くろねこライフ...10

96日目

カーテンも役に立たないくらい、天気がいい。
目をつぶっていても、顔に陽が当たるのがわかる。
自分が蔵馬の腕を枕にして眠っていたことは、伝わってくる体温で、嫌でもわかる。

「おはよう、飛影」

耳に、瞼に、頬にキスをされ、寝たふりを続けるわけにもいかず、俺は目を開けた。
蔵馬も俺も裸のままで、昨夜のことを夢だったことにはできないようだ。

頭を撫でられ、抱き寄せられた。

…恥ずかしい。
なんだかすごく、恥ずかしい。

昨夜あんなに声を上げ、泣きわめいた。
痛くて、苦しくて、なのに気持ちが良くて。

…狂ったように、鳴いて、泣いた。

尻の穴は腫れているのか、まだ何かが挟まっているような違和感があるし、擦られすぎた前もヒリヒリしている。
けれど、俺は奇妙なことに、蔵馬に対して腹を立ててはいなかった。
むしろ、奇妙に…

「飛影…」

…奇妙に、満たされている。
カーテンを通した朝の日差しはやわらかくて、蔵馬の顔はいつも以上に綺麗に見えた。

けれど、俺のふわふわした気持ちも、ここまでだった。

「朝ごはん、何食べる?」
「…にゃー」

なんでもいい、と答えたつもりだった。

「……けほっ」

…なんか、変だ。
何か…何かが…?

「サンドイッチしようか?美味しいチーズとトマトがあるし」
「っにゃ、ぅ、っにゃにゃにゃ…?けほっ」

喋ろうとすると、むせる。

変だ。
言葉、が…?

「…飛影?どうしたの?」
「にゃあ…にゃにゃっ?」

…人語が…

喋れない。
***
「うーん、別に異常はないですけどねえ」

精神的なものでしょう。
そのうち、何かのきっかけで良くなると思いますよ。

薄ぼんやりした感じのヤブ医者は、俺の体を簡単に調べ、血液検査の結果を見ながら言う。医者の手にある引っかき傷は、俺がさっき付けたものだ。このヤブ医者、人のケツに体温計を突っ込もうとしたのだ。
昨日の今日で、ケツの穴はまだ腫れてるってのに。
下着を脱がされる前に、力いっぱい引っかいてやった。

「何か、ビックリするようなことがあったとか、怖い目に遭ったとか、ないですか?」

ショックなことがあった時に、ネコ族やイヌ族が人語失語症になる症例は結構あるんですよねえ。
ヤブの言うことを真に受けて、実は…などと口を開きかけた蔵馬を、俺はしっぽで思いっ切りひっぱたく。

「いて!」
「うにゃにゃにゃにゃにゃっ!!」

ネコ語がわからなくとも、今回はさすがに言いたいことは伝わったらしい。
こんな所でいらん恥を晒している場合か!!

「ま、様子を見てくださいよ」

いかにもヤブ医者らしい、締めくくり。
蔵馬と俺は、早々に病院を後にした。
***
「お昼になっちゃったね。お腹空いたでしょ?」

朝っぱらから医者に連れていかれ、朝飯もまだだった。
もう一軒、別の医者に行こうと蔵馬は言ったが、俺は首をぶんぶん振って拒否をした。医者なんか、大嫌いだ。

「ちょっと待ってね。サンドイッチ作るから」

俺は、黙って頷く。

この家は、キッチンも陽当たりがいい。
パンやチーズの焼ける匂いを嗅ぎながら、窓際に丸くなる。

「飛影の好きな、ツナとトマトとチーズだよ」
「…にゃー」

なぜだろう?
蔵馬の言っていることは、ちゃんと理解できるのに。

俺は文字は読めるが、書けない。
だから文字で意思を伝えることもできない。

でも、ちょうどいい。

俺が返事を返せなければ、蔵馬もあまり話しかけてはこないだろう。
恥ずかしかった昨夜のことを、今は何も言われたくない。
このゴタゴタで、蔵馬は昨夜のことを、しばらく忘れてくれる…かもしれない。

できたよー、という声に、テーブルにつく。
うっとうしいくらいの蔵馬の視線を無視して、黙々と食べる。
というか、顔は見たくない。
ベッドの中で見た、蔵馬の表情、裸の体。
そんなものを思い出していたら食事もおちおちできない。

「飛影…」
「にゃあ?」

なんだ?
しょうがなく、俺は顔を上げる。

そんな風にじっと見つめられると、昨夜のことを思い出していたたまれない。
コーヒーのカップを持つ、蔵馬の指。

昨夜、俺の……に、入ってきて、中をぐるぐると掻き回した、指。
奥、を…弄られて、突かれて…。

口の中の、チーズやツナが、急に飲み込めなくなった。

やめろやめろ。
頭と耳をぶるぶると振って、記憶を飛ばす。

「…ごめんね、飛影」

何を謝っているのだろう?

「俺が、あんなことをしたから…」

あんなこと、という言葉に、顔から火が出そうになる。
頼むから、思い出させないでくれ。
夜だって恥ずかしかったが、真っ昼間の今、恥ずかしくて死にそうだ。

「…うにゃにゃ!」

別にお前のせいだなんて言ってないぞ。

くそ。
喋れないのがもどかしい。

ふいに、テーブルの向こうから身を乗り出した蔵馬が、俺の頭を抱いた。

「にゃ?」
「…本当に、ごめんね」

蔵馬の悲しげな声に、俺の方がなんだか困ってしまう。
俺は元々そう喋る方ではないのに、蔵馬の沈黙で食卓は気詰まりなものになった。
***
100日目

「にゃあっ?」

電話ごしに妹のすっとんきょうな高い声が響く。

ー喋れなくなった!? 人語を?
ーああ。まあお前と喋るには困らないが…
ーなんで!? 頭を打ったとか…!

ケツの穴に蔵馬のアレを挿れたなんて口が裂けても言えない。
ものすごく痛くて苦しくて、吐きそうで、散々泣いたなんて。
しかも…それなのに気持ちが良かった、なんて。

人間とは耳の位置が違う俺たちは、人間用の電話は使えない。この部屋には、ちゃんとネコ用の電話がある。耳と口とが別々の、古風な形の電話だ。
雪菜が電話をかけてきたことを知らせた後、蔵馬は別の部屋に行ってしまった。
俺が電話を使う時…俺が電話をする相手は雪菜しかいないのだが…蔵馬は必ずそうする。
どっちみち、蔵馬にはネコ語はわからないのだから気にする必要もないと思うが、ネコにもプライバシーがあるというのがやつの言い分だ。

ー兄さん!聞いてるの!?

そうだった。
電話中なんだった。

ー聞いてる。
ーもうっ!本当に心配させるんだから!どうするの!?
ーどうって…

そう言われても。

ーそのうち元に戻るだろ
ーのんきなんだから

女社長の海外出張に一緒について行った雪菜の声は、海を越えている分、遠く感じた。

ーああもう!外国じゃなけりゃ今すぐ行くのに!
ー大げさだ。別に死ぬわけじゃなし
ー……本当に、大丈夫?ねえ、蔵馬さんは、ちゃんとした人よね?

ちゃんとした人?
思いがけない言葉に面食らう。

ーどういう意味だ?
ー兄さんを、虐待したりしたんじゃないよね?

虐待、と言えなくもないが、俺がやっていいと言ったのだ。
それに…痛いけど……気持ち…良かったし…

……また誘われたら、考えてやっても…いい、かも…。

ー心配だよ、兄さん…

アワアワと、我に返る。
妹と電話してるってのに、何考えているんだ俺は!

ーし、心配するな。大丈夫だ
ー蔵馬さん、兄さんのこと、捨てたりしない?

捨てる?
俺を?

ー…捨てられても、俺は大丈夫だぞ?
ーバカ言わないでよ。海とか、山奥とかに捨てられたらどうするのよ?

人語が喋れないネコ族なんて、飼う意味ないじゃない。
兄さん、喋れなくなったせいで、意地悪されたりしてないよね?大丈夫だよね?
多分、人語が喋れなくなったら、契約無効の対象になっちゃうと思うんだ。
でも心配しないで!うちの飼い主に頼んで兄さんも飼ってもらうから!

不安そうな、雪菜の声。
そんなこと、考えてもみなかった。

ー心配するな。蔵馬は…そんなことはしない

と、思うが。

ー…そうだよね。そんな人じゃないよね
ーああ。心配するな

帰ってきたら会おうと約束し、電話を切った。
俺はそのまま床にぱたりと寝転び、天井を見上げる。

人語が喋れないネコ族なんて、飼う意味はない。

確かにそうだ。
人語を話せないネコなど、雇ってもしょうがない。
喋らなくてもいいのなら、ネコ族ではなく、純血の猫を飼えばいいのだから。

…長期になると思っていた雇いネコ生活も、案外早く終わることになりそうだ。

俺は寝転がったまま、目を閉じた。
前のページへ次のページへ