heaven's day...7

ウェイの仕事を考えれば、住み家を定期的に変えるというのはホンにも納得のいくことだった。
荷物のように扱われ、前の部屋と驚くほど似ているこの部屋のベッドにホンが投げ出されてから、もう十日以上も経っていた。

ウェイはおよそ、看護には向かない。
両手両足が使えず、一人では何もかもがままならない者が家にいるというのに、朝から出かけて深夜を過ぎても戻ってこないことも度々あった。自分だけでは用を足すこともできないホンは、用意された水すらろくに飲まずに過ごしていたが、それでも何度かは我慢できずにベッドを濡らすはめになり、悔しさと情けなさに歯噛みした。
ようやく戻ってきたかと思えば、ホンをトイレに座らせ、ウェイはさっさと部屋に戻り眠ってしまい、十時間以上も起きてこないこともざらにある。

なんなんだ、こいつは。

ホンの苛立ちは日に日に増していく。
命を助けられたのは確かだ。だが、どういうつもりなのか、何が目的なのか、この先どうするつもりなのか。組織はどうなったのか。

ホンが投げるいくつかの質問に、ウェイはいつもうるさそうに手を振り、お喋りはまた今度ね、などと言いすぐに眠ってしまう。
自分自身が食べる物もホンに与える物も真空パックになった合成食ばかりで、食べることには興味がないらしい。衛生的で栄養バランスが良く、水分以外の排泄の必要がほとんどなくなるという大きな利点もあるが、餌としかいいようのない無味の合成食がホンは苦手だった。とはいえそんなことに文句を言える立場でもない。

おまけに、ホンが心底驚いたことに、ウェイは正真正銘のジャンキーだった。
密売人を追う、いわゆるドラッグハンターがジャンキーだとは夢にも思わなかった。

素晴らしく上手い偽装だったのだろうと思っていた腕の無数の注射跡は、癒える間もなく日々着々と刻まれていく。ゴムチューブで上腕を縛り、注射をし終えるのに二十秒とかからない。まさしく職人技だ。麻薬成分を含む煙草も愛用している。
短い時間ではあるが、起きている時のウェイには奇妙な癖もあった。もちろん、ジャンキーであること自体驚きの悪癖ではあるのだが。

指先を、何もない空間でひらひらと動かすのだ。
優雅に。軽やかに。

まるでウェイにだけ見えている小鳥が、指先で遊んでいるかのように。

「…何をしているんだ?」

だいたい十日。十日くらいは経ったはず。
手元にデバイスもなく時計や暦もない部屋で眠ってしまうと、いったい何日が経ったのかわからなくなるという、ありがたくもない事実をホンは発見していた。今日はめずらしくウェイがいて、そしてめずらしく起きている。

「何も」

ひらひらと、長い指が舞う。
苛立ちのあまりわめきたくなるのを堪え、ホンはまた質問する。

「なんなんだ?お前は誰だ?俺をどうするつもりだ?あの後何があった!?」
「あの後って?」
「俺が…」
「ああ、君があの汚い男に犯されてベラベラ喋った後?」

大きく息を吸い込んだホンに、得体のしれない煙草を唇に挟みマッチを擦ったウェイがいたずらっぽく笑う。

「だいたいさ、答える義務はある?」

勘違いしてない?と、ウェイは言う。

「俺と君とは対等じゃない。そうだろう?君は自分ではそこから動けもしないんだから。俺が水や食べ物を与えてあげて、トイレに座らせてあげて、体を拭いてあげて、それでやっと生きてる。俺が君をここに置き去りにしたら?どうする?飢え死にする?汚れたベッドの上で?」

返事のかわりに、ホンは無言でウェイを睨む。

「…生意気な目。かわいい顔でもないんだから愛想くらい良くしたら?」
「余計な世話だ」
「態度もかわいくないけどね。じゃあ…取引だ。俺が質問する。君は答える。そうしたら君も俺に質問ができる」

今さら何を聞きたいのかと、ホンはため息をつく。

「君はなんで売人になったの?」
「…借金を返すためだ」

ありがちだね、とウェイは頷き、どうぞ、とでも言うように首を傾げる。

「組織は…どうなった?」
「組織?プランダってこと?」

プランダは、ホンの属していた密売組織の名だ。

「プランダはもうないよ」

軽く吐き出された言葉に、ホンは眉をしかめる。
たったの十日かそこらで?もうない?もうないとはどういうことだ?

「…ないだと?」
「そう。ない。消えた。消した」
「馬鹿な!お前はなんなんだ?」
「なんなんだって?ご覧の通りだけど」
「ジャンキーなのか?本物の?」
「見てわからない?」

笑顔のまま、巻煙草をウェイは深々と吸い込み、ホンの方へと煙を吐き出す。
めまいのするような、強いにおいの煙。ホンはできるだけ吸い込まないよう浅く小さく息をする。

「今度は君の番だよ。なんでプランダに借金を?ジャンキーでもないのに。君の部屋、金目の物もなかったじゃない。贅沢な生活してるとは思えないけど」

こいつらは俺の家もとっくに調べていたのだ。
そう知らされ、ホンは愕然とする。

「借金は……肩代わりだ」
「誰の?」

瓶入りの水をウェイはごくりと飲む。
ウェイが差し出した水の瓶に、ホンは大人しく口を付けた。

「誰の?」
「………妹だ」
「妹?妹の借金を肩代わりしたの?なんで?」
「妹なんだぞ?当たり前だ」

なるほどと頷き、残りの水を飲み干し、麗しき兄妹愛だね、とウェイは呟く。

「妹がなんで借金したのかは知らないけど、それを返すためにプランダみたいな所で働くなんて健気なお兄ちゃんだね」

君の番だよ、とウェイは煙草でホンを指す。

「ジャンキーがドラッグハンターをやっているとはどういうことだ」
「ジャンキーがドラッグハンターをやっちゃいけない理由でも?」
「だが…」
「それに俺はドラッグハンターじゃない」
「じゃあなんだ!?」
「臨時。雇われ。バイト」
「雇われているのか?」
「違う」
「だがお前はあのチームのために仕事をしていた!」
「狐はチームじゃない」

ちぐはぐな、噛み合わない会話。はぐらかしなのか、ラリってるのか。
手足が動いたら今すぐこいつに飛びかかってぶん殴ってやりたい、そう歯ぎしりしながら、ホンは質問を待った。

「妹はなんで借金を?」
「…身の丈に合わない物ばかり買っていた。借金を作って、返すために娼婦になった」
「コールガール?娼婦?」
「どっちとも言えない。コールガールほど高級でもなく、娼婦ほど低級でもなかった。身請けする金は俺にはなかった。だから代わりになった」
「売人に?男娼になるって選択肢はなかったの?」
「選択肢にはあった。だが稼ぎなら売人の方がずっと多い」
「危険も、ずっと多い」
「…そうだ」

おかげで、このざまだ。
両手両足を折られ銃で撃たれレイプされ薬物を投与され、わけのわからない男の、眩暈のするような煙に満ちた部屋にいる。

窓の開かない部屋で煙を吸い込まないのは不可能だ。具合がいいのか悪いのか、むかむかすると同時に嬉しいような楽しいような、奇妙な気分になってくる。
どろんと歪み始める思考をなんとか繋ぎ止め、浅い呼吸のままホンは考える。

組織が、なくなった?
プランダは街で一、二を争う大きな組織だったし、そうなれたのは何より薬物の精製工場も持っていたからだ。
その工場がヘヴンリーも復活させた。売買の部隊も、精製工場も潰されたということか?こんな短期間で?たったあれだけの人数で?警察も協力していたのだろうが、とても信じられない。

だが、プランダがなくなったのなら……借金もチャラだ。
そんな都合のいいことがあるだろうか。

自分が、何をどこまで喋ってしまったのかホンは全く思い出せなかったが、そもそも下っ端の売人だったホンが知っていることなどそう多くはない。精製工場に至っては、どこの街に、あるいはどこの国にあるのかさえ知らなかった。
自分が喋ったことの中にプランダが壊滅に追い込まれるような情報がそれほどあったとは思えない。他にも同じように捕まり拷問にかけられた者がいるということなのか。

「質問はもういいの?」

ハッとして顔を上げるとウェイはいつもの洗いざらしの白いシャツを取り出している。

聞くべきことはまだたくさんある。だがこの煙の中では頭が回らない。
何もかも放り出してしまいたくなる。泣きたいような、笑いだしたいようなこの気分。

「……お前の名は?」
「俺の名前?ウェイ」
「それはコードネームだろう」
「本名ってこと?そんなもの聞いてどうするの?」

ホンは、詰まる。
たしかにそうだ。聞いたところでそれがなんだ。この街の底や闇の者はみなコードで生きている。

「別にいいけど。俺の名前は、蔵馬」

ウェイこと蔵馬は、あっさりと答える。

「くらま…?」
「そう」
「あいつは…あの…?」
「あいつ?君を犯したやつ?本名は知らないな。コードは鯱」

あの醜い男の顔が蘇り、ぐさりと胸に脳に刺さる。薬でぶっとんでいたおかげで犯された細部はまったく思い出せない。それは素晴らしき幸運としか言いようがない。
大きく長く息を吐くと、ホンは首を振る。

「そいつじゃない。狐だ!あの、銀色の長い髪をし…」
「ああ、兄さんのことか」
「兄さん…?兄弟なのか!?」
「そう。兄さんの名前は知ってるでしょ?狐」
「それは本当の名前じゃない!!」
「本当の名前は、蔵馬」

ジャンキーはどこまで頭がパーなのかと、ホンは爆発しそうになる。

「それは今、お前の名だと言っただろう!あいつの名を聞いてるんだ!!」
「だから、蔵馬。俺も兄さんも」

蔵馬は面白くもなさそうに説明をする。

兄さんも俺も、名前は蔵馬。
同じ名前なんだ、俺と兄さんはね。父さんは頭がおかしい人だったから。

「もしかして他にもいるのかもね、蔵馬が。自分の子供には全部蔵馬ってつけてたりしてね?何人いるのか知らないけど」

あっけらかんとした言葉に、ホンはぽかんと口を開ける。セメントで窓枠を固められた窓は開けることはできない。煙は濃くなり、いよいよ頭がガンガンしてきた。

喋りながら蔵馬は冷蔵庫から新しい水の瓶を取り出しストローを差し、ホンが届く場所に合成食のゼリーとともに置く。
シャツを羽織り、ボロい靴に足を突っ込む。どうやらまたお出かけのようだ。

「あ、そうだ」

ドアノブに手をかけ、蔵馬が振り向く。

「君の名前は?コードじゃない、本当の名前」

嘘をつくこともできた。
だが驚きの連続に毒気も抜かれ、ホンは蔵馬を見つめる。

「俺は教えてあげたじゃない。そっちは?」
「俺は…」

赤い瞳が、蔵馬を見上げた。

「…飛影だ」
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