heaven's day...2

目の前に積み上げられた銀貨。二枚ほど金貨もある。いかにも金勘定に向いてそうなひょろりとした会計係は数え終えた金をしまうと、少年に銅貨を二枚だけ渡す。

「どうだった?」

少年は受け取った銅貨を指で弾いてはキャッチするという動作を繰り返しながら、別に、と返す。

「新規は二人だった。後はいつもの常連と、そいつらが連れてきたやつらだ」
「気をつけろよ、ホン」

ホン、というのは少年のコードネームだ。
どこか遠い国の昔の言葉で、深紅を意味するらしい。

真っ赤な瞳で会計係をちらっと見ると、ホンはまたもや宙に放った銅貨をパシッと受け止める。

「わかってる。心配することはない」

明日の分だ、と茶色いガラス製のアンプルが、六十本渡される。

「多いな」
「今夜は足りなかったんだろうが。それにお前だって多く売りさばきたいだろう」

それは男の言う通りだった。
肩をすくめ、おとなしくアンプルをぶかぶかのズボンのたくさんのポケットにホンはしまいこんだ。
***
夜の十一時から朝の四時まで、売り切れ次第終了、という労働者としてはずいぶん少ない勤務時間ではあるが、ホンの足取りはくたびれている。
どれほど時代が変わっても、結局人間の体は夜眠るようにできているからなのか、あるいは短い時間であっても労働の密度が違うのか。

得体の知れない食べ物を出す安食堂で食事をとり、アパートとアパートの狭間にあるような商店でパンと水を買う。出たときと同じようにエレベーターは使わず階段を登り、凸凹のドアに鉄製の鍵を差す。デバイスに反応して扉が開くようなまともな建物ではない。三つある内鍵はきちんと締める。

アンプルの詰まったズボンだけは丁寧に椅子にかけ、あとは脱ぎ散らかす。銃とデバイスは枕の下へ、ナイフはシャワールームまで持っていく。

ホンの日々は、毎日ほとんど変わらない。

濡れたままの髪をそのままに、これまたぶかぶかの洗いざらしのシャツだけを着ると、冷蔵庫から取り出した密造酒の一口とともに睡眠薬を二錠流し込む。
底辺の人々が暮らすこの地域では、騒音もひどい。罵声や悲鳴、壊れかけの車の立てる音に、時折響く銃声。そもそもこんな場所で暮らすような人生そのものに精神は摩耗する。大抵の住民はホンと同じように睡眠薬を常用していた。でなければとても眠れたものではない。

体の大きさを考えれば二錠の睡眠薬は多いのだろう。大きな瞳はあっという間に閉じられた。
武骨な鉄のフレームに頑丈そうなマットレス。いつ替えたのかはあやしいシーツの上で、ホンは眠りに落ちる。

明るくなり始めた外を分厚いカーテンで遮り、耳障りな音を薬で遮って。
***
耳元で甲高い電子音が鳴り響く。
無理やりに眠りから引きずり出され、しかめっ面をしながらデバイスをつかみ、ホンはよろよろとベッドに身を起こす。

「……ん」

寝起きが悪いのは睡眠薬のせいもあるのだろう。
白く光る画面の時刻は午前八時で、ホンにとっては真夜中にたたき起こされたも同然だ。

「寝ぼけるな。起きろ」

寝ぼけるなどと言われる筋合いはない。そもそも夜間労働者なのだからこの時間は眠っているに決まってる。
だがホンは怒るでもなく、ため息交じりに体にシーツを巻き付け、デバイスの向こうのだみ声に耳を傾ける。

「なんだ…?」
「新商品が入荷した」

シーツを体に巻き付けたまま立ち上がり、冷蔵庫から取り出した瓶詰めの水の蓋を開け、直に口を付けて半分ほど飲む。
冷たすぎる水が睡眠薬特有の頭痛を余計にひどくする。

「新商品?」

ホンが売る薬は、エンペリアルと呼ばれるこの国で一番多く出回っている薬だ。この仕事を始めて一年、他の商品を扱ったことはない。ホンのいぶかしげな声に相手はしばらく沈黙し、答えた。

「ヘヴンリーだ」

ホンも同じようにしばしの沈黙で返し、目を擦り、頭を振った。
名前だけは知っている薬。幻と言われるその薬。今はもうどこにも存在しないはずだった。

「……ヘヴンリー?」
「ああ。復活した」
「本当なのか?」
「お前に嘘をついてる時間なんかねえよ。ヘヴンリーを二十だ。取りに来い」

冷たい瓶をこめかみに押し当て、ホンはベッドにどさっと座る。

「わかった。サンプルは?」

デバイスの向こうで、だみ声はしばし沈黙する。

「…五本」
「了解」

自分からデバイスを切断し、ごろりと寝そべり、十一階だというのに聞こえてきた車の衝突音に耳を塞ぎ丸くなる。
もう眠れないことはわかっていた。
***
眠いというより、だるいというべきか。

大通りを抜け、昨夜とは二本ずれた裏通りにホンは立つ。
昨夜の雨に少し湿ったように思える煙草に火を付け、マッチは足下へ。だるさを吹き飛ばそうと吸い込んだ煙には噎せるだけだ。すぐに煙草も足下へと落とされる。

仕事をしている時間以外、ホンはずっと眠っている。
たった五時間ほどの仕事なのに心底くたびれてしまうというのもあるが、起きていてもすることがない、というのも理由の一つだ。
眠っていれば、電気もガスも水道も使わない。食事の回数も少なくて済む。ある種の節約でもあった。

通りを変えても、赤い煙草の目印を客は目ざとく見つけて近寄ってくる。
ホンはただぼんやりと立っているように見えるが、ここいら一帯の通りにはそんな者は山ほどいる。

裏通りからはさらに細い道がいくつものび、そこにあるのは時間貸しの宿ばかりだ。この国では売春も買春も違法ではあるが、見逃されているのが現状だ。おどおどと、あるいはキリっとして。客を引く娼たちはそこここにいる。

「おおい、赤箱」

馴染みの客だ。
ホンの客の中にはホンを煙草の箱の色から赤箱と呼ぶ者もいたし、ただチビと呼ぶ者もいる。あだ名であれなんであれ、名前を呼ぼうとする者自体少ないが。

「十、あるか?」

ポケットに手を入れたホンは手を止め、金払いのいい馴染み客に、思わせぶりに微笑む。

「…他のも、あるぞ」
「他って?」
「お前がきっと、欲しがる物さ」
「なんだよ。もったいつけやがって…」

自分の煙草に火を付けたところだった男は、しばしぼんやりと煙草をふかし、急に目をギラつかせた。

「まさか……ヘヴンリーじゃないよな?」

煙草の煙が大嫌いなホンは、男の手から煙草を取り歩道に放った。男はもう、煙草のことなど気付いてもいない。

「ヘヴンリーなのか!? なあ答えろよ!」
「だと言ったらどうする?」
「……本当なのか?本当にヘヴンリーなんだな?いくらだ!?」
「一アンプル、金二だ」

金貨一枚は、銀貨十五枚に相当する。エンペリアルの十倍という値段に男が躊躇ったのは数秒で、あちこちのポケットを探り三枚の金貨と十五枚の銀貨を引っ張り出し、ホンの手に押し込む。

昨日の男と同じように、アンプルを受け取ると振り向きもせず男は去った。手の中に握りしめたアンプルへの期待に、弾むような足取りで。

馬鹿ばかりだ。
幼い顔に似合わぬ、達観したような笑みを浮かべ、ホンは心の中で男に別れを告げた。

もちろん、まだ何度かはこの男にも会うだろう。
けれど今日が、この馴染みとの別れなのだとホンにはわかっていた。
***
夜更けに起き、パサついたパンを水で流し込み、ホンはいつものように階段を駆け降りる。

エンペリアルを五十、ヘヴンリーを三十、それが今夜のノルマだ。
生ゴミと反吐の悪臭に満ちた通りを走り抜け、今夜の売り場に立ち、いつものように煙草を取り出した所で声をかけられた。

「こんばんは」

あの男だった。
綺麗な顔をし、ジャンキーとは思えない落ち着いた雰囲気。女のように可愛らしい顔、優美な体つきの優男。
ホンの客にはあまりいないタイプだ。

こんばんは、というこの街に相応しからぬ挨拶は無視し、ホンは煙草を指先でくるりと回す。
瞬間、ポケットの中でデバイスがビリっと発した強い電流に、ホンは思わず唇を噛んだ。

「あっつっ…!」
「どうしたの?」

デバイスに走った電流は、警告だ。
近くに警察がいる、通りを離れろという。

サッと歩き出したホンの後を、なぜか男もついてくる。
どういうつもりだと舌打ちしかけたホンだったが、二十メートルと離れていない所にいる二人組が警官だと気付き、慌てて男の手を取った。

「え…?」
「黙れ、ついて来い」

恋人同士のようにホンは男に腕を絡め、時間貸しの宿の扉を開けた。
***
「君も、売り物なの?」

目的は一つしかない宿の部屋では、巨大なベッドが狭い部屋の大半を占めている。

「馬鹿を言うな。警官がいたんだ」

閉めたドアを押さえるように立ち、ホンはナイフを取り出した。

「大丈夫だとは思うがな。お前は隠れてろ」
「そう言われても」

確かに、そう言われても、だ。
大きなベッドは部屋の壁ギリギリまであり、人が一人歩くのが精一杯の隙間しかない。
シャワールームはルームと呼べた代物ではなく、部屋の隅にカーテンで区切っただけのスペースで、その上の天井はまるで斬新なアートのように黒カビが模様を描いている。

「あのさ、こうした方がいいんじゃない?」

男は靴と服を脱ぎ、下着だけの姿になるとベッドに入った。
躊躇うホンを手招きすると、隣を指す。

確かに、その方がいい。
宿の入り口の方から聞こえたざわめきに、ホンも下着以外の服を脱ぎ、男の胸に擦り寄るようにベッドに入った。

怒声に罵声、何かが倒れる物音。
男はシーツの中で、ホンに覆いかぶさり、首筋に顔を埋めた。
ホンもまた両腕を男に絡め、甲高い声を上げてみせる。

足音、またもや罵声。
乱暴に蹴られたドアはあっさり壊れ、通りで見かけた二人組が部屋になだれ込んできた。

「アッ…アッ…!えっ…な、何…?」

飛び込んできた二人組に怯えるかのように、ホンは男にしがみつく。
男もまた、ホンを庇うかのように強く抱きしめた。

「なんだよ、あんたら?」

驚き半分、怒り半分の男の声に、二人組はクソッと吐き捨てると、ここじゃない、探せ!と、どうやらまだいるらしい仲間に向かって叫び、ドアを閉めるだけのマナーもなく宿から出て行った。

「……行ったみたいだね」
「ああ」

優男、と思っていた男の体が傷跡だらけであることに気付く。深い傷に浅いが長い傷。いくつかは銃創だ。なるほど、ジャンキーの人生とはなかなか厳しいものだとホンは一人頷き、サッと起き上がり服を取る。

「悪かったな」

ホンが投げた二本のエンペリアルのアンプルを男は器用に受け止めた。

「それはサービスだ。あと何本いるんだ?」

手のひらでアンプルを転がすと、男はホンをじっと見つめる。

「ヘヴンリーがまた出回り出したって噂を聞いたんだけど…」
「馬鹿な。噂だろ」

あっさり返し、ホンは服を着る。

ヘヴンリーは常連か、常連になりそうなやつ、それでいてそこそこまともなやつにしか売らないことにしている。
ジャンキーにまともを求めるなど矛盾した話ではあるが、ヘヴンリーは特別だ。

中毒性の高すぎるヘヴンリーは売るのも少々厄介な商品だった。何気ない様子で近付き、金を払いアンプルをサッと受け取る。そして素早く消える。それができないほど狂ってる客は相手にしない。売人を脅して…あるいは殺して…でも薬を手に入れようとする輩を相手にしていては命がいくつ合っても足りない。

「噂なのか…残念だな」

そもそもヘヴンリーは四年前に市場から完全に消えた薬だった。
危険性、中毒性、トリップの度合い、どれも抜きん出ていたために死者が続出した。もちろんジャンキーが死ぬことなど誰にとっても何程のこともない。だが、トリップによる一般人への暴力沙汰や殺傷事件も絶えず、ヘヴンリーを買う金欲しさの強盗も数え切れなかったという。

そこで警察は重い腰を上げ本格的な撲滅へと動いたのだ。密売組織とその精製工場が摘発され、多くの死者が出た。
四年前、ヘヴンリーは街から完全に消えてなくなったかのように見えた。

だが天国を意味するヘヴンリーの名前は伊達ではない。復活を望む声は多かった。
需要あるところに供給あり、というわけだ。

服を着終わったホンは、右の腰骨に当たるポケットを上から押さえる。
ヘヴンリーのサンプルがそこにはある。比較的新しい客で、この先得意客になりそうな客に安く配るために、組織から渡されているものだ。

シャツのボタンを留める男の指はしなやかで、腕に無数の注射跡がなければピアニストかなにかのようにさえ見える腕をしている。
多色のネオンの下ではよくわからなかったが、安宿の古ぼけた明かりで見ると男の目は綺麗な緑色をしているが、左右の色が少し違う。右目は深い森のような色をし、左目はもう少し淡く、若葉のような色合いだ。綺麗な碧の瞳。長い髪は癖があるものの艶やかだ。

薄汚い街で薬に溺れていなければ、女に酒を注ぐだけでも金を稼げそうな男だ、そんなことをホンは考える。

「ヘヴンリーの売人を探してるのか?」
「うん。あの味、忘れられなくてね」

その言葉に、ホンは今度こそ本当に驚いた。
男の年齢を十六、七とホンは見当をつけていたが実際はもう少し上なのかもしれない。でなければ十三の歳でヘヴンリーを使っていたことになる。
おまけに、ヘヴンリーの使用者は一年もすれば廃人になる。二年後には九割が政府管轄の無縁墓地の土の下だ。

「いいナイフだね。今どきナイフ派ってのも珍しいけど」

ハッとした。
いつの間にか男はホンのナイフを手に取り、しげしげと眺めている。

相手を見誤っただろうか。
ポケットの中の小型の拳銃を探り、ホンは唇を舐める。だが男はナイフを元通り折りたたみ、ホンにあっさり返した。

「はい。ところで、いつもあの辺にいるの、君?」
「ああ。だが明日からは当分別の場所にいるからな」

警官がうろついていた通りに立つわけにはいかない。
ホンは明日以降の売り場を男に教える。

結局、五本のエンペリアルを男は買った。
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