インソムニアの夜明け...4

午前三時。

妹がプレゼントしてくれたやわからかな形の木細工の時計は、規則正しく時を刻む。

……眠れない。

もう何年も前から、飛影は眠れない夜を過ごしていた。
もともと寝付きは悪かったが、この頭痛に悩まされるようになってからは二時間も続けて眠れればいい方だった。

眠れたら眠れたで、奇妙な夢ばかりを見る。

夢の中では…額の眼はきちんと開いていて、遥か遠くの景色が見えるのだ。

よその街。よその国。

それはとても夢とは思えぬ恐ろしいほどのリアルさで、わずかな睡眠時間でさえ安らぐ事はできなかった。
とはいえ、もしこれが薬物を使っていたがゆえのフラッシュバックならば自業自得もいい所だと、飛影は目を閉じる。

自分の額に瞼のようにも見える捩れががあることに気付いたのは幼い頃だ。それについて困ったとか、悩んだとか、そんな記憶は飛影にはなかった。
孤児院にいた以上、親に捨てられたのだろうが、両親の記憶もない。けれどそれを不満に思ってもいなかった。もっともこの額の奇形のせいで捨てられたのなら、妹には申し訳ない事をしたとは思うが。

傍らには大切な双子の妹がいたし、メイユール財閥の経営する孤児院の職員は、孤児を世話するこの手の施設らしくもなく、親切な者が多かった。多分それはメイユール財閥当主の人となりでもあったのだろう。

何せ、孤児である飛影がこの頭痛に悩まされるようになった時、施設はずいぶんと金のかかる精密な検査を受けさせ、きちんと通院させてくれたぐらいだ。

その痛む額の瞼の中に、目玉がもう一つあることがわかってからは、まったく困難な日々だった。
***
妹がたぐいまれなる知能とその魅力とで、跡継ぎに恵まれなかったメイユール財閥の当主の養子に望まれたのはいつのことだったろう?

記憶が曖昧なのは、この忌々しい余計な目玉のせいなのか、薬物の名残なのか。
夜の間はカーテンはいつでも開けたままだ。月明かりを眺めながら、飛影はぼんやり記憶を辿る。

もちろんメイユールの当主夫妻は、兄妹を引き離すような事はせず、二人とも養子にした。祖父、祖母といってもいいほどの年齢の彼らと親子関係になったとはいえ、本当の親子のようになるわけもない。夫妻は優秀で、なおかつ人の上に立つ技量のある跡継ぎがメイユールに欲しかっただけだ。だが、基本的には彼らはいい人間だ。
二人に次期当主となるための知識と人の上に立つための心構えを持たせるべく様々な勉強を受けさせ、時には忙しすぎる仕事の合間に、自らが教師となった。

とはいえ、当時の飛影にはその全てが、もうどうでもいい事だった。

その頃からもう、頭痛は病院で処方される飲み薬では耐えられないレベルになり、雪菜とともに学んでいた経営学やら帝王学やら、そんな勉強に集中するどころか日常生活すら困難になってしまい、それを周りに悟られないよう生活するのはさらに困難だった。
かといってそれを妹の雪菜に知られてさらに心配をかけるのも、病院に閉じこめられるのも飛影は嫌だった。

メイユールの人間になるという事は、すなわち莫大な富を持つ者になる事でもあった。

ひどい頭痛と、眠れない夜に耐えかねた金持ちに、誘惑はたやすく訪れる。

病院で処方される普通の薬が、まともな場所では手に入れられない非合法な『クスリ』に変わるのには、たいした時間はかからなかった。

注意して、使っていた。
どうしても頭痛に耐えられない時にだけ、眠れない日が何日も続いた時にだけ、飛影は自分にそれを許した。

自分だけは中毒になどならないと決めてかかるなど、ずいぶん愚かだったが。

飛影はそう考え、自分の浅はかさを笑う。
この病院に閉じこめられた後、禁断症状から脱け出すまでにはずいぶん時間がかかった。あの時の事など、思い出したくもない。

思い出したくないと考えつつ、眠れぬ飛影の思考はあの頃へと戻っていく。

飛影が、飛び降りや首吊りを選ばなかったのは、自分の遺体を確認するのは妹だと分かっていたからだ。
未遂に終わるような間抜けな事にならぬよう、ちゃんと事前に調べておいたのに。

利き手側を先に切り、その後左手も切るつもりだった。
だが、静脈、動脈、腱まで深々と切った利き腕の神経までを傷付けてしまい、もう片方の手を切る力が残らなかった。
だが、それでも十分だったはずだ。十分な致命傷になるはずだった。

あと半日は帰る予定ではなかった雪菜さえ戻ってこなければ。

あの日は、忘れ物をしたから、戻ったの。
後になって雪菜はそう言ったが、嘘だという事は、飛影には分かった。

雪菜は多分様子がおかしいと気付いていたのだろう。
だからこそ兄が自殺を図ったあの時に、あれほど素早い行動ができたのだ。

おかげで、飛影はまだ生きて、病院に閉じこめられ、今度は死ぬ事すら叶わずにいる。
手に入れたのはろくに動かなくなった傷んだ右腕だけだ。
もちろん妹が生きる事を望んでいると言っている以上、飛影はそれに応えるつもりではあったが。

この病院で生活するようになって、何年の時が流れただろう。
たくさんの薬が少しは和らげてくれるとはいえ、痛みは相変わらず居座ったままで。
この部屋からの風景は、昼間も夜も、とても綺麗なのだが、完璧に温度をコントロールされた病室から見ると、ひどく単調で。

麻痺した右腕をぼんやりと眺める。
右腕にはめられた外せないタグは、バイタルサインを確認するためでもあり、薬物使用歴のある犯罪者を監視するための物でもある。

…いや、自殺未遂者を監視する、といった方が正しいだろうか?

流れる事のない、澱んだ水辺。

這い上がる事のできない、
深い深い水の中。

…そこで、何もできずに佇んでいる。

「…こんなこと、二度としないで。兄さん」

失敗に終わった自殺の後、この病院のベッドで目を覚ました飛影に、雪菜が囁いた言葉。

私、メイユールを継ぐわ。
必ず、今以上の財閥にしてみせる。

そして…
私には、兄さんが必要なの。
財閥の仕事のためじゃない。

ただ、生きて、
私の側にいて欲しいの。
兄さんは、たった一人の私の家族なのよ。

……わかった。

それ以外の返答など、飛影にできるわけもなかった。

約束は、守りたい。
役立たずの兄としては、せめて妹の望むことは、全て叶えてやりたかった。

けれど…

どんなにアンティークな家具で小綺麗に飾り、緑の萌える庭を見渡す窓を造ったところで、ここは病室でしかない。
額に巻かれた包帯も、常にぶら下がっている点滴も。

なにもかも、本当にうんざりだ。

「……つかれ、た」

飛影の唇から、そんな言葉が小さく零れた。

とはいえこの倦んだ日々に、時折気まぐれな風が通り抜ける事、もあるのだが。

あれは半年ほど前の事だっただろうか…?
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