くろねこライフ...11

105日目

山奥、と言っていたが、本当に山奥だった。
車一台がやっと通れるような細い道をどれくらい走っただろう?

「明日からさ、旅行に行こうよ」

十日前の夜以来、蔵馬は俺と一緒に風呂に入ったり、一緒に寝たりしなくなった。
別の部屋で寝るから、飛影はベッドを使っていいよという蔵馬に、俺が訝しげな視線を送ると、一緒に寝るのはまずいから、とやつは苦笑しながら言った。

まずいって、なぜなのだろう。
問いたくても、ニャアニャア言ってもまるっきり通じない。もどかしい。

「車、借りたから。二三日、のんびり旅行しよう」

ここのところ、やけに仕事に精を出していると思ったら、旅行に行くためだったらしい。

家を出て、もう半日は車で走っている。
途中で蔵馬の作ってきた弁当を食べ、俺は後ろの席で二時間ほど昼寝をしたが、蔵馬はずーっと運転しっ放しだ。俺はもちろん運転などできない。

山道はどんどん細くなり、崖のようになる。
崖の下は綺麗な川で、魚がいっぱいいそうだった。

…海とか、山奥とかに捨てられたらどうするのよ?…

ふと、捨てネコ、などという言葉が頭を過る。
ここで置いて行かれても、元の街に戻れる自信はある。
とはいえ蔵馬が俺を捨てる気なら、のこのこあの家に戻る気にはならない。
別に野良でも生きていける。

街よりも季節の早い山の中は、すっかり冬で、車の窓ガラスは白く曇る。
綺麗な夕暮れもあっという間に消えてしまい、辺りは闇に包まれた。
車のライトが照らす数メートル先以外は、本当に真っ暗だ。
分厚い雲に覆われて、月明かりもない。いくらネコでも、真っ暗闇では何も見えない。

………捨てネコ?

「もうすぐ着くよ。ごめんね、疲れたでしょ?」

その言葉とともに、視界の先に、建物の明かりが見えた。
丸太で組まれた、小さな家。

車を停めている蔵馬より一足先に降りた俺は、その家を眺める。

なんだろう?
明かりが点いてはいるが、人の気配のない家だ。
凹凸のないその家は小さくて、小屋のようにも見える。

「さーて、お疲れさま」

蔵馬はポケットから出した鍵で、その小屋の扉を開けた。
***
貸し別荘、と蔵馬は言った。
首を傾げる俺に、決まった期間借りれる、家のような、宿のようなものだと説明する。

中は台所の付いた、小さな居間と、その奥のベッドの二つあるこれまた小さな部屋、それにトイレや風呂だけで、小屋全体がヒーターで心地よく暖められていた。
それに、扉を開けた途端、魚料理のいい匂いがする。

「管理人さんにね、頼んでおいたんだ」

部屋を暖めて、晩ご飯の用意もね。
川があったでしょう?
美味しい魚がいっぱい採れるんだよ、あの川。

このところ蔵馬は俺が喋れないのに遠慮してか、あまり俺に話しかけなくなっていたのに、今夜は饒舌だ。
小屋の電話で、管理人とおぼしき相手に電話をし、到着したことと、準備への礼を言っていた。

取り合えず、捨てネコの線は消えた。
たらふく食わせてやってから捨てようと思っているわけでもないだろうし。

温め直した料理を、蔵馬が次々と、並べてくれる。
新鮮そうな魚の匂いに、俺はしっぽを振りつつ席に着く。
俺たちは、向かい合った席で、食事を始めた。

「寒い時期の方がさ、魚は美味しくなるよね」

明日は山を散歩して、魚釣りをしよう。
茸もまだ採れるみたいだし。

穏やかに話す、蔵馬。
美味い魚を咀嚼しながら、俺はさっき見たベッドのある部屋を思い浮かべる。

ベッドは、二つあった。
というか、この小屋には他に寝れそうな部屋もない。
今座っている椅子も、居間の椅子も木でできていて、ベッドするには硬そうだ。

俺が喋れなくなって以来、寝る時はずっと別々の部屋だった。
久しぶりに、一緒に、寝るのだろうか?

別に、さびしいとかそんなんではない。
ただ、この季節、一人で寝るのは寒いだけだ。

それだけだ。
***
食べすぎた。

すっかり満腹になり、ヒーターの前で丸くなる。
一日中車に揺られていたのと満腹なのとで、俺はすっかり眠くなってしまった。

この小屋にはクッションやソファのようなやわらかい場所はないので、俺は仕方なく床に丸くなった。
ゴツゴツして寝心地は悪いが、眠すぎてどうでもいい。

「硬いでしょ?そんな所」
「うにゃにゃ」

放っとけ、と言ったつもりだった。
なのに、近付いてきた蔵馬は、久しぶりに俺を抱き上げた。

「にゃにゃっ?」

向かい合うように抱き上げられ、蔵馬はそのまま、仰向けに寝そべった。
蔵馬の体を敷布団にするように、俺は蔵馬の上にうつ伏せになっている。

「にゃあ?」

俺はあったかいが、蔵馬だって床は硬いだろうに。
それよりも、俺は久しぶりに感じる蔵馬の体温や吐息に、なぜだかどきどきしていた。

自分の右胸に、蔵馬の鼓動を感じる。
…ということは、蔵馬も俺の鼓動を感じているはずだ。

「…にゃ?」

蔵馬の鼓動は、なぜか俺のよりもずっと速かった。

「飛影…」
「?」

背中に回されていた蔵馬の腕が、ぎゅっときつくなる。

「…派遣ネコを、辞めないか?」
***
辞める?
なんでだ?

…喋れないから?
確かにそうだ。契約無効の理由としては、十分だ。

ちょっと、がっかりした。
やっぱり俺を、喋れないネコを飼い続ける気はないということか。

「…派遣ネコを辞めてさ…」
「……うにゃ?」
「俺の所に…永久就職してくれる?」
「にゃあ?」

就職?永久?

「つまり…派遣じゃなく、俺のネコになってくれる?」

俺のネコ?
…どういう意味だ?

俺を…つまり、借りるのではなく……自分のネコにしたいということか?

「みゃあ?」
「その…喋れなくなったのも、俺のせいだし…」

俺のせい?
もしかして…こいつは喋れなくなった責任を取るとか言い出す気だろうか?

カッとなった。

冗談じゃない。
そんな同情をされる謂れはない!

「うにゃにゃにゃっ!!」
「喋れなくても平気だよ。俺がネコ語を覚えるから」

違うっ!
誰がそんなことを言った!?
俺の怒声を蔵馬は別の意味に取ったらしい。

「ニャアッ!ニャニャッ」

くそ!
相手に言葉が通じないというのは、本当にいまいましい!
俺はフーッとうなって蔵馬の上から降りた。

他人に哀れまれるほど腹の立つことはない。
俺は隣の部屋のドアを乱暴に開け、中にあった椅子をドアが開かないように蹴倒して置いた。
そのままベッドに飛び込み、頭まですっぽり毛布にくるまった。
***
106日目

雪菜は、旅行が好きだと言っていた。
知らない場所に行き、知らない土地を味わうのも悪くない、と。
甘やかして、可愛がってくれている飼い主と行く旅行は、とても楽しいと。

最悪。

ふらふらと野良ネコだった頃を除いて、俺にとってこれは初めての旅行というやつだが、まあ最悪という一言に尽きる。
蔵馬を閉め出して、叩かれるドアも、蔵馬の呼びかけも無視して、そのまま一晩を過ごした。

眠れぬ夜が明けてみれば、窓の外はどしゃぶりの雨で、雷まで鳴っている。
窓は昨日見た川を見下ろす崖っぷちに面していて、さすがの俺もここから飛び降りるわけにはいかない。

しぶしぶドアから出ると、蔵馬は何事もなかったかのように、朝食を作っていた。ベッドのある部屋に俺が閉じ籠もっていたのだから、蔵馬は寝る場所もなかっただろうに。

「おはよう、飛影」

あいにくの天気だけどね。
蔵馬は苦笑して、オムレツを二つの皿に分けて盛った。

飯なんか、いらん。
もう、ここにもいたくない。

昨夜ベッドのある部屋を見て、久しぶりに蔵馬は俺と一緒の部屋で寝るのかと、ちょっと期待したことさえ今はどうでもいい。
やっぱり、俺には雇われ生活なんて合わないのかもしれない。

「飛影、昨日の話だけど…」

改まった口調。
オムレツの皿を押しのけた俺に、蔵馬がじっと視線を注ぐ。

「派遣ネコを、辞めませんか?」

俺は黙ったまま、蔵馬を睨む。

「派遣じゃなく…俺の、ネコになってくれませんか?」

俺は黙って首を横に振る。

「どうしても、だめ?」

俺は黙って、頷く。

「…本当に、どうしても、だめかな?」

蔵馬を睨んだまま、頷く。
別に、派遣ネコでいる必要があるわけではない。蔵馬のネコになったって構わないのだが…

……同情だの、責任感だの、そんなご高尚な哀れみなどいらない。
そんな風に扱われる筋合いはない。

「…あのさ、俺のこと…」

好き?
それとも…嫌い?

蔵馬は、小さな声でそう聞いた。
その問いは予想外で、俺は面食らう。

好きか、嫌いか、だと?

こいつと一緒に暮らすのが嫌なわけじゃない。
あの家も、そして蔵馬のことも……俺は…別に…

…何を考えているのだろうか、俺は。
こいつのことを好きになったとでも?
あんなことをしたのは、ただの性欲処理だ。俺にとっても、こいつにとっても。

「もう、俺と一緒には、いたくない?」

好きとか、嫌いとか…そんなことはわからん。知らん。
でも…このままこいつと一緒に暮らしたいなら…一緒にいたいと、そう返事をしたらいいのだ。
喋れなくとも、そのくらいは伝えられる。
意地を張る必要など、ないはずだ。

だが、喋れないネコに責任を感じて、飼ってやろうなど…
…そんなことは、受け入れられない。到底我慢できない。

自分のプライドを守りたいがために、自分の大切な物を谷底に落とすのは、
馬鹿者だけだ。

野良ネコだったころに誰かから聞いた言葉を、なぜ今急に思い出したのだろう?

「……もう…俺と一緒には……暮らせない?」

俺をじっと見つめる蔵馬の瞳。
その深い碧に吸い込まれそうで、思わず目をそらし、俺はまたもや頷いた。

「…そっか。どうしても、だめなんだね。……じゃあ、これ」

蔵馬の差し出した、灰色の封筒。
その暗い色味の封筒には、見覚えのある、派遣会社の封蝋があった。

手に取って、乱暴に封を開ける。
不吉な色味。そっけない封筒。

中身は見なくても、分かっていた。
中の紙もまた、灰色の紙で、印刷された文字が並んでいる。

…見なくても、分かっている。
一行目の大きな文字は…

“契約解除書”

そう記されていた。
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