booby trap...2

飛影が次に目を覚ましたのは、見覚えのない、小綺麗な部屋だった。わかるのは、ここが霊界でも魔界でもないということだけ。

人間界か…?
いや、どうやら、魔界と人間界の狭間、亜空間のような場所らしい。
蔵馬の物なのか、サイズの合わない、寝巻きのような服を着せられている。
両足それぞれの足首には、装飾品のようにも見える、細い細い銀の輪。銀の糸と言ってもいいほど細いのに、足首にぴったり巻き付き、引っ張ってもびくともしない。

「……」

部屋のそこここに置かれたランプの、仄かな灯。
やわらかなベッドに起き上がり、部屋の片隅の妖気に向かって、飛影は憎しみのこもった視線を送る。

「どこだ、ここは…?」
「オレの隠れ家の一つさ」

それだけ言って、蔵馬は部屋を出て行く。

魔界中に名を轟かせた盗賊、妖狐蔵馬の隠れ家。
さすがに飛影も興味を覚え、辺りを見渡す。

豪奢で、贅沢な調度。
あちらこちらに盗品とおぼしき武具や宝石、金細工や得体のしれない物品が無造作に並べられている。

戻ってきた蔵馬の手には盆があり、食事が乗せられていた。
ベッドのそばの、素晴らしい彫刻の施された小さなテーブルに置かれたそれは、焼いた肉とスープ、パンのような物、それに何種類かの果物、冷たい水だ。

「いらん」

盆を落とそうとした手が、つかまれる。

「…オレに触るな。貴様の作った物など、誰が食うか」
「くだらない駄々をこねるな、飛影」

時間がない。
君がここで休めるのは今晩だけだ。
食べて、眠って、さっさと妖気を回復させろ。

「そんなこともわからないのか?頭が悪い子供は始末におえないな」

カッとしかけた飛影の目に、窓辺のランプが映る。
幾種類もの美しい宝石で細工したランプが、炎に照らされ、ゆらゆらと光を放つ。

一際美しく輝く石は、氷泪石だ。

……雪菜。

そうだ。
ここにいることも、霊界の犬に成り下がるのも、全ては妹のためだ。
この裏切り者と、諍いなどしてはいられない。

怒りに震える手で、スプーンをつかみ、スープを口に入れる。
どのみち、飛影はひどく空腹だった。

温かい液体が、胃に滑り落ちる。
牢では、水さえ与えられなかった。霊界に捕まって以来初めての食事は、目まいがするほど美味だった。

貪るように夢中で食べ始めた飛影を、蔵馬は目を細めて見つめていた。
***
スプーンを持っていたのは最初だけで、あっという間に床に投げ捨て、手づかみで食べ出した。
パンや肉を千切り、口に押し込む。

小さな口が果物にかぶりつく。

スープ皿を両手で持ち、直に飲んだスープが零れ、細い顎と白い首を伝い落ちる。
咀嚼する度に白い喉が小さく動き、忙しなく動く小さな口は、またすぐに次の食べ物を飲み込む。

まるで…餓えた子供だ。

その“餓えた子供”を、どうやって手に入れようかと蔵馬は思案していた。

冷たい水の入ったグラスは、石を薄く薄く削り出し、それを銀細工で飾った、盗賊の頃に手に入れた豪奢な物だ。
飛影はまるで無頓着に、空になったグラスを床に落とす。華奢な銀細工は砕け、床に銀の粉を撒いた。

ふと、蔵馬は眉をしかめる。

本当に、オレはこのガキが欲しいのか?
こんな躾のなっていない、小さくて、生意気なガキが?

妖狐蔵馬ともあろう者が、こんなガキが欲しいなんて、どうかしている。

けれども、欲しい。
このガキが、この小さな妖怪が、欲しいのだ。

出会ったあの日から、なぜかずっと気になっていた。
もちろん霊界の秘宝を盗み、母親を助ける。それが最優先だったし、命を捨てるつもりでいた。

だが、助かった今、蔵馬はこの命を有効に使うつもりだった。
欲しいものを手に入れるのに遠慮する必要はない。
みすみす霊界に渡すなど、とんでもない。
それを阻止しただけでも、計画の一つは成功したと言えるだろう。

飛影は蔵馬の視線にも気付かず、食事を貪っている。

餓えた子供。

…餓えているのは食べ物にだけじゃない。
ずっとずっと、この小さな妖怪は餓えてきた。
ありとあらゆるものに、餓えてきたのだろう。
それを満たすのは、食べ物だけじゃない。

この妖怪に、愛情、のようなものをひとしずく与えてやったら、どうなるだろう?
誰かの腕に、抱きしめられた時初めて、この小さな妖怪は自分が餓えていたことに気付くのだろうか。

ならば…

……落とし甲斐があるというものだ。

臈長けた狐は、ニッと笑った。
***
夜更けの森を、走る。
飛ぶような早さで走っていた飛影だったが、焼けるように痛む両足のせいで、徐々にスピードは落ちてくる。
足下の草が急にしゅるりと伸び、足に引っ掛かり、草むらに盛大に倒れ込む。

「くそ…っ」

足首を押さえて起き上がりかけていた飛影の前に、憎き男が立ちはだかる。
弧を描く長い足に蹴り倒され、飛影は再び草むらに倒れ込む。

「飛影、君は本当に馬鹿なのか?」

冷笑。
赤い瞳は睨み返すが、自分が浅はかであることにはさすがに気付いたらしく、唇を噛んだ。

「霊界が、オレをお目付け係にしたくらいで、君を自由にしておくとでも思ったか?」

飛影の足首に嵌められた、銀の輪。

「逃亡防止の呪さ。オレから離れるな。両足を失ってもいいなら別だがな」
「……なぜ貴様と一緒にいなけりゃな…」
「まさかコエンマが君を信用しているとでも?」

銀の輪は、足首にぎりぎりと食い込み、皮膚を破り、肉を裂いた。
飛影の裸足の両足は、指先まで真っ赤に染まっている。

「これを…外せ…!」
「馬鹿を言うな。それがコエンマの条件の一部でもある」

さっさと戻って寝ろ。明日は早いんだ。
そう言い捨てて隠れ家に戻ろうとした蔵馬は、しぶしぶ立ち上った飛影がよろめいたことに気付き、溜め息をついた。

「ほら」

背を向けてしゃがみこんだ蔵馬が、何を意図しているのかわからず、飛影はぽかんとしている。

「おぶってやるよ。さっさとつかまれ」
「な……ふざけ…っ」

もう一度溜め息をついた蔵馬は、放せ降ろせと罵る声を聞き流し、小さな体をひょいと抱き上げた。
***
いまいましい。
この、人間かぶれの、くそったれの、霊界の犬が!

結局連れ戻され、輪の食い込んだ足を手当てされ、子供のようにベッドに押し込まれてもまだ、飛影は腹を立て、毒づいていた。
どういう呪なのかはわからないが、銀の輪は飛影が外そうとしてもびくともしなかったのに、蔵馬が触れると、少しだが、ゆるんだ。

冷たい水で傷口が洗われる。
蔵馬の長い指は、丁寧に丁寧に、飛影の足を水でそっと洗い流す。

「………」

できるだけ痛みを与えないよう、繊細な手つきで、止血をし、薬を塗り込み、綺麗に包帯で巻く。

なんなんだ、こいつは。
先ほどの、虫ケラを見るような目で人を見下ろし、足蹴にした者とは別人のように優しい手に、飛影は腹を立てると同時に、困惑していた。

「よし。いいよ」

蔵馬の手が離れた途端、銀の輪は元の位置にするりと納まった。

「痛くないか?飛影」

黙ったまま、燃えるような瞳で睨み返す飛影に、蔵馬はニヤッと笑う。

「そんな目ができるなら上等だね。さっさと寝ろ」

そんなこんなで、またもや抱き上げられ、飛影はベッドに押し込まれたのだった。
***
迷宮城までは、後わずかだ。

スピードを上げて駆けても、足はほとんど痛まない。
蔵馬の手当ては的確だったらしい。

ふと、視線を感じ、飛影は振り返る。

同じように後ろを駆ける蔵馬の視線は、真っ直ぐ前に向けられている。
飛影のことなど、見てはいない。

なのに、ずっと、視線を感じるのだ。
しかし、一緒にいるのは蔵馬だけで、蔵馬は飛影のことなど見てもいない。

「……?」

気の、せいか?
舌打ちをし、飛影は視線を前に戻す。

けれど。

「貴様…何を見て…」
「…何言ってるんだ?誰も見てないよ」
「貴様が、オレを…」
「自意識過剰じゃないの?」

蔵馬は冷ややかに言い捨て、スピードを上げた。
***
焼け付くような視線を送り、蔵馬は微笑んだ。

飛影が振り向く寸前には、蔵馬の視線は遠くを見ている。
視線を感じたはずなのに、飛影がチラッと辺りを見渡して、何も、誰もいない。それを確認して忌々しそうな顔をする。

その、繰り返し。

「……おい」
「何?無駄口叩いている暇はないよ。走って」

赤い瞳でぎろりと蔵馬を睨み、飛影は風のようなスピードで走り出した。

城は、すぐそこだ。
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