booby trap...1「もちろん。条件を飲みますよ」封印の施された手錠が嵌まったままだというのに、その姿は優美と言ってもいい。 乱れてはいるが艶やかな長い髪が、少年のような少女のような、驚くほど綺麗な顔を引き立てていた。 人間の皮をかぶった、儚げで美しい、その姿。 コエンマは大きな溜め息をつき、罪を犯した妖怪を見つめた。 「…嘘ではないな?」 「嘘?」 なんのために?と首を傾げる姿もまた優美だ。 「貴方の寛大さに感謝こそすれど、嘘なんて。滅相もない」 コエンマは眉をしかめる。 この可愛らしい姿に騙されてはいかん、と。 こいつは、この半妖は、あの妖狐蔵馬の成れの果てなのだ。 狐は天性の嘘つきだ。妖怪もまた、大抵は嘘つきだ。その二つを兼ね備えているのだから、油断などできはしない。 美しい物の怪に騙されるなど、霊界の長としてあってはならぬことだ。 「ワシを出し抜こうなどと、思わない方が身のためだぞ」 霊界の宝を盗み出した罪と引き換えに、まだまだ未熟な霊界探偵…幽助…をいろいろな面で、助けてもらう。 それが恩赦と引き換えに、コエンマの出した条件だ。 霊界探偵を助けてくれたとはいえ、あの妖狐蔵馬に恩赦を出すなど許されない、と息巻く霊界の者たちを言いくるめ、なんとか説得したのだ。危険な賭けであっても、この頭脳、この知識、妖怪としての、永い永い経験…を捨てることはあまりに惜しい、コエンマはそう思った。 「…卑怯な真似はしたくはないが、お前の母親は霊界の監視下にある、忘れるな」 その脅しにも、蔵馬は微笑み、わかっています、と、頷いた。 「ところで」 飛影は、どうなさるんです? さほど興味もなさそうな声音で、蔵馬は問う。 「他人の心配か?人間らしくなったものだな、妖狐蔵馬」 「ちょっとした罪悪感ですよ。自分だけ助かるのでは、ね」 蔵馬のその言葉を信じたわけではないが、コエンマはもう一人の罪人の処遇を教えてくれた。 「…霊界の牢に永遠につなぐか、処刑するか、まだ結論は出ていない」 やつは、人間を傷つけた。恩赦を与えるわけにはいかん。与える理由もない。 コエンマはきっぱりと言う。 「…彼が、オレと同じように、幽助を助けると約束しても?」 「馬鹿を言うな。やつがそんなことに同意するわけがない。同意したとしても、信用できると思うか?」 蔵馬は何事か考えるかのように切れ長の目を伏せ、次の瞬間花のように笑み、碧の瞳を輝かせた。 「オレが、飛影を説得しましょうか?」 「…必要ない。幽助にはお前がいれば充分だ」 「でも、貴方は迷っている」 飛影はまだ子供だ。魔界の基準で言えば赤ん坊と言ってもいいくらいに。 そして自分のためではなく、誰かのために剣を盗み、人間を傷つけた。それを貴方は知っている。 コエンマの眉間の皺は、さらに深くなる。 それは、蔵馬の言葉をその通りだと証明していることにほかならない。 迷っていた。だからこそ、生かしたまま牢に繋いでおいたのだ。 「彼をオレに預けてはもらえませんか、コエンマ様」 「お前に?…何を企んでいる?」 「何も。オレも人間界に染まったんですかね、あんな子供を死なすのは忍びないんですよ。それに、オレが邪魔しなければ彼は目的を達成していたはずです」 「それで?」 「第一、剣や体術の腕は飛影の方が今のオレより優れている。きっと幽助の役に立ちます」 「じゃが…やつをどうやって従わせる?」 しかめっ面のコエンマとは対照的に、蔵馬の笑みは崩れない。 「それは…まかせてください」 必ず、従わせてみせますよ。 オレもだてに永くは生きてません。妖狐蔵馬の手練手管も、忘れたわけじゃない。 「やつは、お前を裏切り者だと思っているのではないか?」 「それこそが飛影が子供である証でしょうね。魔界では、裏切るも裏切らないもない」 コエンマはまだ、迷っていた。 右手に持った筆でイライラと机を叩く。 「貴方にとっては、飛影という持ち駒が増えるだけだ。悪い話じゃないでしょう?」 「ワシは、お前も完全に信用しているわけではないぞ」 「ええ。でも、オレの母親の命は、貴方の手の中にある」 つまり、オレが貴方を裏切る心配はゼロですよ。 どうです?飛影をオレに預けてくれませんか? 「……そこまで言うなら、よかろう。お前に任せてみよう」 永く永く生きてきた物の怪の言葉に、この年若い霊界の長は騙されたのだ。 ***
門番の鬼たちが開けた、石造りの、まがまがしい門。強大な結界に包まれた牢獄に足を踏み入れることをさすがに躊躇し、蔵馬は深呼吸をした。 「……っ!」 一歩足を踏み入れた瞬間、全身の妖気が一気に奪われる。 体中から、酸素も、血液も、体温も、生きるための全てのエネルギーが奪われたかのようなその苦しさに、蔵馬は小さくうめく。 「…これは…きついな」 半分人間でなかったら床に崩れ落ちていただろう。純粋な妖怪ではないからこそ、どうにか気を失わずにいられる。 この牢獄は妖怪を収監するための塔だ。 この中では、妖力の全てが建物に吸い取られてしまう。下等妖怪なら、入った時点で即死だ。 立ち止まったまま、乱れる呼吸をなんとか整えると、蔵馬はゆっくり歩きだした。 碧の瞳は薄く金色を帯び、コエンマの執務室で見せていたとは先ほどまでとは打って変わった、酷薄な笑みが浮かんでいる。 獲物を狩る金色の目をして、狐は歩いて行く。 ***
鎖が必要なのだろうか、と蔵馬は苦笑する。囚人である以上当然のことだが、身ぐるみ剥がされ、床に転がらされたその小さな体。 手錠に、足輪。さらにそれぞれが鎖で壁に繋がれている。かろうじて股間を隠すように腰にだけ布が巻かれているのは、ここの看守の鬼たちの中に、少なくとも一人は心優しき鬼がいるということだろう。 「飛影」 返事はない。 人間で言えば、血液を抜き取られた上で、氷点下の気温で酸素もろくにない場所に転がされているのと同じなのだから、当然だ。 小さな鍵を、蔵馬は取り出す。 コエンマから渡された、この牢の鍵だ。 鍵を開ける音にも、他者が近づく気配にも、飛影は目を覚まさない。 「飛影、起きろ」 床にうつ伏せた体を、無理やり引っ張り起こす。 白い肌、小柄な肢体。短い黒髪。 美しい紅い瞳も、額に埋め込まれた邪眼も、きっちり閉ざされている。 「…飛影」 妖気を奪われ、呼吸もままならず、飛影は小さく震えていた。 蒼白の頬を軽く叩いてみたが、反応はない。 ポケットから取り出した小さな瓶の蓋を開け、一息にそれを飲むと、蔵馬は飛影に口づけた。 薄い唇は流し込まれた液体を素直に受け入れ、体内に取り込んでいく。 ***
「……ん…」薬が回復させたわずかな妖気で、飛影が目を覚ましたのは、五分ほど経ってからだった。 「……?」 石造りの天井を見上げ、憶えのある気配に気付いた途端、飛影はガバッと半身を起こした。 「蔵馬…?……貴様…っ!」 「やあ、飛影。具合はどう?」 赤い瞳は、怒りに燃え上がる。 「…失せろ!このゲス野郎…!」 「お褒めにあずかりまして。君の格好もひどいもんだけどね」 蔵馬の視線は、飛影の剥き出しの体に注がれる。 白い頬もまた、怒りに燃えて赤く染まったが、裸で手足を鎖で繋がれている今、できることは何もない。 「何の用だ…貴様の面など見たくもない」 「君に提案があってね」 「黙れ!裏切り者が!!」 「…裏切り者?」 蔵馬は片頬で笑う。 「裏切り者?じゃあ君はオレを信じていたのか?」 「…なんだと…?」 「まさか、信じていたわけじゃないだろう?オレは君の恋人でも、友人でも、仲間でもない」 「……」 「もっとも、魔界にはそんな概念すらないけどね。君は人間みたいなことを言うんだな」 「…貴様!……っ!」 蔵馬のしなやかな手が、飛影の白い頬を打つ。 唇の端に血を滲ませ、飛影は爛々と燃える目で、蔵馬を睨んだ。 「無駄話をしている暇は無い。少し黙れ、飛影。話を聞け」 コエンマが、条件付きでオレたちに恩赦を与えるそうだ。 オレたちは、あの霊界探偵の、幽助の手助けをする。 まずは手始めに、人間界に手出しをしてきた四聖獣を片付ける。 君は、オレと一緒に行動してもらう。 飛影はニヤリと笑い、血をペッと吐き出した。 「霊界?手助け?…貴様、寝ぼけているのか?」 「寝ぼけてなんかいないさ。それが恩赦の条件だ」 「勝手に一人で霊界の犬に成り下がれ。このクズが」 牢の壁によりかかり、蔵馬は飛影を冷たく見下ろす。 「そうしたいのはやまやまだけどね。君も一緒にというのが、コエンマの条件だ」 狐はしゃあしゃあと、嘘をつく。 「…ざまあないな。なら貴様の恩赦も取り消しだ。オレは霊界に協力などする気はな…っ」 冷たい床に片膝をつき、蔵馬は飛影の顎をつかみ、無理やり顔を上向かせた。 手を振り払おうにも、飛影には辛うじて目を覚ましている程度の妖気しかない。 「ユキナ、はどうするつもりだ?」 「…!!」 飛影の目に、動揺が見える。 「貴様に何の関係…」 「あるさ。オレはこんな所に長居はしたくないんでね」 ユキナを探してるんじゃなかったか? ここで永遠に牢に繋がれていたいのか?それともさっさと処刑してくれとコエンマに懇願するか? 例え霊界の犬になってでも、ここを出なきゃならない理由が、あるんじゃないのか? きつく唇を噛み、飛影は目を反らす。 「それに…今君が断るなら、オレがユキナを探し出すよ」 「なんだと…そんなことが」 「できるさ。例え牢に閉じこめられていてもね」 妖狐蔵馬をなめてもらっちゃ困る。君と違ってオレには使える手下もまだいるんでね。 霊界の牢の中からだって、見つけ出せるさ。 「ユキナを見つけたら…殺すよ」 ハッ、と赤い瞳が瞬く。 「貴様…?なんのために…っ!?」 「君が協力しないなら、オレがユキナを見つけ出して殺してやる。オレに従わない、君への罰としてね。言っただろう?オレはここから出たいんだ」 薬の効果が切れはじめた飛影は、すでに肩で息をしている。 息苦しさの中で、妹と、霊界と、目の前の憎い男の言葉と、何もかもが、グラリと回る。 こいつの言うことは、間違ってはいない。 オレは、ここにいるわけにはいかない。 ギリッと歯を食いしばり、飛影は目を閉じた。 「…わかった」 コエンマの、条件を飲む。 あいつに、そう伝えろ。 言い終わると同時にずるずると床にくずおれる体を、蔵馬は抱き留め、微笑んだ。 この幼い妖怪もまた、古狐に騙されたのだ。 |