くろねこライフ...8

92日目

あの日以来、蔵馬と食事をすることも、一緒に眠ることも苦痛だった。

蔵馬は何事もなかったかのように、いつもと変わらずに食事を作ってくれる。
眠る時には俺を一緒のベッドに入れ、腕の中に抱く。

俺は蔵馬が眠ったのを見計らって、腕を解きベッドの隅に移る。
できるだけ蔵馬と離れたかった。

眠っているその顔は相変わらず綺麗だったし、俺を優しく扱ってくれることにも変わりはない。
あれから俺は風呂に入れてもらうことを拒否しているし、一緒に散歩へも行かない。けれどそれを怒るわけでもない。

だが、俺は長期契約をしたことを後悔し始めていた。
ネコの側からだって契約破棄はできるが、その場合は高額の違約金を支払わなければならない。もちろん、そんな金は持っていないし、逃げ出したりしたら、きっと雪菜に迷惑がかかるだろう。
お金は貯めなくちゃ、という妹の言葉がしみじみ身にしみる。

何度も何度も思い出す、バスルームの光景。
びしゃっと蔵馬の手にかかった、熱くて、汚いもの。

あの後、蔵馬は言った通りに、ココアを淹れて俺が上がるのを待っていた。
もちろん俺はいつものように一緒にココアを楽しむどころではない。
クッションソファに丸くなり、早々に寝たふりをした。

なぜ、蔵馬は何も言わないのだろう?
バカにするとか、罵られるとかでも、何も言わずにいつも通りに振る舞われるよりマシな気がした。
俺の方から、なんであんなことをしたのかと聞くのも間抜けてる。

もう、ここには居たくない。
でも、どこにも行けない。

クッションソファにぽふっと丸くなり、しっぽを噛む。
居心地の良かったはずのこの家で、俺はすっかり滅入っていた。
***
95日目

「飛影、今日、うちに人が来るんだけどいいかな?」
「…お前の家だろう?好きにしろ」

なんでそんなことをいちいち俺に聞く?
勝手にしたらいい。

蔵馬の仕事部屋とは別の部屋で、日当たりのいい窓際に丸くなり、中断された昼寝を続行しようとした俺は、ふと、気付いた。

この家に、誰かが訪ねて来たことはなかった。
雪菜が遊びに来た時以来、誰かが来たことはない。
仕事の打ち合わせとやらに蔵馬は出かけるが、この家に仕事関係の人間が来たことすらない。

それが変だということに、俺はようやく気付いた。
目をこすりながら起き上がり、庭をぼんやり眺める。

なぜ、誰も来ないのだろう?

家族とか。
俺でさえ、雪菜という家族がいる。

家族とか…友人とか…。

あるいは……恋人とか?
***
母さん、と蔵馬はその女を呼んだ。
やさしそうな、人間だった。

「あら!ネコを飼ってるの?」

女は、俺の頭を撫でようとする。
俺が撫でられるのを拒否してぷいっと逃げると、その女は笑った。
ご主人さまにしか懐かないの?それもまたかわいいわねえ、と。

誰がご主人さまだ。
ただ、知らないやつに触られるのが嫌なだけだ。

「びっくりしたわ。ろくに連絡もよこさないくせに、引っ越したなんて言うんだもの」
「ごめんね。いろいろ落ち着いてから遊びに来てもらおうかと思って」

引っ越した?
ああ、だからこの家は新しい匂いがするのか。

親子二人でゆっくり話せばいい。
そう思って部屋を出ようとした俺は、ドアの前で蔵馬に捕まえられてしまう。

「にゃ!」

放せ、と言う間もなく、ソファに座った蔵馬の膝の上に抱き上げられてしまう。

腹に回された蔵馬の手。
背中に、尻に感じる蔵馬の体温に、あの日のことをまた思い出し、顔が熱くなる。

そんな俺にはお構いなしに、蔵馬と女は俺の知らないやつらや、知らない出来事の話をしている。
眠くなるような退屈な話ばかりなのに、蔵馬の膝の上では眠ることもできない。

「ところで、このお家は、もしかしてこの子のために買ったの?」

一瞬誰のことを言っているのかわからなかったが、この子、というのはどうやら俺のことらしい。

「そうなんだ。…呆れた?」
「驚いただけよ。あなたらしいけど」

買った?この家を…?
ネコを飼うために?

「これじゃあお嫁さんは当分来なさそうね」

母親は、蔵馬に向かってそんな風に言って、また笑う。
そして、俺のぼんやりしていた隙をついて、一瞬ふわりと頭を撫でた。

「…にっ」
「ネコちゃん、お名前は?まったく、あなたが蔵馬のお嫁さんみたいなものね」

もう一度撫でようとした女の手をすり抜ける。

馴れ馴れしく、俺に触るな。
今度こそ俺は蔵馬の膝から飛び降り、窓から飛び出し、庭を走り抜けた。
***
「泥だらけ」

夜中になって帰ってきた俺を見て、蔵馬が笑う。
ソファやリビングには、とっくに帰ったらしいあの女の匂いが微かに残っていた。

いつものクッションソファに乗ろうとした俺を、蔵馬が阻む。

「こら。そんな泥だらけで。お風呂わいてるから」

靴も履かないで出て行くんだから。泥だらけじゃない。
先にお風呂入っておいで。

風呂、という言葉に心臓が跳ね上がったが、確かに一暴れしてきた俺は泥だらけだった。
それに、蔵馬はもう俺を風呂に入れるとは言わなくなった。
もちろん俺が嫌だと言ったからだ。
でも…もしかしたらあんな汚いものを手にかけられて、本当は蔵馬の方も嫌になっていたのかもしれない。

泥をざっとシャワーで流し、きれいなお湯のたっぷり入ったバスタブにつかる。

あれっきり、さすがに俺もあんなことをここでする気にはなれない。
透明なお湯の中の、股間を見下ろす。

…いや、正確に言えば、したい…。
けれど、できない。

…一人でエッチなことしてたんでしょ?…

蔵馬の指、硬い爪。
ぎゅっとつかまれ、揉むように擦り上げる。
硬い爪が皮膚を傷つけないギリギリの強さで引っかく、あの感覚…

その快感を思い出し、思わずごくりとのどが鳴る。
お湯の中で無意識に下にのばそうとしていた手を、慌てて引っ込める。

バカ!何をしているんだ。

「飛影ー。お腹空いてるでしょ?軽く夜食食べようよ」

何食べたい?と、脱衣所からかけられた声。

「……」

蔵馬にされたことを思い出しているのを見透かされたようで、
返事もしたくない。

「飛影?」

うるさい。あっち行け。

「ちょっと、飛影!溺れてないよね!?」
「開けるな!」

誰が風呂で溺れるか!
バスルームのドアを開けようとした蔵馬に、俺は怒声を浴びせる。

「飛影…何怒ってるの?」

この間から、ずっと怒ってるじゃない?
どうして?

「どうしてだと…?」

顔が熱い。
どうしてって…あんな…

「…自分でするより、気持ち良かったでしょ?」

馬鹿にしやがって。

蔵馬のその言葉に、俺はカッとした。
思わずボディソープの瓶をドアへ投げ付けた。

ガシャンと音を立て、ガラスでできていた瓶は割れる。
噎せるような香りと、ガラスが散らばる。

「飛影!」

蔵馬が飛び込んできた。

「入ってくるな!俺に触るな!!」
「ケガしてない?大丈夫?」

ガラスの瓶は粉々にはならず、大きくいくつかに割れている。
それを手際よく拾い、脱衣所に置くと、蔵馬は再びバスルームに戻ってきて、溜息をついた。

「…恥ずかしかったの?」
「……!」

当たり前だ。
あんなことを、他人にされるなんて。

「恥ずかしがること、ないんだよ」

あれは、自然な生理現象なんだから。

「ここを…」

と、蔵馬は湯の中の俺の股間を指差す。

「ここを弄ると気持ち良くなるし、硬くなる。それで、精液が出るのは自然なことなんだから」

淡々と説明され、湯の中でのぼせていた俺は、ますます頭に血が上る。

「うるさ…!おいっ!」

ザバッと、湯から出される。
そのままタイルの床に座らされ、抵抗も空しく足を開かされた。

「やめろ!」
「どうして?だって、飛影のここ、ヒクヒクしてるよ?」
「嫌…だ!」

蔵馬の手が、またもや俺の股間を弄り始める。

嫌なのに。
こんなことをされるのは、嫌だ!

「んぐ…っ…にゃっ…」

蔵馬の手。
蔵馬の指。
蔵馬の爪。

ヒクヒクしていたそこは、あっという間に跳ね上がり、俺の腹にくっつきそうだ。

「ほら、いい気持ちでしょう?」
「……っ!」
「声を聞かせてよ…」

嫌だ!
誰が、声なんか…!

「う、にゃ、あ、ぁ…!」

畜生。
腹の中に、どんどん熱い液体がたまっていくのが分かる。

「…っ!」

必死で手を伸ばし、シャワーのコックを冷水にし、力任せにひねった。

「わっ!」
「にゃ!」

勢い良く降り注いだ冷たい水に、俺たちは同時に声を上げる。

「冷たっ!ちょ、飛影!何する…」

冷たい水を全身にかけられて、蔵馬がくしゅんとくしゃみをした。
シャワーと止めようと俺の手を握ったが、俺は力を込めて放さなかった。

降り注ぐ、冷たい水。
蔵馬の髪も、服も、何もかもが濡れていく。

ざまあみろ。
なんで俺だけみっともない姿をさらさなきゃなんだ。

「もう!風邪引くでしょ!」

蔵馬の手が俺の手を引きはがし、シャワーを止めた。
寒いのはお互いさまだ。
さっきまで熱く硬くなっていた俺の股間も、水の冷たさにすっかり縮こまっている。

びしょ濡れになった服は蔵馬の肌に張り付き、体のラインがくっきり見えていて、蔵馬の裸を見たことがない俺にとっては新鮮だった。

女みたいな顔なのに、体はそうでもない。
きちんと筋肉もついた、しなやかな造り。

長い手足や、大きく膨らんだ股間。

「……?」

蔵馬の股間は、濡れたジーンズを押し上げて、大きく膨らんでいる。

なんでだ?
なんでここは膨らんでいるんだ?

やれやれ、とかなんとか言いながら長い髪を絞っていた蔵馬が、俺の視線の先に気付いて、ハッとする。

「あ、これは…」

俺は手を伸ばし、そこに触る。
布が水を含んで膨らんでいるのかと思ったが、そこにはしっかりと肉の感触がした。

「…?」
「その、つまり…そういうことで…」

そういうこと?
何か言い訳じみたことを蔵馬が言うのが、俺にはわからない。
ここを弄ると気持ち良くなって、大きく硬くなって、変な液が出るのは生理現象だと自分で言ったくせに。
何を慌てているのだろう?

「おい、蔵馬…」

…弄ると気持ち良く…?

「……なんで、お前のそこは、弄らなくても大きくなるんだ?」

ようやく蔵馬の股間から目を上げると、そこには…

ばつの悪そうな、顔。
冷たい水を浴びたというのに、ちょっと赤くなっている蔵馬の顔があった。
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