インソムニアの夜明け...5

就寝時間をとっくに過ぎているというのに、ドタドタと騒がしい足音とともにドアがバタンと開けられ、誰かが飛び込んできた。
相変わらず眠れぬ夜を持て余していた飛影にそいつはニヤッと笑いかけると、ドアを閉めた。

廊下から、もう!どこ行ったんだい!? という看護婦の抑えた怒声が聞こえる。

「おい…」
「しーっ!」

突然の闖入者は、口の前に人さし指を立て、静かにしろと目で合図する。

その日は朝から訪ねてきた雪菜と一日中一緒に過ごしたこともあり、飛影はわりと機嫌が良かった。
だから、かばってやったのかもしれない。

「あの…この廊下の外で誰かバタバタ走って行かなかった?」

ドアが控えめにノックされ、外から看護婦がそう尋ねた。

闖入者はパジャマ姿で片腕をギブスで固められ、三角巾で吊るしていた。
年齢でいえば、飛影より二つ三つ年上だろうか?
顔や首筋にもガーゼが貼られている。という事は、当然入院患者なのだろう。
無事な方の片手で、飛影を拝むような仕草をし、片目をつぶった。

「…いや、誰も通らなかった」
「そう…。ごめんね、起こしちゃったかい?」
「起きていたから大丈夫だ。…何かあったのか?」
「ううん、なんでもないの。とんだクソガキがいてね。取っ捕まえに行かなくちゃ!」

その言葉とともに、看護婦がぱたぱたと走り去る。

「助かった。サンキュー」

少年はニッと笑う。

「…何をしているんだ?こんな時間に」
「夜の散歩。散歩ついでに職員の女風呂覗いたらぼたんのやつ、カンッカン」
「…当たり前だろう…」

呆れてしまった。
何を考えているんだこいつは。

いていい、とも、出て行けとも飛影は言ってはいないが、そいつは勝手にベッドに腰かけ、感心したように部屋を見渡す。

「すっげえ部屋…こんなでかいベッド初めて見た。お前、金持ちなの?」
「…お前呼ばわりされる筋合いはない」
「あ、そっか。俺、幽助。お前は?」
「……飛影」

名乗る義務もなかったが、飛影はなんとなく答えてしまった。
そうしてしまう雰囲気が、その少年にはあった。
幽助と名乗った少年は、立ち上がると部屋をもう一度ぐるりと見渡し、窓辺のソファにどさっと寝転んだ。

「おい…戻れ。自分の部屋に」
「無理無理。ぼたんが待ち伏せしてるって」

泊めてくれよ。
起床時間までにはそーっと戻っておくからさあ。

その悪びれない、陽気な笑み。
飛影の返事も待たずに、ソファにあった膝掛けをかけ、目を閉じた。

吊した腕をぶつけて、痛て、とかブツブツ言いながら。

「そんな所で…大丈夫なのか?」
「へ?俺?全然平気」

まあ、病人ではなく、怪我人なのは見ればわかるが、まだ膝掛け一枚で眠れるほどには暖かい季節ではない。
案の定、くしゃみが聞こえた。

「やっぱさみーかも!」

ソファから立ち上がったので、飛影は当然幽助が自分の病室に戻るのだと思った。

「点滴、どっち?」
「何?」

飛影の頭上からぶら下がる点滴の管は、ベッドの中の右腕に繋がっている。

「どっち?」
「右…」

聞いてどうするんだ?と訪ねるまでもなく、幽助はベッドの左側にもぐり込んだ。

「おい!何して…」
「いーじゃん。このベッドでっけーし。余裕じゃん、入れてよ」

ベッドのサイズの問題じゃ…。
呆気にとられた飛影に構わず、幽助は毛布をかぶって、あったけー、などと抜かす。

飛影が困惑している間に、幽助はもう寝息を立て始めた。

変なやつ…。

こんな風に人と並んで眠るのは、幼い頃雪菜と一緒に寝ていた頃以来だ。
飛影はしょうがなく隣に横になり、そんな事を考えた。
***
結局ろくに眠れぬまま朝を迎えた飛影とは対照的に、起床の時刻になっても寝ていた幽助はぼたんに起こされ、がっつり叱られた。

「…起床時間までには戻るんじゃなかったのか?」
「まあまあ怒んなって。朝飯食おうぜ」

天気いいしさあ、外行こうぜ。
幽助はそう言って庭を指した。

談話室やら庭やら。
患者たちのためのそういったスペースがあることは知っていた。だが、そこに行ったことも、ましてや入院して以来、この部屋以外で食事をしたことが飛影は滅多になかった。

幽助は片手が使えないというのに、自分と飛影の分のトレーを片手で器用に持ち、さっさと部屋を出た。

飛影と幽助との出会いは、そんな風に始まった。
***
それからしばらく一緒に過ごした日々の中で、二人は互いについていろいろ知る事になった。

いや、互いについて、というのは語弊がある。
飛影は大体において無口だし、自分の事はあまり話さないからだ。

「俺さあ、車に撥ねられちゃってさー。バッカだろー?」

交通事故で大怪我をし、この病院に入院していること。
家族は、若くて美人で酒飲みの母だけなこと。
勉強はからっきしなので、学校を長期に休んでいるのもまったく気にしていないこと。
幽助はそんな事をカラカラと笑いながら話した。

…どのくらい勉強やら社会常識やらに疎いかというと、メイユール財閥の名を知らない程だった。

「よくわかんねーけど。つまり金持ちなんだろ?」

あっさり言う。
それが飛影には心地よかった。

やわらかく日の当たる庭のあちこちに並べられたテーブルには、何人かの患者たちが朝食をとっていたが、見慣れない飛影の姿にぎょっとする者もいた。
つまり、その者たちは飛影がメイユールの出来損ないの養子だということを知っている連中なのだろう。

目を見交わしては、足早に離れていった。
もちろん、国の舵取りをしているような財閥の人間と関わりたくないという気持ちもわかる。

…やっぱり部屋で食べればよかった。
飛影は思わず小さくため息をつく。
自分が何を言われても知ったことではないが、雪菜の名が噂話の種になるのは嫌だった。

「左利きなんだな」

唐突な言葉に、ハッと意識が戻る。
左手にスプーンを持ち、食事をしている飛影に幽助が言う。

「……右利き、だった」
「だった?」

袖を捲り、手首から肘の内側まで走る醜い傷跡を見せる。
おまけに、逃亡や自殺を防止するためのタグ。外すには暗証コードが必要だ。

好んで人に見せた事などなかったのに、なぜか幽助には見せてみたかった。

…こいつが何と言うのか、聞きたい。

「何、おめー、自殺しようとしたのか?」

パンを口に放り込みながら、あっさりと聞く。

「ああ。失敗したがな」
「ふうん…」

ありきたりな慰めや、励まし、もしくは叱咤?
何を期待していたのだろうか。

「二区の公園の前にさ、食堂があんだけど、知ってっか?」
「…いや」

幽助は食堂の名前も言ったが、聞き覚えはない。この病院の所在地は五区で、二区とはだいぶ離れている。
そもそも施設からメイユールに引き取られたのだから、街の食堂に気軽に行くような、普通の生活は飛影も雪菜も体験したことがない。

「じゃあ、まだ死ねないな」
「…?」
「そこの飯、安いのにすげー美味いから。死ぬ前に食ってみた方がいいぜ」

別にここの飯も不味くないけどさ。
ポカンとしている飛影に、幽助は真面目な顔でそう言うと、飛影の残した分まで勝手に食べだした。

「…やるなんて言ってないぞ」
「ぼーっとしてっからだろ。病院出たらそんなんじゃやってけねえぞ。娑婆は厳しーんだからな」

…娑婆、ねえ?
その言葉に、思わず飛影は小さく笑う。

そうして、風が吹き、澱んだ水は流れ出した。
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