くろねこライフ...1いつもはくるんと上を向いている俺の長いしっぽは、やる気なく床にのびている。深々と溜め息をついて、契約書をもう一度確認した。 ・冷暖房完備 ・食事付き ・風呂あり ・寝床あり ・おもちゃ、オヤツあり ・プライベートタイムあり ・ケガ、病気等の際は、看病および投薬あり …ここまでは、いい。 申し分ない条件といってもいいくらいだ。 だが… ※就寝時は契約者に添い寝を希望された場合、できるだけ応じること ※風呂の同伴も時々は受けること …この二項目は、微妙だ。 そして… 注意:お触りありのお仕事です! …見落とすわけもないのに、わざわざ赤字で強調して書いてある。 触れられるのは、好きじゃない。 そう言っておいたはずなのに。 もっとも、そんなわがままが通じる勤務先がなかったから、俺はこうしてどこにも雇ってもらえずにいたのだが。 「…契約のお客様は、長期契約を希望されてます…」 俺は声に出して読み上げる。 …変なやつ。 気に入ったから長期に契約したい、というならわかるが、俺はまだその派遣先に一度も行ったことがないのに? 花束を抱えたその変な男は、俺を一目見ただけで満面の笑みを浮かべ、契約書にサインした。 条件だの、料金だの、よく読みもせずにサインしたのだ。 どうしても、この子をお願いしたいんです。 そいつはそう言った。おまけにその花束を俺にと置いていったらしい。 花束なんぞ、食える物でもあるまいに。ツナ缶かなんかの方がよっぽどマシだ。 ガラス越しにチラリと見えたその男は、長い髪をした綺麗な男だった。 喋らなければ女だと思ったかもしれない。 「…しょうがないな…」 溜め息ばかりついていてもしょうがない。いつまでも働かないでいるわけにもいかない。 俺は、派遣会社に所属している、派遣ネコなのだから。 薄っぺらいカバン、というか袋に、俺は契約書と日誌を入れる。 他にも持って行った方がいい物があるのかもしれないが、取り合えず思いつかない。 明日から、初めての勤務だ。 主な仕事内容は、“かわいがられる”こと。 ***
翌日、派遣会社から貰った地図を見ながら、俺は雇い主の家に向かった。男の一人暮らしのくせに、どうやら一軒家に住んでいるらしい。 久しぶりに街を歩いたせいか、道に迷って遅れてしまった。 それにしても、街中には俺のようなネコがずいぶんいる。 俺たちはあまり人と変わらない姿をしているが、ネコ耳としっぽがあるのですぐにわかる。 みな、俺と違っていきいきしている、ように見える。 ようやくたどり着いた家は真新しく、新築らしい木のいい匂いがした。 本当は10時の約束だったのに、バカみたいに道に迷い、昼近くになってしまった。 ああ、参った。 初日からこれでは、間違いなく客を怒らせただろう。 俺はのろのろとチャイムを押した。 ピンポン、という軽やかな音が鳴るやいなやドアが開き、あの男が玄関に出てきた。 長い髪、背は高く、綺麗な顔をした男だ。Tシャツにジーンズという、ラフな格好。 「いらっしゃい」 にっこり笑い、俺の分のスリッパを置いた。 どうやら、怒っている様子はない。 遅くなって、ごめんなさい。 派遣元のマニュアルには遅れた場合はちゃんとそう謝るよう…かわいく謝るようにと…あったけれど、俺には到底言えなくて、モゴモゴ口ごもり、スリッパを履いた。 案内されたリビングに俺はちょっと驚いた。 広々したリビングは快適に緩い冷房がきき、大きな白いクッションソファが置いてある。 掃除の行き届いたフローリングの床にはゴミ一つなく、大きな窓もピカピカに磨かれている。派遣会社の同僚たちはよく、男の一人暮らしの家は大抵汚いので行きたくない、とこぼしていたが例外もあるらしい。少なくともこの家はとても綺麗に片付いている。 「お腹空いたでしょ?どうぞ」 そう言われて連れていかれたキッチンには、木のテーブルがあり、二人分の食器がセットされている。 サラダやチーズ、焼いたフランスパン、オレンジジュース。 そいつは、大きなガラスの皿にたっぷりと冷たいパスタを盛って、俺の前に置いた。 「ごめんね、何が好きかわからなかったから適当に用意しちゃった。食べれる?」 俺は、無言で頷く。 派遣元では、仕事の契約を貰えずに寮に住んでいる派遣ネコには、毎食パンと牛乳と魚が一切れだけだった。もっとも俺は食べれれば何でも構わない方なので、特に文句もなかったが。でも、目の前の食事はずいぶんとご馳走に見えた。 「じゃあ、改めて。俺は蔵馬です」 向かい合った木の椅子に座り、ジュースのグラスをカチンと触れ合わせ、そいつ…蔵馬…はまた笑った。 「…俺は、飛影だ」 「飛影。よろしくね」 そう言うと蔵馬は俺の皿にパンやチーズを取り分け、パスタの皿を手渡す。 ネコ耳としっぽがある以外は人と同じ体の造りなので、フォークやスプーンも問題なく使える。あまり見たことのない食べ物を、俺は我ながらみっともなくがっついていたと思う。 「美味しい?」 サーモンとトマトの入った、冷たいパスタを黙々と平らげていた俺は、慌てて顔を上げた。 「…お前が作ったのか?」 しまった。 雇い主に“お前”はまずかった。 だが、蔵馬は気にしている様子もない。 俺の皿にパスタを追加し、ジュースも注いでくれる。 「うん。口に合ったなら良かった。好きな物とか食べれない物があったら教えてね」 「別に…何でもいい…」 かわいがられるのが、ネコの仕事。 派遣先のやつも、妹の雪菜もそう言うが、“かわいがられる”という感覚がイマイチ俺にはわからない。 他人も他ネコも苦手だし、喋るのも得意ではない。 本当は野良ネコでいたかったのだが、兄さんが野良になるなら私もなる、などと雪菜に言われてはそうもいかない。 甘えて、気ままに振る舞って、振り回してやればいいのよ。 うんとワガママを言って、困らせてやるの。 それが私たちの仕事なんだから。 雪菜は真っ白い耳をふるっと振って、笑って言った。 俺と違って雪菜は契約を切らしたことのない売れネコだ。 そういえば… 「お前のことは…なんて…呼べばいいんだ?」 「蔵馬って呼んで。俺も飛影って呼ぶね」 あ、ちゃん付けで呼んで欲しい? ちゃん付けだと? 真顔で聞かれた言葉に、ゾワッとしっぽの毛が逆立った。 「飛影でいい!!」 「わかった。飛影」 碧色の瞳が、俺を見て嬉しそうに細くなる。 深く染み入るような声で、自分の名を呼ばれるのは不思議な気分だった。 そんな風に、俺の初仕事は始まった。 |