くろねこライフ...2

1日目

昼食は食べ終わった。
…何もすることがない。

飛影用だよ、と言われたリビングの白いクッションソファの上で、蔵馬が皿を洗っている音を聞きながら、俺は丸くなっていた。
クッションソファはちょうどいい大きさとやわらかさで、気持ちよく丸くなる。

一体、俺はここで何をしたらいいのだろう?

何をしたらいいんだ?と尋ねてはみたが、ただ、いてくれるだけでいいと蔵馬は笑う。
ただ、いるだけでいい。それで金を取るというのもおかしな話だ。
もっとも、雪菜に言わせれば“それがネコというもの”だそうだが。

テレビ、だとか、音楽を聞くための機械だとか、自由に使っていいと言われたが、俺にはどちらも必要ない。
大きな音も、ぴかぴかした映像も、嫌いだ。

皿を洗い終わった蔵馬が、俺に贈り物をくれた。

たくさんの絵本だとか、金色の小さな鈴だとか、ガラス細工の地球儀だとか、綺麗な布でできたボールだとか。
おかしな物を次々とリボンのかかった箱から出し、蔵馬は俺にくれた。

遊ぶ?と聞かれたので、首を横に振った。

そっか。ネコの好きな物ってなんだろうって考えたんだけど、君はなんか普通のネコと違う気がして。
だから変な物いろいろ買っちゃった。

蔵馬は笑って、それらを箱に戻す。

…よく笑う男だ。
***
2日目

クッションソファの上で、目を覚ます。

「俺はベッドで寝るけど、君もくる?」

昨夜、蔵馬はそう聞いた。
選択できるなら、俺は一緒に寝たくない。だから、俺は首を振って、そのままクッションソファで寝た。
蔵馬はちょっと残念そうだったが、俺を無理にベッドに連れて行きはしなかった。

何も着替えを持ってこなかったので、蔵馬のシャツを借りて寝た。
大きすぎて、ぶかぶかして落ち着かない。

朝食はサンドイッチとオムレツで、でき上がるタイミングで起こされた。どちらも、味は良かった。
兄さんに味なんてわかるの?と雪菜なら笑うだろうが。
まだ二日目だが、ここは食事に関しては文句のない勤務先だと思う。

今日は服を買いに行こう、と蔵馬が言った。

買い物に付き合うくらい、構わない。
そう思っていたら、俺の服のことだった。

確かに俺の持ってきている服といえば、昨日着てきた、黒いタンクトップに黒いズボンだけで、着替えを持ってくるという当たり前の発想はなかった。靴も履いてきた黒い靴だけだ。本当は今日、寮に着替えを取りに行こうと思っていた。

…まあ、いい。
勤務中に貰える物は、なんでも貰っていいのだから。

様々な店の並ぶ、街の中心部は、ずいぶんと賑わっていた。人やらイヌやらネコやら、その他のいろんな生き物で。
蔵馬がつなごうとした手を、俺はさりげなく避ける。
だが、蔵馬はそれを気にした様子もない。

シャツと、ズボンと、パジャマと、靴下と…
その店は小さかったが、いい匂いがして、手触りのいい布でできた服が売られていて、なんとなく高級そうに見えた。
山ほどレジに積み上げられていく服を見て、俺は困惑する。

こんなにいらないと言ったのに、最終的に蔵馬が買った服は靴も含めて30点ほどで、家に届けてくれるように手配していた。
黒や白の、シンプルな色ばかりの中に、薄いオレンジ色の水玉模様の上下揃いのやわらかな服があった。

首を傾げる俺に、蔵馬は照れ臭そうに笑うと、君のパジャマ、と言った。
別に黒い服にこだわりがあるわけではないが、自分がこれを着るのはどうも想像がしにくかった。

帰り道、俺の方を振り返った蔵馬に、この辺詳しい?と聞かれた。
黙って首を振る俺に、この辺は人通りが多いし、道に迷いやすいから、と言う。

だから、手をつないで帰ってもいい?と聞かれた。

俺はしぶしぶ手を差し出したが、
つながれた手は、思ったほど嫌な感じではなかった。
***
7日目

居職、という意味がよくわからなかったが、つまり蔵馬は家で仕事をしている。
時々外に、打ち合わせとやらに出かけることもあるが、基本的には家にいる。
仕事の時は、仕事部屋でテレビに似た箱の前で何かをしている。

俺は、食べて、眠って、散歩に出る。
そうして、一日を過ごす。
こんなことでいいのだろうか?

散歩は、一人で行く時もあれば、蔵馬と一緒の時もある。
もっとも、蔵馬と一緒の時は、何かを見に行ったり、何かを買ったりするので、どうやら“お出かけ”というものらしい。

一度、外食というものにも行ったが、見知らぬ者に囲まれるのも、そこで食事をするのも、やっぱり苦手だった。
俺はそう口に出して言ったわけではないのに、蔵馬はそれっきり、毎日毎食、家で食事を作ってくれる。出かける時は、作っておいてくれる。

今日もたっぷりの夕食の後、好きにしてていいよ、という言葉通り、俺は白いクッションソファの上で丸くなっていた。
ほんの一眠りのつもりで目を閉じたのに、目を覚ましたのは夜中で、日付が変わる所だった。

自分の耳を撫でられるくすぐったさに驚いて目を覚ましたのだ。
思わずにゃ!と、声を上げて飛び起きる。

「ごめん、起きちゃった?」

照明を落とした薄暗い部屋で、くすくす笑いながら俺の耳や頭を撫でていたのは、蔵馬だ。
温かい手が、俺の頭や首筋や背中を撫でる。

…初めて、人に撫でられた。
それは雇い主の当然の権利だが、慣れない俺は体を強ばらせた。

「お風呂に入る?それとも今日は寝ちゃう?」

今、風呂に入ると言ったら、一緒に入ることを命令されるかもしれない。
それは嫌だった。誰とも一緒に風呂なんか入りたくない。
だから、眠い、と呟いた。

そう言うと、蔵馬は笑いながら俺を抱き上げた。
人に抱き上げられたのも初めてで、俺は思わず蔵馬にしがみついた。

「大丈夫。落っことしたりしないから」

飛影は軽いね。
軽々と抱き上げて、そんな風に言われると面白くない。
俺は子ネコでもないのに、体が小さいのだ。

ベッドルームには大きなベッドがあり、そこに俺は降ろされる。
今日からはここで寝ろということだろうか?
…人と眠るのは嫌いなのに。

蔵馬は当然のように一緒にベッドに入り、俺にふとんをかける。
ベッドはふかふかで、シーツはいい匂いがした。

…しょうがない、契約なのだから。
大きなベッドだったので、できるだけ端に寄って、丸くなる。

けれども俺はすぐ側にある他人の気配や、時折触れる足や腕が気になって、浅く微睡んだだけで朝を迎えた。
***
20日目

夜は水玉模様のパジャマを着て眠ることにも慣れた。
側に他人の気配があることは、どうしても慣れないが。

人の寝息や気配、そういったものが俺の安眠を妨げる。
とはいえ、日中はリビングのクッションソファに丸くなっていくらでも昼寝ができる。寝不足になることはない。

蔵馬は毎日、俺を撫でたり、話しかけたりする。
答えられる質問には答えるし、わからないことにはわからないと答える。
…撫でられるのにも慣れたのか、それほど嫌ではなくなってきた。

だが、眠っている時は嫌だ。
びっくりして、起きてしまうのだ。

俺は、人語がちゃんと話せるが、寝言や驚いた時の言葉はネコ語になる。
にゃあ、とか、みゅう、とか言う俺を、蔵馬はそれがかわいいと言って、眠っている俺をわざと撫でる。

かわいい、と蔵馬は俺にしょっちゅう言う。
俺には意味がよくわからないので、それには返事をしない。

かわいいしっぽ。
かわいい耳。
かわいい目。
かわいい声。

かわいいよ、飛影。

そう言っては、俺を撫でる。

…どれもこれも、なんだか気恥ずかしくて聞いていられない。
“かわいがられること”が仕事なのだから、喜ぶべきなのかもしれないが。
***
24日目

ケガをした。

一人で散歩に出て、野良ネコの集団に出くわしたのだ。
だいたい、弱いヤツほど徒党を組みたがるものだ。

相手は20匹ほどもいたが、雑魚もいいところで、俺は返り討ちにしてやった。
とはいえ、20対1では無傷というわけにはいかない。

右腕が、ざっくりと切れてしまった。
けれど、俺は久しぶりに暴れることができて気分がよかった。
機嫌よくしっぽを振りながら、ぽったんぽったん血を垂らしながら、帰る。
帰ってきた俺に、蔵馬は大騒ぎをして救急箱を持ってきた。

どうってことないと言っているのに。

消毒し、薬を塗り込み、大げさに包帯を巻かれる。
右腕は包帯でぐるぐる巻きだ。
だが、蔵馬の手当ては手慣れていて、上手だった。

乱闘騒ぎですっかり全身が汚れてしまった。
風呂に入ろうとした俺は、今日は俺が入れてあげると蔵馬に引き止められる。

その腕、まだ動かさない方がいいし、濡らしちゃダメだ。
お風呂、入れてあげるよ。

押し問答の末、結局俺は風呂に入れてもらった。
蔵馬は自分は服を着たままで、俺の服を脱がせ、文字通り風呂に入れてくれた。

ネコが裸になるのを恥ずかしがるなんて、変な話だとは自分でも思う。
とはいえ、耳としっぽ以外は人間と変わらない体なのだから、やっぱり抵抗がある。
人に体を洗ってもらうなんて初めてで、恥ずかしくて、いたたまれなくて、すっかりのぼせてしまった。

ふわふわに泡立てたスポンジで、耳や、しっぽの付け根、尻や性器を洗われるたびに、俺は、ミュ、と小さく声を漏らす。
…なんだか、その辺を触られたり擦られたりすると、おかしな気分になる。

体が、ふにゃふにゃする。
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