インソムニアの夜明け...9

それから二、三日、思い出しては落ち着かない蔵馬とは正反対に、飛影はまるで何事もなかったかのようにふるまっていた。

…もしかして、俺、夢を見たのかな?
蔵馬がそんな事を考えてしまう程に。

「先生、お客様ですよ」

いくら一人の専属とはいえ、医局にも用がある。
医局の扉に手をかけた途端、事務の女性が声をかけた。

「お客…?」

一瞬思い浮かんだのは母の顔だが、国内に住んでいるとはいえ、母親は列車で半日もかかる、郊外の田舎で暮らしている。一体誰だろう?

「よお」

そう言って片手を上げたのは、蔵馬にとって数少ない友人の海藤だった。
蔵馬に負けず劣らずの飛び級で医学校に入学したが、医師ではなく研究者になったのだ。特別親しかった訳ではないが、年齢の近かった二人は時折交流があった。

「すごいな。病院じゃないみたいだ」

これまたアンティークな応接室を、海藤は感心したように見回していた。近くに学会の集まりがあり、顔を見に寄ってくれたのだという。

「久しぶりだな。研究室の方はどうだ?」
「相変わらずさ。一つ解決したと思えば、また新しい病が出現、ってわけだ」

二人は和やかに、互いの近況報告をし合う。

「一人の患者に付きっきりなのか?それは参るな」
「…そうでもないよ」

だって、好きなんだ、その子のこと。
とは、さすがに言えない。

「さすが財閥のお坊ちゃまはわがままだな。まあ、大変だろうけど、メイユールにコネができるなんて滅多にないチャンスだろ?」

それに、ずっとってわけじゃないしな。

海藤が何気なく言ったその一言が、蔵馬の胸に突き刺さる。

「…その患者には申し訳ないけど…そう長くは生きられないだろうな」

飲みかけていたコーヒーが、急に泥水のような味になった気がした。

そうだ…それはコエンマからも聞いていた。
一週間ごと、一か月ごと、彼は確実に弱ってきている。
車椅子は使いたがらないので使わないが、時折歩く事さえひどく辛そうだ。

だからこそ。

「だからこそ、俺は彼の側にいたいんだよ」

…それが許される限り。

「相変わらず、お前はやさしいな」

その患者の情報を俺にも送っておいてくれ。もし少しでも進行を食い止められそうな手があったら連絡するよ。
海藤は昔と変わらずぶっきらぼうにそう言うと、じゃあな、と部屋を出た。
***
診察だけではない。

薬を飲ませ、点滴を替え、食事を摂らせる。
着替え、入浴、話し相手…そういった身の回りの世話をする。
好きな人の側にいて、世話ができる。
それだけでも、十分に蔵馬は満たされていた。

「手慣れてるな」

それは、片手の使えない飛影の服を着替えのために脱がせている時だった。

「…看護婦だって慣れていないやつもいっぱいいるのに。…脱がせ慣れてるってわけか?」
「ち、違うよ!母さん…母が病気だったから…」
「ああ、そうだったな。病人の世話は慣れてるってわけか」

感心、というよりは、やはり冷笑だ。
だが、以前よりは言葉にトゲがなくなってきたような気がする、というのは蔵馬の希望的観測だろうか?

「…それで?母親はどうしたんだ?」
「今は元気だよ。俺の父親だった人は死んだんだけど、今は再婚して幸せに暮らしてる」
「…いい事だな」
「え?」
「死んだやつの事なんかさっさと忘れる方がいい」
「…飛影…?」

外に出たい。
蔵馬の言葉を遮るように、飛影は言う。

今日の飛影は調子がいいとは言い難い。
院内と、中庭だけなら…、と蔵馬はしぶしぶ承諾した。
***
腕を組む、というよりは、蔵馬が支えていなければ転んでしまう、というのが正確だろう。

院内も、中庭も、たっぷりの緑が輝くような光を零していたが、飛影はさほど興味もなさそうだ。
外来棟には抵抗力の弱っている入院患者は入らない方がいい、病棟に引き返そうと蔵馬はうながそうと…

急に袖を引っ張られた。

「わ!なに、飛影…っ」

壁に押し付けられ、キスをされた。

この間の、軽く唇を合わせるようなキスではない。
舌を絡め、蕩かすような淫らなキス。

こんな所で…

誰が通るか分からないのに。
慌てて飛影を引き剥がした蔵馬の視線の先には、人がいた。

見られ…

「おいおいおい。何してんだこんなとこでよー」
「バカ!そんな事言うもんじゃないわよ!」

ニヤッと笑う幽助の隣には、顔を赤くした螢子がいた。どうやら退院後の定期検診にでも来たらしい。

「お盛んだねセンセー。いいの?患者とそんな事して?」
「あ、いや、あの…それは…」
「ちょっと!やめなさいよ幽助!!」

飛影が甘えるように、蔵馬にしなだれかかる。
大きな瞳は、挑発するような光をたたえていた。

「冗談に決まってるだろー」

幽助は豪快に笑い、飛影の髪をクシャッと撫でた。

「良かったな。カッコイイし、頭いいし、言う事ねえ相手じゃん」
「…そうだな」

飛影は薄く笑うと、蔵馬の腰に腕を回す。

「ほーんと。あんたと正反対、私もこんな恋人が欲しいなあ」
「バーカ。おめーには俺ぐらいがちょうどいーんだよ」
「なんでよ!?」

あーうるせえ。
お前みたいなうるさいのは病院にいちゃいけないんだよ。帰るぞ。

帰るぞじゃないわよ!これから診察でしょうが!
うっるせえなあ…
付いてきてやったのになによ…
頼んでねーっつの…
あんたが診察すっぽかさないように、温子さんに頼まれたのよ…

騒がしい二人は、手を振ると、その場を後にした。

「ほんとに元気だよね、あの二人は…」

笑ってそう言いかけた蔵馬は、ハッと息を飲む。

飛影の目は、まだ何かを言い合いながら外来棟の方へ向かう二人の背中に注がれていた。

その目に絶望が一瞬見えたのは、蔵馬の気のせいだろうか?
***
「センセー!」

医局から出てきたところを、陽気な声が呼び止める。

「幽助くん。診察終わったの?」
「おう。飛影は?」
「部屋に戻ってるよ。寄ってく?」
「いや、今日は螢子がいるから。あいつうるっせーから飛影の具合が悪くなる」
「彼女はどうしたの?」
「薬取りに行ってる」
「いい彼女だね」

腐れ縁だよ腐れ縁。
なんせ幼なじみだからな。

そう言って笑う幽助は、ちょっと照れていた。

「ところでさ…」

柄にもなく真面目な顔をして、幽助は声を潜めた。

「あいつ、本当に大丈夫か?なんか前よりも真っ白くなったみてーに見えるけど…」
「あ…うん。そうだね…」

蔵馬は困ったように俯いた。
先ほどの海藤の言葉を思い出さずにはいられない。

…その患者には申し訳ないけど、そう長くは生きられないさ…

「…飛影、最近、夢はどうだって?」
「え?夢って…?」

あいつ、眠れないって。
眠るのがこわいんだ、って。
夢の中では自分の額の目はちゃんと開いていて、人の目では見えないような遠くまで見える、三ツ目の化け物になってる、って。
でもその夢の中の景色が…後から調べると本当にある場所で、見た通りの景色なんだとよ。
俺は気が狂ってるんじゃないか、って。

「そんな…」

そんな夢の話、一度も聞いた事はなかった。
目の前の少年には話して、俺には話してくれなかった…。

それはひどく蔵馬を傷つけた。
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