インソムニアの夜明け...3

良質なコットンの白いパジャマ…模様も何もない、シンプルな物…に、やわらかそうなベージュのカーディガン、という組み合わせ。後から知った事だが、それは唯一会いに来る親族だという彼の妹のセンスと頭の良さを示していた。

気分を引き立てるようにと、明るく派手なものを患者に着せたがる家族は多いが、大抵の場合それは病人やケガ人の顔色の悪さや痩せてやつれた体を強調し、余計に痛々しくなってしまうことも多いからだ。

体温やら血圧やらの測定をてきぱきと済ませるぼたんの傍らで、点滴を換えようと蔵馬がパジャマをめくると、自殺や逃亡を防止するための、外す事のできないタグが右腕に留められていた。

右手首から肘の内側に至るまで、引き攣れた紫色の傷跡が走っている。これが例の自殺未遂の跡だろう。
ちゃんと、という言い方は妙だが、腕と平行に、動脈も静脈も、腱も、大きな神経も断裂するように深く切っている。衝動的にではなく、いわゆる若者特有の自己主張手段のための軽い自傷でもなく、事前に確実に死ねる方法を調べてからやったとしか思えない。手首を切って自殺をするというのは案外難しい。

それにしてもよく未遂で済んだものだ。第一発見者がよほど的確な処置をしたのだろうか。とはいえこの右腕には障害が残っているはずだ。

跳ねる心臓を落ち着かせながら、蔵馬はそんな事を考える。
急な事でなければ事前にもっと患者についての情報を得てから来るのに、今日はそうもいかなかった。

「これ…痛くないのかな?」

傷跡を指したその言葉に本から目を離し、飛影は蔵馬に視線を移した。

「…ずいぶん若いんだな。本当に医者なのか?」
「い、一応…」

「まーた謙遜しちゃってえ。一応どころか1%の天才なんだよこの先生!」

ぼたんが取りなすように会話に割って入る。
明るい声に、部屋の空気が和らぐ。

「へえ。…俺の妹と一緒だな」

クスリと小さく笑う。
その笑みに、蔵馬の心臓はさらに跳ね上がる。

まるでその音が聞こえたかのように、飛影は蔵馬の目をじっと見つめる。

からかうような、嘲笑うような、その視線。

「あの…飛影くん…」
「…呼び捨てで構わない。俺もそうする」

再び本に視線を落とすと、飛影は意外な事を言った。

「ぼたん。こいつを俺の担当にしてくれ」

え!とぼたんと蔵馬は同時に声を上げる。

「えーと、でも…」

ぼたんは口ごもるが、メイユール財閥はこの国最大の財閥であり、この病院の実質的な所有者でもある。
その子息の言葉に否は言えない。
わかったよ、先生たちには伝えておく…、と力なく呟くと、額の包帯とガーゼを換えた。

そのやり取りにポカンとしていた蔵馬に、飛影がニヤッと笑いかける。

蠱惑的な、笑み。

「蔵馬と言ったか?…今日からお前は俺の担当だ」

飛影は点滴の繋がった自分の右腕を顎で指した。
蔵馬が針を留めたその箇所は、紫がかった内出血が広がり始めていた。

「…取り合えずこれをやり直せ、下手くそ」
***
「養子?」
「ああ。メイユール財閥の現当主には子供がいないんだ。それで自分の財閥が運営する孤児院から、跡継ぎ候補を引き取った」
「それはまた…珍しいですね。財閥なら遠縁でも一族の血を引く子供を跡継ぎにしそうなものなのに」
「メイユールはこの国で一番大きな財閥だ。舵取りは容易ではあるまいよ。血の繋がっている者なら誰でもいいというわけにもいくまい」

有名な話だぞ、メイユール財閥が双子の孤児を跡継ぎ候補にした事は。知らなかったのか?
そう言ってコエンマは首を傾げた。

「ええ。…すみません」

学校、勉強、資格、研修。

出来るだけ早く医師になりたくて、世の出来事にも注意を払わない程、勉強にだけ没頭してきた。
学生時代の同級生たちはみなずいぶん年上だったので、子供らしく遊んだ記憶さえない。
世間知らずの自分を、蔵馬は少々恥じた。

コエンマの執務室で、二人は今話題にしている患者の資料を並べていた。

奇妙な、フィルム。
メイユールの跡継ぎ候補だった双子の孤児…兄の方…の頭部の写真だが、その額には、眼球らしき物が写っていた。

…まるで、第三の眼のようだ。

「これは…眼としての機能はしていないんですよね?」
「そうだ。額には瞼もあるが、開きはしない」

もっとも、麻酔効果のある薬を使ったガーゼを、鎮痛のために常時あてているがな。
コエンマは喋りながら、次々と写真やカルテを並べていく。

「問題は、脳に密着し過ぎていて、切除する事ができないということだ」
「…それで、彼は…」
「ひどい頭痛に悩まされている。鎮痛剤は常に投与してはいるが、痛みがピークの日にはどうにもならん」
「そんな…」

思わず蔵馬は眉をしかめた。

「治療法は?」
「今のところ、ないな。この不要な眼に神経がメチャクチャに絡んでいる。手術は不可能だ」
「……それで彼は、違法な薬物に?」
「だろうな。診察の度に、それほどひどくはない、通院で十分だと言っていたんだが」

真に受けたワシはヤブなのかのう。
コエンマは苦笑した。

「実際は、違法な薬物に手を出すほどのひどさだったという訳だ」

あげく、薬物中毒になり始めた自分に気付いて、自殺を図った。
未遂といっても、あの妹が偶然見つけなければ、今頃生きてはいなかっただろうが。
どういう訳か、妹は的確な救命措置を心得ていた。…それが偶然だとはワシは思えんがな。もっとも右腕は神経が切られていた。麻痺が残って動かす事はできん。

「大きな声では言えないがな…あの妹が自殺を未遂で終わらせたのが良かったのかどうか」
「え!?」
「本人も…それほど生きる事を望んでいるようには思えない。出口の見えない日々に疲れ果てているのだ」
「でも…俺は…」

自分がその支えになりたい、などと思うのは自惚れだろうか?
どうかしている。ついさっき、初めて会ったばかりの相手なのに。

「さて、引き継ぎはこれでいいかのう?」
「あ、…はい。でも…」
「でも?なんじゃ?」
「どうして…飛影は俺を担当に…?」

さあなあ?
ワシでは歳が違いすぎたかの?

見た目は若いというのに、コエンマはずいぶんと年寄りじみた喋り方をする。

「だが、お前を気に入っているようなら良かった。歳も近い。本来の業務ではないが、話し相手になってやってくれ。一人の患者に付きっきりになるのは大変じゃが、頼む」
「いえ。力不足ですが…」

手を軽く上げて退室を促すコエンマに、蔵馬はもう一つだけ質問をした。

「そもそも…なぜ双子はメイユールの跡継ぎに選ばれたんですか?」
「どちらも知能指数が抜きんでて高かった。…特に妹の方はお前と同じく上位1%に入れる程だった」

もちろん双子なら知能指数はそう変わらないはずだ。
兄の方は?と問えば、上位10%には入っていたという。

「だが…あの兄の方がもし、テストを受けた時にすでにあの頭痛に悩まされていたのなら…」

本来は兄も1%に入れただろうな。

上位1%、というのはこの国では特別な意味を持つ。
それは本人の望む学校に無料で入る事ができる資格が与えられるのだ。

貧乏であろうが、孤児であろうが、自分の行きたい道を自由に選べたのに。
こんな風に閉じこめられた生活を送る飛影を思い、蔵馬はやるせない思いに囚われる。

「おお、忘れる所だった」

コエンマは自分の首にかけられたいくつかの細い鎖を手繰り、そのうちの一つを首から外し、蔵馬に手渡す。

「これは…」
「重病患者や、自殺や逃亡の恐れのある患者、犯罪歴のある患者には腕にタグが留められている」
「ああ、じゃあこれは解除キーですね?」

小さな銀色の板には数字やアルファベットが点滅し、浮かび上がっている。
アンティークな病院内の雰囲気にはそぐわない、硬質な電光表示。

「暗証コードは一時間毎に変わる。入力すれば、タグは外れる」

ずっと同じ場所に着けていると皮膚が傷むからな。
時々外して場所を変えてくれ。

「だが、気をつけて扱ってくれ。なにせ最近の若い者は簡単に死を選ぶからな」

コエンマは残りの何人分かの細い鎖を一瞥し、溜め息をついて首にかけ直した。

「赴任早々、厄介事ですまんな」

蔵馬は顔を赤らめたが、それはコエンマの考えている理由とは違った。
コエンマは蔵馬にとって尊敬できる先輩だったが、言える訳もない。

まさかその厄介な患者に一目惚れしたなど。

しかも…

初恋だとは、我ながら世間知らずにも程がある。
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