heaven's day...9スプーンを持ったまま、飛影は蔵馬を凝視した。部屋に落ちた沈黙は、合成食のゼリーのようにどろりと重い。 「嘘をつくな」 取り乱すでもなく、気丈に飛影は返す。 そんなこと、あるはずがない。こいつが知るはずもない。適当なことを言っているだけだ。 妹はこの国から逃がした。そこで裕福とはいえなくとも普通に暮らしているはずだ。 飛影は必死に自分に言い聞かせる。 「死んだんだよ」 ようやく手に取ったパンを蔵馬はひとかじりした。 飛影を見つめたまま、カップに口をつけ、スープで流し込んだ。 「お前がそんなこと知るわけがな…」 「雪菜、だっけ?」 ギプスを外したばかりの、筋肉の落ちた腕がはっきりと震えた。 手から滑ったスープボウルは床に落ち、三分の一ほど残っていた中身を派手に撒き散らす。 「ウェイ、やめろって」 酎は目元を押さえ、深いため息をつく。 聞こえているくせに、聞こえないかのように蔵馬は続ける。 「君たちは双子で、施設育ちだった」 言っておくけど、この街の施設に比べればずっといい施設だったよ、君たちを育てた施設はね。孤児なんてのはだいたいろくな未来がないものなのに、君たちの入っていた施設は志ってものがあった。どうにか子供達をまともに育てて世に送り出そうっていうね。もちろん、大金持ちにはなれないさ。でもまともに働いて、銃声やジャンキーに怯えるような地区よりはマシな場所に暮らせるくらいの人間にはしてやろうってね。 「なのに」 風呂やスープで温められたはずの飛影の頬が、再び真っ白になっているのを満足そうに蔵馬は眺める。 「君の妹は違った。君よりずっと多くの物を望んだ。例えば…」 「宝石。ダイアモンドだ」 遮るように、飛影は言う。 これ以上、聞いてはいられない、黙らせようと自分から口を開いた。 「あいつは宝石が好きだった」 冷たいコンクリートの建物。手入れが追いつかずいつもひび割れ湿っていた壁を飛影は思い出す。 職員たちもまた貧しかった。決して多くはない給料で、それでも必死に子供たちを世話していた。捨てられたような子供は大抵躾けも行儀もなっていない。なのに我慢強く世話してくれる者ばかりだった。 それとは対照的に、施設のために寄付をしてくれる金持ち達はどいつもこいつも鼻持ちならなかった。しかしその寄付がなければ孤児院の運営は到底成り立たない。 親切ぶって施設を訪れる金持ちの慈善家たち。何も持たない者の元を訪れるのならばその時だけでも質素な物を身に付けるくらいの気遣いはあるべきだろう。なのに何も考えずに豪華な宝飾品を身に付けてくるどうしようもない馬鹿ばかりだった。そしてそれは飛影には何の影響ももたらさず、妹の雪菜には多大な影響をもたらした。 綺麗。あれ、すっごく綺麗ね、兄さん。 あんなに綺麗なものが、あるのね。 馬鹿な女の一人だったその女はとんでもない金持ちだった。自己満足のためだけに自分の夫が多額の寄付をしている施設を気まぐれに訪れ、気まぐれに高級な菓子を振る舞い、自分が気に入った少女には美しいレースのハンカチを与えた。ペットにおもちゃを投げてやるかのように。 すらりと背の高い女の指に光る、素晴らしい輝きを放つ石。微かな光でさえも、無数の煌めきに変えるあの特別な石。 ダイアモンドは、ひび割れ湿った臭いのするコンクリートの中に住んでいた、一人の少女の心に住み着いてしまった。 目を輝かした妹を、今もはっきりと飛影は思い出せる。 あれは憧れや羨望を超え、魅入られ心を狂わされた者の目だった。 施設を出なければならない十六歳になるのを待たず、十四の歳で雪菜は姿を消した。 後を追うように飛影も施設を飛び出し、様々な肉体労働を転々としながら妹を探し続け、ようやく見つけたのは一年後のことだった。 必死で、探しに探して見つけた妹は、娼婦に成り下がっていた。 借金をしダイアモンドを手に入れる。金を返すために働く。その繰り返しの日々をおくっていた。 記憶の海から自分を引っぱり上げ、飛影は目の前の男を睨む。 こいつは嘘を言っている。いかれたジャンキーの言うことなど信用できはしない。 言い聞かしても言い聞かしても、左右で濃度の違う緑の瞳からは何も読み取れない。 本当に? 本当に……雪菜が死んだ? なぜ?誰に?誰に殺された? 「………プランダか?」 絞り出すような飛影の声に、酎の哀れむような視線が注ぐ。 「プランダが……殺したのか?」 麻薬と、売春と。近年では麻薬売買が主力商品になっていたとはいえ、元々プランダの生業はその二つだ。 自分を身代わりにと差し出した所で、そんな組織を飛影とて信じたわけではない。だからこそ、遠い国へと妹を逃がした。会いに行ったり、デバイスで連絡を取ったりすればプランダに居場所を知られる危険があった。だから飛影はあれから妹に会ったことはない。二度とお前と会うことはないという言葉と共に、文字通り絶縁したのだ。 食べる気が失せたと言わんばかりに、酎は皿を置き、立ち上がった。 汚れた窓の前で、景色とも言えない風景に目をやる。 「プランダが殺したわけじゃない」 雑な作りの巻き煙草に火をつけ、蔵馬は微笑む。 「君の妹は病気だった。君が借金の肩代わりをした時にはすでにね」 大きく見開かれた目が、瞬きを忘れたように蔵馬を凝視する。 「……病気…?」 「そう。男だろうが女だろうが、体を売るような仕事をしている者が病気に罹るなんて珍しくもない」 プランダが、君と君の妹との交換条件に応じたのは、知っていたからさ。君の妹がもう先は長くないってね。 独特の煙の中、蔵馬は続ける。 「じきに死ぬ売春婦と、売人であろうが男娼であろうが、当分仕事ができる君」 プランダにとっては、素晴らしい条件じゃない? 君は確かに妹を助けた。助ける意味はなかったけど。 「ウェイ」 いつの間にか、酎が小さな注射器を手にし、蔵馬の後ろにいた。 「お前、ちっと眠れや、な?」 「なんで?今は眠くないけど?」 濡れた脱脂綿がサッと蔵馬の剥き出しの腕を拭き、注射器の針が手早く差し込まれる。 抵抗するでもなく酎を見つめていた蔵馬の目がぼんやりと焦点を失い、ふらりと酎に寄り掛かる。どうやら眠ってしまったようだ。 床に落ちた煙草を揉み消し、毛布を広げ蔵馬の体を包むと、酎はまた目元を揉むようにしながら立ち上がった。 茫然としている飛影の前で、皿を片づけ、汚れた床を拭く。 深い溜め息をつくと、飛影の隣、ベッドのスプリングが軋む勢いで酎は座った。 「……本当…なのか?」 「わからん。ウェイの話が本当かどうか、俺が調べてやる。お前のナンバーは?思い出せるか?」 ナンバーとは、出生時に国からひとりひとりに与えられるものだ。無論、施設育ちにもある。だが退所年齢に達する前に遁走した飛影は何の書類も持たなかった。自分のナンバーなど当然わからない。 飛影がのろのろと首を振ると、捨てるはずだったのだろうゴミ袋の中身から、酎は血に汚れた包帯を引っぱり出す。 「血液からでも調べられるからな」 座ったまま、飛影は酎を見上げる。 「なあ、やけをおこすなよ?」 外に出るなよ?まだプランダの残党狩りは続いているからな? ウェイは当分起きないけどよ、お前が腹を立てるのもわかるが、ウェイに何かするのもよせ。 俺がちゃんと調べてやる。だから待ってろ。 「こんなナリしてるし酔っ払いだけどよ、約束は守るから」 だからお前も約束を守ってくれ。 俺が戻るまで、絶対にここを出るなよ? ウェイに手出しもするな。 ポケットから取り出した瓶から、匂いだけでも酔ってしまいそうな酒を一口流し込み、酎は乱暴にドアを閉めた。 酒の匂いと煙草の残り香だけが、小さな部屋を息苦しく埋めた。 ***
ゆっくりと立ち上がり、なんとか窓辺へと飛影は歩く。ここが何階なのかを確認するために。 はめ殺しかと思っていた窓には、錆びて窓枠と一体化してしまったかのような小さな鍵があり、どうやら開かないわけではないらしい。 触るだけで何かに感染しそうなほど変色した鍵に、飛影は左手で力を込める。繋がったばかりの腕に嫌な痛みが走ったが、構わず鍵をねじった。 「くっそ」 思わず添えた右手から肩へと激痛が走り、飛影は毒突く。 ベッドへ戻ると、水の入った瓶を取り、汚れた窓ガラスへと叩きつけた。 水の入った瓶は粉々に割れたが、安物のガラス窓もまた盛大に割れ、破片は窓の向こうへと消える。道路に落ちた音の遠さからすると、ここはかなり上階だ。 割れた窓に残った破片を下へと落とし、飛影は窓の外へ身を乗り出す。九階か、十階、高さはそんなところだ。爽やかさとは無縁である外の空気が部屋に流れ込み、ベッドから垂れ下がったシーツを揺らした。 「…殺してやる」 部屋を振り返り、毛布に包まれた死体のように眠っている蔵馬を見下ろし、飛影は呟く。しゃがみこみ、長い髪を一握り分掴む。目を覚ます気配もない蔵馬の顔を、睨み付ける。 銃も、ナイフもない。絞め殺すほどには体は回復していない。 鍋で殴り殺す、というのもなんだか滑稽だ。 この窓から、落としてやる。 割れた頭蓋骨から脳みそを撒き散らし、飛び出した濃淡のある眼球を猫にでも食われちまえばいい。こいつをこのままにしておくなど、到底できない。 やめろ、と飛影の頭の中で声がする。 腹立ち紛れにこいつを殺したってしょうがない。 そもそも雪菜が死んだなんて何の証拠もない。この、底意地の悪いキチガイのジャンキーが、出まかせを言って人が動揺するのを楽しんでいるだけだ。だからやめろ、待つんだ。待たなかったら、お前は、お前は… 妹が死んだことを、認めることになる。 まるで本当に誰かに囁かれたかのようなその声は、さっきまでここにいたモヒカン男の声に似ていた。 飛影は握っていた髪を離し、大きく深呼吸をし立ち上がり、ベッドへと戻る。 眠る蔵馬が視界に入らないよう壁を向き、飛影は目を閉じた。 |