heaven's day...1塗装はとっくに剥げ落ち、ところどころへこみのある金属のドアを閉めると、少年はエレベーターの前を足早に通り過ぎ、いつものように階段へと向かう。チカチカと点滅する切れかけの電球。踊り場ごとにある小さな窓は、はめ込みの鉄格子の向こうの窓が割れ、もう何年も雨も風も砂埃も吹き込むままだ。 湿っぽい階段。コンクリートはあちこち大きくひび割れている。 黒い靴を履いた小さな足はひび割れを器用に避け、軽やかに階段を下っていく。 壊れてばかりのエレベーターを信用しない住人は多い。中に閉じこめられたりしたらたまったものではないからだ。四階まで降りたところで少年は同じように階段を使う老人とすれ違ったが、互いに互いが見えていないかのように、挨拶も視線も交わさない。 それはこの辺りに住む者には、珍しいことでもない。 息も切らさず十一階から一気に駆け下りた少年は通りに出ると、ふと、振り返る。 同じような高さの古びたコンクリートのアパートが立ち並び、風通しの悪い通りはカビ臭い。 生ゴミがあふれて悪臭を発するゴミ箱も、意味の通らない言葉を喚き立てる酔っぱらいも、通りを横切るように結ばれた紐にかけられた、盗む価値もない粗末な洗濯物…真夜中になっても取り入れられてもいない…も、少年にとっては見慣れた日常だ。 道端にひっくり返っている、生きているのか死んでいるのかさえわからないジャンキーでさえも。 なぜ、振り返って眺めたりしたのだろう。 自分自身の行動を訝しく思いながらも、少年は歩き出す。いったいどこを見て歩いているのか、ふらふらと歩いてきた酔っぱらいをひょいと避け、騒がしい大通りへと続く道へと。 ***
汚らしい裏通りであることは少年の暮らす通りと違いはないが、ここは生活のための通りではない。表通りは上品とは言い難い繁華街で、立ち並ぶ店はどこも明け方まで営業している。 上品とは言えない表通りの裏通りが上品なはずもなく、合法な売り物に隠れるように、非合法の物品が毎夜、当然のように取引されていた。 少年は十二、三歳といったところだろうか。 体のラインにぴたりとした黒のタンクトップに羽織っているのはすり切れた黒いシャツ。同じく黒いズボンはぶかぶかで、たくさんのポケットがあるものだ。どう見てもサイズは合っておらず、少年はベルトで絞るようにして履いている。 慣れた様子でポケットから出した箱を一振りし、赤い巻紙の煙草を取り出す。 この街ではあまり見かけない銘柄の、自分の目と同じような色をした煙草をくわえマッチで火を付け、当然のようにマッチを歩道へと放る。 立ち上る煙に嫌そうに目を細め、少年は煙草をただくわえている。 煙草を吸う人間であれば、それがただくわえているだけで吸っているわけではないことにすぐ気付くだろう。 半分ほどになった煙草を足元に落とし、湿ったコンクリートの上で踏み潰す。 黒く濡れる道路に、折れ曲がったそれはまがまがしく赤い。 「よう」 頭の上からかけられた声に、少年は顔を上げる。背は高いが、肉を削いだような貧弱な体つきの男。ぎょろっとした充血した目ばかりがいやに目立つ。 男は何気ない様子で隣に並ぶと、勝手に少年の煙草を取り、火を付けた。 「二本あるか?」 天気の話でもするような気軽な調子で、男は言う。 「今夜は一アンプル、銀三だ」 そっけなく、呟くような少年の言葉に男は頷く。返してきた煙草の箱の下には、六枚の銀貨。 来た時と同じように手を上げ立ち去る男の手の中には、少年の体温を残す、ガラスのアンプルがあった。 ***
午前三時を過ぎた。少年がポケットに詰め込んでいた、五十本ほどあったアンプルも残り三本だ。 雨になる前に、帰りたい。 今にも降り出しそうな重い空を見上げ、少年は足を組み替える。 願いが通じたのだろうか。 白い長袖シャツに色の褪せたジーンズ、薄汚れたスニーカー。 もしかして女だろうかと一瞬考えてしまうほど整った顔をした男が近寄り、少年に声をかける。 「こんばんは」 声を聞いて、ようやく男だと確信が持てる。男と言うよりは少年と言うべきだろう。ぱっと見の年齢は十六、七、そんなところだ。その男は折りたたんだクシャクシャの紙を取り出すと、少年に道を尋ねた。 「…今時、デバイスを持ってないのか?」 電話でもあり地図でもあり手紙の届くポストでもあり鍵でもあり身分証明書でもあり金でもある、ようするにほとんどすべてのことができる手のひらの半分ほどのサイズの機器が、なぜ装置全般を意味するデバイスと呼ばれるのかは、この街の大半の人間と同じように少年も知らない。 だが、デバイスを持たない人間は相当変わっている、ということは知っている。 「壊しちゃってね。買い替えるお金がないんだ」 背の低い少年に合わせて屈み込むようにして、男は地図を差し出す。 癖のある長い黒髪は後ろで一つに結ばれ、背に流れている。 しょうがなく地図を覗き込んだ少年は、その地図がこの街どころかこの国の地図ですらないことに気付く。 「…いくら?」 「何がだ?」 意味のない地図に目を落としたまま、少年は答える。 この辺りでは男娼も多い。間違えられることも時々あった。 「五アンプル」 少年は、答えない。 地図を見つめたまま、無言でいる。 新規の客には用心しろと、きつく言われている。 この男は警官には到底見えないしなれる歳でもないが、見た目だけでは判断できない。自分を振り返るまでもなく、それはよくわかっていた。 「…夜になっても、暑いね」 男は恋人に囁くかのように少年にぐっと近付き、暑さに参ったとでもいうように、袖をまくった。 白い肌が綺麗なのは手首の少し上までで、そこから先は、醜く変色し、新しいものから相当古いものまで、無数の注射跡があった。 メイクや薬品で偽装したものではない。 この注射跡は、男の人生を明らかに物語っていた。 むしろこの有り様でよくここまでちゃんと歩いてきて、普通に喋れるものだと少年は感心してしまう。ジャンキー特有の、落ち着きのなさもない。 「…今夜はもう、三アンプルしかない」 「いいよ。それだけでもいいからちょうだい!」 焦ったような言葉に、少年は薄く笑う。 ジャンキーどもはいつだってそうだ。求める数だけなくともいいから、今すぐ売って欲しいとそればかり言う。それはもう、熱烈に。 「一アンプル、銀四」 新規の客には、少々ふっかけることにしている。 言い終わるより早く、手品のように少年の手に銀貨が十二枚、押し込まれた。 アンプルを受け取った男は、少年を振り返ることもなく、さっさと大通りへと姿を消した。 やれやれと軽くのびをし、歩道の濁った水たまりでばらばらになりかけている赤い煙草を、少年は粉々に踏み潰す。 銀貨が十二枚もあれば安物であってもデバイスが買えるだろうに。愚かな者はどこまでも愚かになれる。 店じまいを待っていたかのように、先ほどの客よりも白い少年の肌に雨粒がぽたりと落ちた。 |