いかぶさられている今、逃げ出せない。おまけに暴れるたびに指が差し込まれたままの尻の穴が痛くて、動けなくなる。

「抜け、バカ!っ、痛い!いい加減に…」
「…名前は?」

名乗る義理はないと叫ぶ寸前、体の中で指が折り曲げられ、声は悲鳴になった。
体内をかき混ぜるようにぐるりと指を回され、やめろと長い髪を引っぱるしかない。

「ほら、名前。言わないともっと奥に入れるよ」
「や、うあ!あ……ひ、ひえ…い…」

見上げた男の綺麗な顔に、笑みが浮かぶ。

「…ひえい。飛影、だね。綺麗な名前」
「う、あ、ああ、あう!」

勢いよく指が抜かれ、俺は肩で息をし、潤んできた視界でやつを睨む。

「綺麗な名前だね。嬉しいな」
「…嬉しい?」
「運命の人の名前だから。綺麗なのは嬉しいよ」

何が運命だこのキチガイ!
ついさっき始まったばかりだろうが!

服を拾おうと伸ばした手を、ぐいっと引かれる。
抵抗する間もなくまた洗面台に押し倒され、両足を持ち上げられる。
認めるのは癪だが俺は体が小さいし、やつは大きい。大人と子供と言ってもいいくらいの体格差がある。俺は力も強いし足も早いが、逃げ出せない場所では不利でしかない。

「な、ん、なんなんだ!はな…」

離せ、と言いかけた言葉が、喉の奥でつっかえて消える。
ズボンと下着を下ろした「一日彼氏」の股間にそそり立つ赤黒いものに、言葉は蒸発するように消えてしまった。
学校のやつら、勃たねえんじゃねえの、と笑っていたやつらを今すぐここに連れてきて、尻を差し出させてやりたい。このご立派なブツを拝ませてやりたい。

「……え」
「大丈夫、痛いのは最初だけらしいよ」
「え、あ、待っ……」

硬い先端が、押し付けられている。
穴は濡れてはいたが、そういう問題ではない。

「や」

俺の上げた悲鳴は、さすがに扉の外まで聞こえたはずだ。
***
「…物心ついた時から」

洗面台の端にやつは座り、その膝に座る俺の体の中には、勃起した性器が納まったままだ。
ゆらゆらと揺らされ、何度目かの射精に、もう俺は声も出せずに揺さぶられるままになっている。

熱くて、痛くて、めまいがする。
熱くて、痛くて、気持ちがいい。

「物心ついた時から、左手の小指に…」
「………い、糸…だ…」

そうだ、細くてさらりとした、糸だ。
カウンターで触った時にはなんだかわからなかったが、あれは糸の感触だ。

「そう。薄い赤い色の糸が巻き付いていて、それは指から十センチくらいの所でとけるみたいに消えていて」

あ、あ、と細く声を上げながら、俺は囁かれる言葉を聞いている。
何度も中に出されたせいで、繋がった場所はぐちゅぐちゅと音を立てている。

「糸は時々、誰かを指すように動くことがあって。その人と粘膜を合わせる時だけ、色が濃くなった」

キスをして舌を絡めると、濃くなる。でも、それっきり。
そこでまた糸の色は、薄く消えるみたいになって。

運命の赤い糸?前世からの縁?
俺はそういう馬鹿げたことを信じるタイプじゃないんだけど、でも糸は確実にそこにあって。

「糸がお前を指した時は驚いたな。男を指したのは初めてだったから」

ふ、とか、あ、とか、意味のない言葉だけがぽろぽろと唇からこぼれる。
体中どこもかしこも熱い。全身がだるくて重い。

「キスをしても、唇を離しても、糸の色は薄くならなかった。どんどん濃くなって…」
「…糸……濃く、な……っ」
「もうお前にも、見えているんだろう?」

やつの胸に落としていた顔をなんとか持ち上げ、重い頭を動かし、のろのろと左手を持ち上げた。

俺の小指に巻き付く細くて真っ赤な糸。
十センチくらいの所でとけるみたいに消えてなどおらず、宙を舞うように浮かび、俺の腰に巻き付いている大きな左手の小指に繋がっている真っ赤な糸。

「やっと見つけた。……絶対に離さないから」

女みたいな顔。綺麗な顔。
…いかにも執念深そうな顔。

小指を口に近付け、垂れる赤い糸を試しに噛んでみる。
唇にも歯にも糸の感触はあるのに、細い糸は噛み千切ることもできない。

「ひえ、い…」
「…あっ、あ、あ、あ…」

グラスに注いだ水が溢れ出すように、体の中から何かが溢れ出す。
包みこまれ押し上げられ、俺は背を反らしてまた叫んだ。

しょうがない。
もう、しょうがない。

運命の赤い糸?前世からの縁?
馬鹿馬鹿しい。どっちだって、構わない。

見つかってしまった。
捕まってしまった。
細くて強くて赤い糸に、俺は捕まってしまった。

暗い明かりに糸は濃く赤く、俺たち二人を繋いで光っていた。


...End



2020年9月1日、蔵飛の日に捧げて。
実和子
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