heaven's day...10

いったい何日が経ったのだろう。

ただひたすら、飛影は眠る。
睡眠薬がなければ眠れなかった日々が嘘のように、目が覚めてもベッドでぼんやりとし、そうしているうちにウトウトし、また眠る。
嫌な夢ばかりの眠りの合間に、味わう必要もない合成食を流し込み、シャワーを浴びた。

自分で割ってしまった窓から吹き込む風に、飛影は目を覚ました。
すっかり夜になった外は、けばけばしいネオンと闇とが交互に部屋を照らす。風はぬるいが強く、十階ほどの高さだというのに地上の悪臭をきっちりと含んでいる。チカチカした窓の外の光だけでも、部屋にいるのが今夜も自分だけだということはわかった。

蔵馬はもう、あれからずっと帰ってきていない。

黄色と、青と、オレンジと。目まぐるしく色を変え点滅する光。
ぼんやりとしたまま、どのくらいそれを見つめていただろう。

金属音に飛影はハッと我に返り、ドアを睨んだが、現れたのはカラフルなモヒカン頭だ。

「起きてたか」

酎は壁を探り電気を付けたが、飛影の方を見ようとはしない。
それは飛影にとって、お前が一番聞きたくない答えを持ってきたと、言われているようなものだ。

「何か食うか?作ってやるぞ」

軽い口調で言ってはみたが、射るような飛影の赤い瞳に気付き、酎は目をそらす。
床に落ちていた蔵馬のシャツを取ると、割れた窓を覆うように窓枠に挟み込み、悪臭と光を遮る。大きな体でまたもやボロいベッドのスプリングを軋ませ、その音にも負けないくらいの溜め息をついた。

「お前の妹は、死んでた」

遠回しにしたところで、何もならない。
半ば覚悟を決めていたとは言え、その短い言葉は、飛影の心臓を突き刺した。

奇声なのか悲鳴なのかもわからない声が、地上から微かに届く。
車のクラクション、風に鳴る窓辺のシャツ、頭上の電灯の、微かだが止まない耳障りな機械音。

薄いシャツ越しのネオンを見つめたまま、飛影は口を閉ざしていた。

「蔵馬の言ったとおり病気だった。死んだのは二ヶ月前くらいのことみたいだな」

淡々と、酎は話した。

お前が都合をつけた金だろ?それでお前の妹は細々とだがちゃんと暮らしていた。あっちはこの国みたいに堕落してないからな。派手に豊かな国じゃあなが、その分堅実だ。貧しいやつらにもちゃんと医療を提供してくれる。病院には行ってたみたいだ。男と暮らしていたって話でな。

飛影の赤い瞳が暗い色を帯びるのに気付き、酎は慌てたように手を振った。

「違う違う。そういう意味じゃない。その、なんだ。商売を再開してたって訳じゃないぞ」

どこで出会ったのかまでは調べられなかったけどな、カタギの男だ。
普通に働いている、普通の男。

「お前の妹に、ベタボレだったらしいぜ」
「……娼婦にか?」

皮肉っぽい言葉に、酎はモップのような自分の頭を撫で上げ、また溜め息をついた。

「娼婦に、だ。お前は自分の妹が誰かに愛されるような価値はないって言うのか?」

薄い唇を噛み、飛影は錆びた窓枠を睨んだ。
しばし二人は黙ったまま、遠い喧騒とシャツを鳴らす風の音を聞いていた。

「さてと。俺、帰るな」

酎が立ち上がった途端、安物のスプリングは飛影を跳ね上げる。
持ってきた鞄から取り出した水や缶詰を置いて行こうとするのを、飛影のトゲのある声が止める。

「いらん。持って帰れ」
「借りは作りたくないってか?今さらだろ」

不審そうに顔を上げた飛影に、酎が苦笑する。

「情報は、金だ。お前の妹のことを調べるのに結構かかったぜ」
「金は返す」

今じゃないが、近いうちに必ず都合はつける。飛影のその言葉を遮るように、酎は片手を上げた。

「今すぐ返せないだろ?なら俺の話を聞け」

義理堅いのは結構だけどよ、俺に金を返すために馬鹿げた仕事に就くのはよせ。まともな仕事をするんだな。
お前の妹は死んだが、それはお前のせいじゃないし、腹が立つだろうがウェイのせいでもない。あいつに腹を立てるのもよせ。

「…お前はあいつのなんなんだ?」

低く小さく、飛影は問う。

「ウェイか?いや、何ってこともねーけど」
「お前も兄弟だとでも?」
「まさか。なわけあるか。友人ってほどでもないしな…元々は患者だったんだけどよ」
「義理堅いのはそっちだな。知り合い程度のやつに」

三度目の、溜め息。
ドカッとベッドに腰掛ける酎に、またもや飛影の体が跳ねる。

「ウェイはそりゃまあいいやつとはいえないけどよ。それでもお前を助けたことは確かだろ?」
「…なんのためにだ。それがわからん」
「本人に聞けよ」
「あのイカレとはまともな会話にならん」
「そんな深く考えた人助けってわけでもねえよ、多分。あいつは時々お前のようなのを拾ってくるんだ」

孤独な子供が、捨て猫を拾ってくるみたいにさ。世話もできない、飼いきれもしないくせに拾ってくる。で、結局またもとの世界に放り出しちまう。俺の女房が言うには…

「女房?」

眉をひそめ、飛影は問う。
こんなモヒカン頭の闇医者に妻がいるとは、驚きだった。

「いちゃ悪いか。すげー美人なんだからな」

女房が言うにはさ、人を助けるなら中途半端なことをすんなって。溺れた人間を助けるなら、そいつを死ぬまで面倒みるくらいの心意気でなきゃ駄目だって。それができないなら最初から何もすんなってよ。

「…何が言いたい」
「お前の妹のことを調べる金は貰ってない。つまり俺もちょっとはお前を助けただろ?」

一生お前を助けるってのはさすがにオーバーだけどよ、ちっとくらいなんとかしてやるよ。いつか返すってんなら返してくれてもいいし、返さなくたっていい。つまりだ、何が言いたいかというとだな。

「人がなんかしてやるって言うなら、意地を張らずにありがたくもらっとけよ」

わかるような、わからないような、理屈。
飛影はまた、薄い布越しの窓の外を眺める。

「それとも何か?妹が死んだら後はどうでもいいってのか?お前の人生はお前のもんだろ?これからは自分のために生きろよ」

飛影は何も答えず、隙間風が短い髪を乱す。

缶詰にパンと水、それにいくつかの野菜や合成食を酎はキッチンに並べる。
そして数枚の銀貨と銅貨、旧式のデバイスをベッドへと放った。

「使い捨てみたいなもんだけどな。取りあえず半年くらいは使える」

仕事をする気なら探してやるし、この国を出たいなら手引きしてやるよ。
俺の番号は入ってるから、決まったら電話しろ。

「許してやれって。ウェイのことも、妹のことも」

耳障りな音を立て、錆びたドアが閉ざされる。
遠ざかる足音は、地上の騒音に溶け込むように消えてしまった。
***
窓越しの毒々しいネオン。
この高さからは何を言っているのかまでは聞き取れない、罵声。

…嫌な街だ。
この街を好いたことなど、一度もない。
綺麗な海や、緑のあふれる森のそばに妹と二人で暮らすことを夢見たこともあったが、ずいぶん遠い昔のことのような気がする。

そんなことを考えながら、飛影はまだ布の張られた窓を見つめていた。

許す。

そもそも、何を。
何を許すというのだろうか。
誰を許すというのだろうか。

雪菜には雪菜の選んだ道があった。それを修正したつもりでいたが、独りよがりだっただけのことだ。
プランダが、蔵馬が、何かをしたわけではない。

飛影は立ち上がり、窓に留められた布を外し、見下ろす。

プランダのごたごたが片づいていないせいか、酔っ払いはいるがジャンキーらしき者はめずらしく見当たらない。
バケツが転がり、生ゴミが散らばる道路。遠くの工場の有害な排水は遠くここを終着点としていて、油っぽく光っている。吐瀉物だの排泄物だので汚れたアスファルトは、ひび割れているというのに水はけが悪くひどく臭う。

今ここから飛び降りたら、と飛影は考える。

この汚らしい道路に血や肉や内臓だのが飛び散ったところで、運悪く下敷きになった人間でもない限り誰も気にも留めないのだろう。そんなことを考える。
ドアの開く音は聞こえたが、飛影は振り向くこともせず窓から下を見下ろしたままでいた。

「まだ、いたんだ」

蔵馬は驚いたように言うと、笑った。
腕に巻かれた包帯からは微かに血が滲んでいる。どうやら仕事帰りらしい。

キッチンに置かれた食料に、ベッドに放られたままの金やデバイスに気付かないわけもないが、蔵馬は何も言わない。
冷蔵庫から取り出した水のボトルを開け、一気に半分ほどを飲み干し、飛影の隣に腰掛ける。

「ごめん」

思いがけない言葉に、飛影は振り向いた。

「悪かったよ。意地悪なことをして」

あんな風に知らせるなんて、悪かった。ごめん。
謝るというよりは淡々と報告するかのような言葉に、飛影は眉を寄せる。

「羨ましかったのかも。君の妹が」
「羨ましい…?」
「羨ましい。誰かにそんなに想ってもらえた君の妹や兄さんが」
「兄さん?」

蔵馬は答えず、ポケットから自分のデバイスを取り出し、酎が置いていったベッドの上のデバイスに当てた。

「一枚しか、手に入らなくて」

渡されたデバイスを受け取り、起動させる。
写真の転送があったことを知らせるランプが、緑色に光る。

痩せた体。長い髪。どこかの防犯カメラかなんかが撮ったのであろう、写真。

大柄な男はこちらに背を向けており、顔は全くわからない。
撮られているとは気付いていないらしい雪菜は、男を見上げるようにして、笑っていた。
その顔には明らかに病の影があったが、笑みは本物だった。

男と雪菜は、手を握りあっていた。
握り合った手、雪菜の左手の薬指には指輪がある。

防犯カメラの写真でも分かる、強い光。
笑えるほど小さいが、その光は紛れもなくダイアモンドの光だ。

大きく、深く息を吐き、飛影はデバイスに額を押し当てた。

堅実な男。真面目な男。小さな小さな、でも本物のダイアモンドを、汚れていないダイアモンドを妹に贈ってくれた男。
この男はきっと、雪菜をきちんと看取ってくれた。

多分、幸せに死ぬことができた。
もうやるべきことは何もない。
何かをしてやりたかった妹は、もうどこにもいない。

冷たいデバイスに額を押し付けたままの飛影を、しばらく見つめていた蔵馬が立ち上がる。
口を紐で縛っただけのような袋を取り、床にあぐらをかくと袋を逆さまにし、中身をぶちまけた。

小さな袋や瓶に入った、驚くほどカラフルな錠剤。
果物や、蝶や、花の形を模したそれは菓子のようにも見えた。

「…なんだそれは」
「新薬。これを試すのも俺の仕事だから」

パチッと音を立てて銀色のシートを破り、蝶の形をし飴玉のような艶を帯びた錠剤を、蔵馬は天井の明かりに透かす。

「娼館の押収品だからね。用途は知れてるけど」

毒々しいピンク色の錠剤を口に入れかけ、ふと蔵馬は手を止める。

「犯されたくなかったら、二時間くらい外にいてくれる?」

娼館の押収品。用途は決まっている。
売人だった飛影でも見たことのない薬ばかりだ。なぜならその手の薬は街角で売る必要はない。娼館がまとめて仕入れるものだ。

カリッと音を立て、蔵馬が錠剤をかみ砕いた。

ベッドから立ち上がった飛影はデバイスをそっとカウンターに置き、蔵馬の隣に同じようにあぐらをかいた。
目の前に積み上げられた薬の山から、同じピンク色の蝶を手に取る。

「何する気?ホンちゃん?」

からかうような蔵馬の言葉に何も返さず、銀色のシートを破った。

毒々しいピンク色。
夜のネオンのようなピンク色。

紛い物の蝶。

今さら失うものなど、何もない。
躊躇うことなく、飛影はピンクの蝶を飲み込んだ。
***
甘いような、微かに苦いような、不思議な香り。

草花に明るくない飛影には、周りに咲き乱れる赤い花々が何の花なのかはわからない。
けれどそれは本当に綺麗で、金の粉でもまいたかのように煌めいていた。

それに…。

「あっあっあっあ…っ、んん、ああ…い、あぁ」

唇を、首筋を、噛み付くような強さで吸われる。
引っぱられた乳首は赤く腫れ、ツンと尖っていた。

尻の中に、熱くて太いものがひっきりなしに抜き差しされる。
繋がった場所から肉がとろとろと溶け、たくさんの花を咲かせる大地に染み込み、また大輪の花を咲かせる養分になる。

青すぎる空とピンクの花とが混ざり合い、美しい紫色の雲がたなびく。

「あっあっあっ、く、ああ!ああ!んあ、あ、ひぁ、あぁぁ」

…なんて綺麗なんだろう。
なんて気持ちがいいんだろう。

飛影はうっとりと、自分に覆いかぶさり腰を振る男を見つめ、両手で自分の股間をしごく。何度も出したもので両手はどろどろになり、ぐちゃぐちゃと音を立てる。左手で勃起したものを擦りながら、ぬたりと糸を引く右手を離す。
大きく持ち上げられた尻を右手で伝い、裂けんばかりに広げられたそこへたどり着く。

広がった穴、差し込まれる肉。
じゅぽじゅぽと音を立て、抜かれ、差されるたびに、痙攣でも起こしたように中が動く。

「あ、あ、あああーーーっ、あ、あう、あ!」
「…じゃ…ま…」

綺麗な顔に汗を浮かべ、どこか笑いを含んだ声で、蔵馬が笑う。
結合部を探る邪魔な手を払いのけ、いっそう奥へとぐんっと貫いた。

「んあ!ああ、ああぁぁぁ、あ」

足の間から頭のてっぺんまで快感が突き抜け、飛影は悶える。
体中が肉の袋になり、突き込まれるものを包んで吸い込もうとしているかのような快感に、叫び声を上げ、何度でも高く舞い上がる。

「あ、ああ、ああああ、あ、っひあ、ひ」

べとつく両手をのばし、長い髪を持つ頭を強く抱く。
再び差し込まれた舌に応え、肉棒をくわえ込んだ穴をさらに強く締め上げる。

「ああ!! うああああ!! あう、あう、っああ!!」
「…あっ、うあ」

長い髪を揺らし、同じように快感に声を漏らす男が愛しくて、飛影は思わず名を呼んだ。

「ひあ、あっ、あぁ…ぁ…ウェ…イ……ウェイ…?」

違う、と熱い頭の中で声がする。
その名前は、違う。そうじゃなくて。呼ばなきゃなのは、この名じゃなくて。

「………くらま…」

呟くように名前を呼ぶと、飛影の体の中に異変が起きた。
閉じていた最奥が大きく開き、丸ごと全部を飲み込むように蠢いた。

「ああ!! あああああ、あああーーーーっ!!!!」

体内で大きく膨らんだものに、飛影の背が折れんばかりにのけ反る。
強い風が吹き、辺りの花々は見事に赤い花びらを、惜しみなく散らす。

「ああ、あ、もう、あ、ああ、んあ、あーーっ!! っ、あ、ひいっ」
「…あ、はっ、あ…呼ん…で…俺の…こと…」
「…うあ、あ、あ、くら……くら…くら、まぁっ!!」
「もっと……あっ…う…呼ん……で…お願い……呼んで…っ」
「くらま……うあ、あ、あぁぁ…ひあ…く…まぁっ!!」

絡み合い、溶けた肉がひとつの塊になる。
自分の体も、蔵馬の体も溶けてひとつになってしまったような感覚に、飛影の目から金色の滴が落ちる。

「…ひあっ、あ、あ、あ、くらま……くらま…ああ、ああああ!!」

赤い花、青い空、溶け合う紫。
透き通るような、羽。

いつの間にか、二人のすぐそばには、美しく透いた羽を持つ紫色の蝶が舞っていた。

このまま、ずっと、こうして。
ここに。

この天国に。いれたなら。

また溢れた金色の滴に引き寄せられるように、蝶は近付く。
ひらひらと舞う蝶に指先を差し出し、体内に熱い迸りを感じて、飛影は目を閉じた。
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