インソムニアの夜明け...2「わあっ!」蔵馬は驚きに、すっとんきょうな声を上げた。 たった今自分の尻を撫でていった手の持ち主は、すぐ後ろで笑っていた。 「かってえケツ!なーんだ男かあ。女みたいな顔してんね」 「ちょ、ちょっと…何を…あ!君が幽助君?」 「ん?そうだけど。なんで知ってんの?」 「有名だから」 有名?さてはぼたんが言い付けたな? 幽助はケラケラと笑い、悪びれる様子はない。 まだ頬に薄く傷跡が残ってはいるものの、快活そのものといったその少年に、蔵馬は思わず微笑んだ。 「何?あんた新入り職員?」 「ええと…一応医師で…」 「マジー?俺と歳そんなに変わんなくね?」 「うん。そうだね。あんまり変わらないかも」 「おー。すっげえー!頭いーんだなあ」 「そんな事ないよ」 何変な遠慮してんの、センセー。 幽助はまたもや笑う。 「よしと。俺行くな。友達に会いに来たんだ」 「そうなんだ。あ、でも友達はこれから診察なんだよ」 「じゃあ俺ちょっくらその辺一回りしてから行くって言っといて」 「待って!あのさ…俺、新入りで…今日初めてその子に会うんだけど…」 どんな子、かな? しばし口ごもった後、蔵馬は小さな声でそう聞いた。 「面白いやつだよ。俺は好きだな」 あっけらかんとしたその返答。 面白いやつ、ねえ。 その患者についてちょっとでも聞けたらと思ったのだが、肩透かしを食った形だ。 「…看護婦さんにいたずらしちゃだめだよ」 「はーい。センセー」 ひらひらと手を振って去る後ろ姿を蔵馬はしばらく眺めていた。 ***
新入りの蔵馬は、助手として、他の医師に付いて回診は行っていた。だが、今日は別の医師が急用で休みを取っていて、蔵馬はその代理を任された。午前中の回診はたいした問題もなく終えた。 あとは… 特別室の、患者。 持ち出し禁止のリストの先頭に記されていた、その名前。 なぜかその特別室の患者の回診だけ、先輩医師が一人で行っていた。 不思議に思って問うた蔵馬にその医師は、ちょっと変わった子だから、と歯切れの悪い返事をした。 先輩医師の父が事故に遭ったという理由がなければ、きっと当分会う事はないはずだった患者だ。 …どんな厄介な子なんだろう。 蔵馬は小さく溜め息をついた。 リストの名前の下には、"自殺未遂者"、"違法薬物所持使用歴あり"とあった。 おまけに… 病院の持ち主でもあり、この国の舵取りをしているとも言える、メイユール財閥の子息であることも記されていた。 ***
この病院の病室はどの部屋も小綺麗でアンティークな雰囲気を醸し出していたが、特別室はさらに艶やかな古めかしさを帯びた広い部屋だった。しっとり磨かれた木材でできたベッド。 彼はそのベッドの上で起き上がり、たっぷりのクッションに背を預けて、薄い本を読んでいた。 透けるように白い肌に赤い瞳。 額に包帯が巻かれているというのに、肌との境目が一瞬わからないほど色が白い。 漆黒の髪は短く無造作に切られていた。 病気のせいか無駄な肉のついていない体。 ほっそりした手足は肌の白さもあって、奇妙に人形めいていた。 明るく日の当たる居間に飾られる人形ではない。 暗くて、それでいて豪華な地下室に、人には言えない理由があってひっそりと隠されている… この病室の日当たりはとてもいいのに、なぜかそんな人形を思わせた。 点滴のつながれた右腕はベッドに投げ出したままで、左手だけでページをめくっている。 細く白い指が、器用にページをめくる。 ぼたんのノックに返事はしたものの、こちらに顔を向ける事もなく、本に視線を落としたままだ。 「具合はどうだい?」 「…変わりない」 本から視線を外す事なく、答える。 小さく、見た目に似合わない低めの声。 「今日はね、コエンマ先生がお休みなんだよ。新しい先生。蔵馬先生」 ぼたんのその言葉に、ようやく少年は視線を上げた。 途端に跳ね上がった心臓に、蔵馬は息を飲む。 「初めまして。…蔵馬、です。よろしく…ええと…」 覚えてきたはずの名前が、うるさく響く鼓動に邪魔されて思い出せない。 小さく整った鼻と唇。 熱があるのか潤んだ赤い瞳で蔵馬を上目遣いに見る。 驚くほど、大きな瞳。 赤い瞳。 「…飛影だ」 そっけない、乾いた声音。 視線はあっという間に本へ戻る。 蔵馬が恋に落ちたのは、その瞬間だった。 |