インソムニアの夜明け...1

「あのぐらいってのは一番嫌な年頃だよねえ、まったく!エッチだったらありゃしない!」

もう!と顔を赤くした看護婦が、プンプンしながら部屋に入ってきた。

「どうしたんですか?」
「あのねえ!いつものあいつが…。ん?ごめんなさい!新しい先生ですよね?」
「あ、こちらこそご挨拶が遅れてすみません」

威勢のいい看護婦はぼたんと名乗り、白衣を着た、少年といってもいい年頃の男は蔵馬と名乗った。

「へえ~。いらっしゃるの、みんなで楽しみにしてたんですよー。先生、天才って評判なんでしょ?」
「いや…そんな事はないですよ」
「またまた、謙遜しちゃってえ。先生、16歳?17歳だっけ?その歳で医者になれるなんてのを、天才っていうんだよう」

あはは、と蔵馬は笑う。
飛び級に飛び級を重ね、大学院も卒業し医師免許を取ったのは14歳の時だ。
何年かの研修も終え、医師としてこの病院に赴任してきたのだ。

「院長が、激戦を制してウチに呼んだんだぞ、って自慢してたんだよ」
「そうですか?嬉しいな。でも他の病院では、俺あんまり患者さんに好かれなくて」

それは本当の事だった。

いくら資格を持ち、何年かそれなりに研修を積んでも、子供といってもいいほどに若すぎる医師に不審や不安を抱く患者は多かった。

「そっか~。天才ゆえの問題さねえ。でもこの病棟担当なら大丈夫!子供からね、だいたい高校生くらいまでかなあ。若い子の患者さんしかいないんだよ」
「そうみたいですね」
「だから、気が合うと思うよー。色々話も聞いてあげとくれよ」

気の良さそうな看護婦はにこにこ笑う。

そうだといいな、と蔵馬も笑い返したが、内心は複雑だった。

簡単なケガや病気の患者なら、いい。
ぼたんの言う通り、年が近い分、仲良くなれるだろう。
だが、難病や後遺症の残るような大ケガの、長期に入院している患者…もしくは治る見込みのない患者…からしたら、若くして医師になっている者に診られるのはあまりいい気はしないだろう。歳が近ければなお、健康に働いている、ただそれだけで、嫉ましく思う事もあるはずだ。別な意味で疎まれないとも限らない。

親交のある大学院の教授から、研究室を手伝ってくれないかという手紙ももらっていた。
この病院でも上手くやっていけなかったらその時は研究室に戻ろう。いくら医者になるのが夢だったとはいえ、自分の存在が患者を不安にさせたり、不快にさせたりするのは本望ではない。
蔵馬はそう考えていた。

病棟を案内するよ、というぼたんに、蔵馬は無理に作った笑みで応えた。
***
二百年以上前に建てられたというこの建物が病院として改装されたのは十年ほど前の事だ。

古びたレンガや艶のある木の床は当時の趣を失わずに補修され、電気の配線や空調、医療行為に必要な器材などもできるだけ壁の内部に隠されていた。彫刻の施された木の枠に彩られたたっぷりと大きな窓の外には、緑あふれる庭がある。
そこここにある談話室には今の季節には使われていないが暖炉があり、動ける患者たちが会話をしたり、食事をしたりできるようになっていた。

莫大な財を持つ財閥の持ち物であるおかげで、いかにも病院、という感じではなく、古き良き時代の全寮制の学校のように見える建物だ。

「…すごいですね。病院というよりは…良家の子女の通う学校みたい」
「うん。元々は二百年くらい前に建てられた寄宿学校だったらしいよ。それを改築したんだよ」

なんせメイユール財閥が経営しているからねえ。
ぼたんはそう言うと、この国の者なら誰でも知っている大財閥の名を言った。

あそこがねえ、ポーンとお金を出したのさ。
だからこんなに優雅なことできるんだよ。
まあ、庶民のために高貴な方の善行ってもんさね。いい事だよ。

「ええっとね、西側が男の子、東側が女の子の病棟。先生は西側だよ」
「それは残念」
「しょうがないよう。先生みたいなカッコイイお医者さんに裸とか見せられないよ女の子は。多感な思春期なんだからね」
「あはは。年もそう変わらないですしね」
「そ。だから女の子たちには女の先生か、おじいちゃん先生の方が人気があるんだ」

大きな窓から差し込む日差しは暖かく木の床を照らす。
窓から見える庭も、木々の木漏れ日と緑に彩られ、芝生で日光浴をしている患者の姿も見えた。

患者たちが心地よく過ごしている様子を見て、蔵馬は目を細めた。
***
「さてと!案内終わり!分からないことがあったら何でも聞いとくれ」
「ええ。ありがとうございます。ぼたんさん」
「呼び捨てでいいよ。ぼたんって呼んどくれ」

二人は医局に戻ってきていた。
この部屋も艶のある木の床に木の壁で、各々の机にごちゃごちゃと書類が積み上げられてはいるが、全体的にはやわらかな部屋になっていた。

「じゃあ、ぼたん。俺の事も蔵馬って呼んでください」
「先生をかい?医者を呼び捨てにするなんてなんだか気が引けるねえ」

そう言いながらぼたんは何やらごそごそと鍵のかかった引き出しを引っかき回している。

「あった。これはねえ、ええっと…リスト」

歯切れの悪い言葉と共に、便箋ほどの大きさの紙が一枚手渡される。

「リスト?」
「うーん。ええとね…いろんな意味で…困っている子たちだよ」
「ああ…なるほど…家庭に問題のある子とか犯罪歴のある子とか?」
「うん。それもあるけど…他にも…わかるだろ?」

蔵馬は頷く。

一時も油断できない難病や、精神的に病んでいる子、もしくは肉体を蝕む病から精神を病んでしまった子たちだろう。
あるいは…自殺未遂者、自傷僻のある子。

…結局、肉体と精神は一つなのだ。
肉体の痛みが精神を破壊し、精神の闇が、肉体を蝕む。

「持ち出しは禁止なんだよ。今覚えられるかい?」
「ええ、大丈夫。…この一番下の二本線で消してある子は?」
「ん?ああ!こいつはもう退院したからいいの!とんだクソガキでね!さっきも来てたけど。人のお尻は触るわ下着は盗むわいたずらばっかり!」
「あ、さっき怒ってた子?退院したのになぜまだここに?」
「入院していた時に知り合った子にしょっちゅう会いにくるんだよ」
「そうなんですか…いたずらがひどいなら追い返しましょうか?」

いいよいいよ、とぼたんは慌てて手を振る。

「あのね…その…知り合った子っていうのが長く入院してる子でね。だからその…できるだけ会いに来てあげて欲しいんだよ」
「ああ…そうなんですね。優しいんですね、ぼたん」
「へ?いやいやそんなんじゃ!…まあお尻の一つや二つ撫でられたって減るもんじゃなしね!」

顔を赤くするぼたんに蔵馬は微笑んだ。
ここでは上手くやっていけるかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
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