インソムニアの夜明け...7

「今日はね、コエンマ先生がお休みなんだよ。新しい先生。蔵馬先生」

ずいぶん若い医者に飛影は内心驚いた。
この国では優秀な者は年齢に関わらず専門職に就く事ができるが、それにしても若い。

たいして歳が違うとも思えない新入りの医者。そいつが今日は診察に現れた。もっとも、エリートぶった嫌味な感じはない。どちらかといえば、大人しそうな雰囲気だ。

「初めまして。…蔵馬、です。よろしく…ええと…」

その視線は、飛影にとってそれほど珍しいものでもなかった。

時々、こういう視線を寄越すやつがいる。

庇護欲、なのか征服欲なのか、患者に…弱っている者に惹きつけられる、者。
どうせ暇を持て余している日々だ。病院のそんな職員たちをからかってやるのも悪くないが、そんな事に意味はないともう分かっている。

こいつらは俺の欲しいものを持っていない。
何一つ、俺の役には立たない。

興味をなくし、本に視線を戻す。

「これ…痛くないのかな?」

傷跡を指して、おどおどと言ってもいい口調で聞くその声に、飛影は顔を上げた。

綺麗な男だ。
いや、年齢的には少年と言ってもいい。

まるで女のように整った端正な顔に、長い髪は後ろで結んである。

「…ずいぶん若いんだな。本当に医者なのか?」
「い、一応…」

「まーた謙遜しちゃってえ。一応どころか1%の天才なんだよこの先生!」

「へえ。…俺の妹と一緒だな」

飛影の目に、興味の色が見える。

「ぼたん。こいつを俺の担当にしてくれ」

小さな笑みとともに飛影がそう告げる。

…久しぶりだ。
飛影は内心でほくそ笑む。

見目もいいし、第一…こいつが俺に魅かれているのは、手に取るようにわかる。

この病院の者を相手にすることは今までも時折あった。

壊れ物のように扱われる事には閉口するが、患者を相手にするよりは面倒がない。関係がばれてそいつがクビになったとしても、知った事ではない。

…やっと、役に立ちそうなやつを、見つけた。
***
「おはよう。今日はどう?」
「変わりない」

そっけない、返答。

飛影一人の担当になってから一週間。
昨日まではついていてくれたぼたんも、今日からはいない。

普通は看護婦が一緒に来るものだが、飛影が不要だと言ったのだ。
こまごまとした看護や身の回りの世話は、本来医師の仕事ではないのに、飛影は全てを蔵馬にさせろと指示してきたらしい。
メイユールから来ていた召使いも屋敷に帰してしまった。

窓辺の椅子に座り、無表情なその顔は、視線を本に落としたままで。
赤い瞳は朝の光りに、濡れた輝きを見せる。

我ながら、遅すぎる初恋だとは蔵馬にもわかっている。
しかも少年に。

この国では同性同士の恋愛も結婚も許されてはいるが、医師が患者に惚れるというのは道義的にどうかと思う。

「ごめん、診察するからベッドに戻ってもらっていいかな?」

紅い瞳がこちらをじろりと睨む。
ベッドに戻る気配もないその姿に、蔵馬は困惑してしまう。

「…後にしろ」
「いいよ。診察はご飯の後でも。天気もいいし、朝食はそっちで食べる?」
「ああ」

そっち、というのはバルコニーだ。最上階のこの部屋には、素晴らしい景色が見えるバルコニーがついている。
もっとも、病院という場所柄、患者が転落…意図的なものであれそうでないものであれ…しては困るので、職員以外は鍵を開けられないのだが。

座ったままの飛影が左手を差し出した。
意味が、分からない。

「…気が利かないな、蔵馬」

呼び捨てにされ、小馬鹿にした笑みを向けられる。

「俺を一人で歩かせるのか?」

介助を要求されているのだと、ようやく気付いた。

「ごめんね。気付かなくて」

細い手を取り、支えるように立ち上らせた。
驚くほど軽い体。

あの人形めいた印象は部屋の雰囲気のせいかと思ったが、バルコニーに出てもそれは変わらなかった。
体は白く細く、大きな赤い瞳は日差しの中でも人形じみていた。

腰を抱くように支えるその姿は、傍から見ればただ、病人をいたわる姿にしか見えなかっただろう。
分かっていても、蔵馬は胸が高鳴るのを抑えられなかった。
***
蔵馬が何かを話しかけ、飛影が短い返事を返す。

ああ、とか。
そうだな、とか。
さあ、とか。

聞いていないんじゃないかと思えるほど、気のない返事。
時にはものの見事に、無視もされる。

コエンマは、お前を気に入っているようだ、話し相手になってやってくれなどと言っていたが、とてもそうは思えない。むしろ嫌われているのではないかという気さえする。
もっとも、具合の悪い患者に機嫌の良さを期待するのも無理な話なのだが。

唯一飛影の方からかけられた言葉は、どうして医者になったのかという質問だった。

「母さんが、病気だったから」
「…面接用の問答集にでも書いてあったのか?」

冷笑が返される。
ほとんど残したままの食事のトレイを、もういらないとばかりに飛影はテーブルの端に押しやった。

「本当だよ。自分でもなんだか嘘っぽいけど」
「ふうん」

それっきり、母親はどうなったのかとか、当然続くであろう質問を飛影はしなかった。
まるでそんな事に興味はないとでも言いたげに。

「妹さん、今週は来れるのかな?」
「…なぜ?」
「いや、お会いして話をしてみたいなと思って…」
「明日か明後日には来ると思うがな。話したきゃ好きにしろ」

紅い瞳が、またもや蔵馬をじろりと睨む。

…本当に、嫌われているのではないだろうか。
でも、それならわざわざ担当を替えさせてまで俺にする必要も…

蔵馬は、飛影のあまりのそっけなさに少々傷付き、躊躇いながらも朝食に付き合い、部屋に戻って診察を始めた。

…本当に、瞼だ。

何度見ても、不思議だった。

額にもう一つの眼。
まるでどこかの国の神様のようだ。
だから…こんなに綺麗な赤い瞳をしているのかも。

もっとも、その神様はこの眼のおかげで散々苦痛を味わっている。
先輩は取り除く事は不可能だと言っていたが…なんとかならないものだろうか…?

そんな事を考えていた蔵馬は、その赤い瞳がじっと自分を見つめている事に気付いた。
額を観察するあまり、顔と顔が触れるほどに飛影に近付いていた事に気付き、赤面する。

「ご、ごめん。くっつき過ぎちゃった」

あはは、と蔵馬は笑うが、飛影は笑う事もなく、じっと蔵馬を見つめたままだ。

「あの…どうしたの…?」

蔵馬の心臓が、急に速度を速める。
本当に、この赤い瞳は綺麗だ。

「もっと、よく見ろヤブ」

皮肉っぽい笑み。

そんなひどい言葉にさえ、蔵馬の心臓は跳ね上がる。
飛影の前髪をかき上げ、じっと額に見入る。

「うん…。あんまり眠れてないみたいだけど…薬の入ったガーゼは効いてる?…効き目が弱くなるようならもう少し量を…っ」

ふいに、飛影が顔の位置をずらした。

「……!」

飛影の冷たい唇が、蔵馬の唇に重なる。

「ちょ!…え?」

ひやりとした、短いキス。
飛影は慣れた様子で蔵馬の唇をペロリと小さく舐め、顔を離した。

「え、な…何…飛影く…」
「…呼び捨てでいいと言っただろう。鬱陶しい」
「え、いや、そういう事じゃなくて…なんで…」

慌てふためく蔵馬に、飛影はニヤリと笑う。

「…別に。お前が気に入ったからだ」

そのひどく冷めた口調の唐突な告白に、蔵馬はポカンと口を開けた。
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