インソムニアの夜明け...8

冗談だ。
冗談に決まっている。

居心地のいい職員用の食堂で遅い朝食をとりながら、蔵馬は混乱の極みにいた。

そんな訳ない。

きっと長く入院しているから退屈なのだ。
それで新入りの俺をからかったのだ。

そうに決まっている。
まだ熱く感じる頬に、蔵馬はアイスティーのグラスをあてる。

からかうような、あの笑み。
冷たいキス。

変わった子だから、と言ったコエンマの言葉を思い出す。

確かに、変わってる。
でも…なぜだろう。

あの言動に、醒めた口調に、何よりもあの赤い瞳に。
どうしようもなく、魅かれる。

いや、そんなのはだめだ。
患者に恋するなんて許されない。
しかも、相手は跡継ぎ候補からは外されたとはいえ、大財閥の養子なのだ。

初恋は叶わない、などというよく聞く言葉を思い出し、蔵馬は溜め息をついた。
でも…少なくとも、彼が嫌だと言うまでは、側にいる事はできる。

…見てるだけなら、想っているだけなら…

誰にも迷惑はかけない。
だから、彼を見ていたい。

誰に祈っているともつかない願いを、心の中で呟いた。
***
外は昼間の晴天とは打って変わってびっくりするような嵐で、叩きつけるように降る雨や、轟く雷に脅える年若い患者たちからのナースコールがひっきりなしに響く夜だった。

飛影の病室の続き部屋で眠っていた蔵馬は、自分を呼ぶ小さな声ですぐに目を覚ました。
担当医に指名されてから一ヶ月、飛影は自分の病室の隣の続き部屋に居を移すよう、蔵馬に命じた。

いくらなんでもわがままが過ぎる。家族でもあるまいし、そんなに一緒にいるのは負担だろう?
コエンマはすまなそうに蔵馬にそう聞いたが、蔵馬は慌てて首を振った。

「俺は…構わないですよ」
「そうか…?お前は優しいな」

「…本当に、いいのですか?」

そう尋ねたのは、飛影の妹、雪菜だ。
初めて会った時はまるで似ていない兄妹だと思ったが、何度か会うと、小柄な所、目が大きな所、透けるような白い肌など、よく見れば似ている所をずいぶん見つけた。

「兄がわがままを言って申し訳ありません。もちろん、当家から先生にはそれなりのお礼をと思っております」

そう話す妹は、すでに大財閥の継承者である物腰や権力の扱い方を身に付けていた。生まれつきメイユールの者であったかのように、不思議にしっくり馴染んでいる。

本当に、すまんな。
そう言ってコエンマは頭を下げた。

「…でも、良かった」

雪菜はポツリともらす。

「兄はこんな生活ですし…兄があなたに側にいて欲しいと望んでいて、あなたがそれを受け入れてくださるなら、本当に良かった」
「気にしないでください、あの、その…全然嫌じゃないですよ。なんでも経験ですし…」

慌てる蔵馬に、雪菜は微笑みかけた。

日が経って、もし兄の気が変わったとしても…兄に万一の事があった場合でも…メイユールはあなたを全面的、恒久的に支援させていただきます。医師としてでも、研究者としてでも。援助はご遠慮なくお申し付けください。
そう言うと、妹はほっと溜め息をついた。

そんな訳で病院に隣接している寮から出て、蔵馬はここに移ったのだった。
元々はメイユールから来ていた召使いが寝泊まりしていた部屋で、続き部屋とはいえ寮の部屋に比べても広さも設備も遜色はない。
とはいえ開け放たれたままの扉から、いつ何時わがままな患者に呼びつけられるかも分からないような生活では誰しも参ってしまうだろう。

もっとも、初恋に胸をときめかせている者だけは、その例外であるのだが。

自分を呼ぶ小さな声。
ベッドに頭まですっぽりもぐり込み、くぐもった声で飛影は何かを呟いた。部屋の明かりは一つだけ灯っていて、アンティークなインテリアと相まって、それはまるで電気の無かった時代に戻ったかのような錯覚を覚える。

「どうしたの?我慢できないくらい頭が痛い?」

違う…と小さな声。

一際大きな雷鳴が轟き、部屋を一瞬昼間のように明るく照らし出した。

「………こわい」

怖い。
確かに、そう言った。

蔵馬は思わず微笑んだ。
そんなかわいい所があるとは意外だったからだ。
ベッドのすぐ側に置かれた椅子に腰を下ろし、膨らんだ毛布をポンポンと軽く叩く。

「じゃあ、俺、ここにいるから。安心して眠っていいよ」

白い手が覗き、ついで目から上だけを、飛影は毛布から覗かせる。
赤い瞳が、揺れる。

「…一緒に…」
「え?」
「…こわい……眠れない」

そこでようやく、ベッドで一緒に寝る事を命令されているのだと、蔵馬は気付いた。

…部屋が薄暗くて良かった。
片思いの相手にそんな事を言われれば、誰だって顔が赤くなる。
おまけに先日のからかわれたキスの事もつい思い出してしまう。

「…一緒に?」

飛影は目元まで毛布にもぐったまま、体をずらしてベッドを半分空けた。もっとも、そんな事をしなくても十分二人で寝れる広さはあるのだが。

その明確な意思表示に、蔵馬はこれは仕事なんだし、俺の気持ちを飛影は知らないのだから躊躇うなんてかえっておかしな事だと言い聞かせ、隣に滑り込んだ。

敷地内に落ちたのではないかと思うほどの雷が鳴り響く。
ビクッと震える飛影の体が蔵馬の胸元に抱き付く。

「大丈夫だよ、病院には落ちないようになっ…」

あれ…?
大丈夫と宥めようと肩に手をかけた蔵馬は、なめらかな感触に驚く。

「飛影…?…」

その違和感に、蔵馬は枕元のランプを点けた。

オレンジ色の、灯り。
蔵馬の胸の中で、飛影がニヤッと笑う。

一糸纏わぬ姿で。
***
「ひ、飛影!パジャマはどうしたの…!?」

蔵馬の腕の中に納まる裸体は、白くなめらかに小さい。
全裸で、身に付けている物といえば、額の包帯と腕に止められた点滴だけだ。
もっとも、どちらも身に付ける類いのものではないが。

「知らんな…お前が脱がせたんじゃなかったか?」
「な!何言って…」

飛影の両腕が、慌てふためく蔵馬の首に回される。

「いいだろう?」
「え?ええ?…何を…」

「セックス。久しぶりにしたい」

仰天している蔵馬を尻目に、飛影はあっさりと答える。

「な…だめだよ!そんな事…!」
「なぜ?」

俺が患者で、お前が医者だからか?
無邪気ともいえる口調で、飛影はそう尋ねる。

「そ、それもあるけど…」
「…あるけど?」

綺麗な顔を火照らせて、蔵馬は飛影の裸体から目を反らす。

「そういうのって…誰とでもしていいわけじゃ…」
「別に誰とでもって訳じゃない。お前が気に入ったと言っただろう?」
「でも…」
「お前は?俺が嫌いか?」

紅い瞳が、ランプの灯りに映える。

「嫌いだなんて…そんな…ことは…」

むしろ…好き、なんだけど…でも…。
蔵馬が心の中で呟いた部分まで聞こえたかのように、飛影は笑う。

「…なら、いいだろう?」

蔵馬のシャツに手をかけ、飛影は片手だけで器用にボタンを外し…

手を、つかまれた。

「なんだ?どうし…」
「ご、ごめん!今日は…これで…」

飛影の裸の肩に毛布をかけ、頬にキスをすると、蔵馬はベッドから逃げ出した。
隣の部屋に戻り、ドアがパタンと閉ざされる。

「…なんだ…変なやつ」

…誘って断られたことなどなかったのに。
相手を間違えただろうか?

頬にキス、ねえ?
…ガキじゃあるまいし。

でも、あの慌てた様子を思い出すとおかしくて、飛影はクスクス笑いながら、キスをされた頬を押さえて、パジャマを拾い上げた。
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