Bon Voyage! ...2

これに乗るのか?と不審そうな顔をした飛影だったが、乗ってしまえばどうということもなく、冬だというのに窓を全開にし、もともとクシャクシャの髪をさらに乱して、流れる風景を眺めている。

シートベルトには一悶着あったが、これが人間界の決まりなのだと蔵馬は説き伏せた。
人間界に来るたびに車というものはもちろん見かけていたが、実際に乗るのは飛影は初めてだ。もちろん百足だって乗り物の一種ではあるが、これはずいぶんと違う。

「なぜ、時々止まるんだ?」
「信号とか、歩行者とか、人間界のルールがありましてね」
「…百足の方が、速いな」
「だって、あれは森も建物も妖怪も薙ぎ倒すじゃないですか」

ここではそういうわけにはいかないんですよ。ところで、体はどう?
蔵馬に尋ねられ、飛影は自分の体の感覚を研ぎ澄ましてみる。

「なんだか、ぼんやりした感じだな…」

鈍る、とでもいうのか。
他者の気配や、風の向きを、妖怪の体ほどは敏感に感じない。
閉じられた額の瞳は前髪で隠され、包帯を外した右腕は白く、当然、小さな炎ですら熾すこともできない。

けれども、陽の暖かさや風の冷たさ、空気に混ざる花や食べ物のにおいなどは、なぜか敏感に感じられる。

「オレも。でもなんだか懐かしいよ」

憑依して、そこそこ妖化が進むまでは人間そのものの体だったから。
この、鈍いのに敏感な感じ、って言うのかな。

嬉しそうに、蔵馬は言う。

ーお前と一緒にいるのが幸せだって、あいつは言っているようなもんじゃないかー
躯の言葉を思い出し、飛影は少し赤くなった顔を隠すように、外に向く。

「もうじき高速に入るから。そうしたら信号はないよ」

コウソクに入るとシンゴウはない?
意味することはさっぱりわからなかったが、それをいちいち尋ねていては、この旅では切りもない。
飛影は肩をすくめて頷いた。
***
高速に乗って、一時間半ほども走っただろうか。
広々としたその場所を、パーキング、と蔵馬は言った。

「ぱーきんぐ?」
「休憩所だよ。ご飯とか、トイレとか、お土産とか」

なんで休憩が必要なんだと言いかけた飛影だったが、車が止まった瞬間、自分が少々疲れていることに気がついた。

「…疲れ、た?」
「でしょ?車に乗っているだけでも疲れちゃうからね。ちょっと休もうよ」
「座っていただけでか?人間とは脆弱な生き物だな」
「揺れるし、座りっ放しだからね」

車から降り、冷たい空気の中で飛影は伸びをし、何やら後部座席を探っている蔵馬が見ていないのをいいことに、ぴょんとジャンプをしてみる。
車の屋根に飛び乗ることすらできない自分の体に少々驚きつつ、辺りを見渡す。

パーキングとやらには同じような車という乗り物が止まり、まばらに人間たちが散らばっている。
それぞれ、笑ったり喋ったり、何かを食べたりするその姿。

「…人間界、だな」

自分も今はその一員なのかと思うと、飛影はなんだか不思議だった。
え?と財布を手に振り向いた蔵馬に、なんでもないというしるしに首を振ってみせる。
二人は、雑然とした店内に入った。

カウンターで食べ物を受け取る、奇妙な店。
菓子だの野菜だの漬物だのおもちゃだのを売る店。
食べ物や飲み物の詰まった、自動販売機の列。

元々大きな目を一層大きくし、飛影はあたりをキョロキョロと見渡す。

「何食べたい?」

そう言われて見た頭上に並ぶ写真は、飛影の知らない食べ物ばかりだ。
かろうじて、ラーメンとカレーはわかったが。

「…なんでもいい」
「ダーメ。選んで。人間界旅行なんだから」

クスクス笑う蔵馬にムッとしたが、仕方なく適当にいくつかを指差した。
軽食を買いに行く蔵馬の後ろ姿を見るともなしに見ていた飛影の耳に、人間たちの声が飛び込んでくる。

「これ美味しいね」
「おばあちゃんへお土産にしようか」

土産?
そのキーワードがふと引っかかる。
そうだった。

ーお前がオレに、買ってこいよ。
ーちゃんとお前が自分で金払って、お前が選んでな。

躯にそう言われていたことを、飛影は思い出す。

「……」

これが“土産”というものなのか?お前が選んで、と言われても…。
明らかに食べ物と分かる物もあるが、飛影には積み重なる箱や、瓶や、袋に入った物がなんなのかさえよくわからない。
確か、この小さな瓶の中身はジャムというものだった気がする。

「飛影、お待たせ。どうしたの?」

手に取りかけた瓶を慌てて元に戻した飛影は、外で食べようかと蔵馬に連れ出され、ベンチに座る。ホットドックにポテトに山菜うどんに串に刺して焼いた大きなさつま揚げ、という珍妙な組み合わせだが、自分が指差したのだから飛影は文句を言う筋合いもない。

「いい天気。人間の体だと、ちょっと寒いけど」

陽射しと食べ物のあたたかさでさほど苦ではないが、蔵馬の言う通り、外で食事をするには少し寒い。
体内に妖気が満ちている時と同じようにはいかないことを、二人はついつい忘れてしまう。

「これはなんだ?」
「ホットドック。ケチャップこぼさないでね」
「これは?」
「さつま揚げ。全部食べちゃだめ。半分こ!」
「…面倒くさいやつだな」

ぼやいた飛影だったが、大人しく半分ずつ食べる。
広い駐車場とその向こうに広がる常緑樹の山々と、薄青い冬の空。
どうってことのない軽食もなんだか美味しく感じられるのは、この解放感ある景色のせいなのか、隣の蔵馬があからさまに上機嫌で嬉しさを隠そうともしていないからなのか、と飛影は考える。

「あ、飲み物買い忘れちゃった。ちょっと待ってて」

蔵馬は屋内に、足早に戻って行く。
ベンチに座ったままの飛影はふと視線を感じ、辺りを見渡した。
妖怪の体ならもっと早く気付いていただろうが、随分前から二人を見つめている人間がいたのだ。
それも、一人ではない。あちこちから、何人か、だ。

その視線が自分ではなく飲み物を手にして戻ってきた蔵馬に向けられているのを見て、飛影はやれやれと眉を上げる。
魔界にも人間界にも、蔵馬の顔に誑かされる輩は後を絶たないのだ。
そいつらに向かって嘲笑に似た笑みを浮かべようとした飛影だったが、自分もそうではないかと、腹立たしい事実を思い出し、眉間の皺を深くした。
モテる恋人を持つというのも、何かと複雑だ。

チラチラと、あるいはじっと、注がれる、視線。
じろじろ見るな、こいつはオレのものなのに!その考えに、飛影は自分でぎょっとする。

「ただいま。ウーロン茶とココア、どっちがいい?」

むすっとしたまま、飛影は受け取らない。
いまいましそうに蔵馬を睨むと、目をそらす。

「お前を、見ているやつらがいるぞ」
「え?…ああ、そうみたいだね」
「魔界でも人間界でもお盛んなことだな。オレじゃなくあの人間どもと旅したらどうだ?」

いつになく饒舌に、嫌味な言葉が飛影の口からするすると出た。
これも妖気を無くしたせいだろうか。

「飛影」
「…なん、……っ!」

いきなり上向かされ、肩を抱かれる。
そのまま、唇を塞がれた。

「…!!」

昼日中の、人のいる場所だというのに、蔵馬は唇を重ねるだけでは飽き足らず、舌を差し込んできた。

「…ん!…ぅん……ッバカ!何をする!?」

どうにか蔵馬を振りほどき、飛影は怒鳴った。
同時に、さっきまで感じていた不愉快な視線が全て消えうせたことに気付いた。

「…ケチャップ味だね」
「な、何を考え…!」
「他の人間がオレを見てるのが、気に入らないんでしょ?」

だから、追い払ってあげたんだよ。
にっこり笑う蔵馬を睨み、飛影は唇を乱暴に拭う。

「こんな所で貴様は!」
「いいじゃない」

たかが人間どもの世界じゃない。そんなこと気にしないで。
それにさ、見せつけてやるのって…ちょっといい気分じゃない?

「なにがいい気分だ!」
「まあまあ。出発しましょうか」

飛影の片手にココアのカップを押し付け、もう片方の手を取って蔵馬は車の方へ歩き出した。

「…ったく」

ぼそりと呟いた飛影だったが、内心は…

ちょっと、いい気分だった。
***
ドライブ、そして目的地は温泉。
一泊なのだから骨休めというほどのものでもないが、のんびり湯に浸かり、二人きりの時間を楽しむ。
いろいろ予定を詰め込んだところで、飛影にはしかめっ面をされるのがオチだと考え、温泉に行く途中にある、ガラスの美術館にだけ寄ることにしていた。

考えに考えた揚げ句にしては随分と凡庸、かつ年寄りじみたプランにも思えるそれは、飛影が一緒だというだけで、蔵馬にとって豪華客船の船旅にも匹敵する旅だ。
車に積んできていたチョコレートやクッキーも食べ終え、お腹がいっぱいになった途端眠ってしまった助手席を、スマートに車を運転しながら横目で見る。

窓を閉め暖房を付けた車内は快適に暖かかく、飛影の膝には小さな毛布がかけられている。蔵馬は手を伸ばし、マフラーの首元を緩めてやり、飛影の手の中でゆらゆらしていたココアのカップを取り上げた。

大きな目をしっかり閉じ、小さく口を開け、窓からの陽射しを浴びながらぬくぬくと眠るその顔。

ここで眠ることになんの危険もないと、安心して眠っているその姿。

「どうしよう…」

小さな小さな声で、蔵馬は呟く。

愛しい。

この小さな妖怪を、どうしようもなく愛している。
人間の世界で、愛しい者と二人、旅をしている。

こんな小市民的な幸せが、こんなにも嬉しくてたまらないなんて。
傍らで眠る幼い顔が、これほど愛しく思えるなんて。

こんなあたたかく穏やかな時間が自分に訪れるなんて、思ってもみなかった、遥か昔の日々。

「…妖狐蔵馬は、どこ行っちゃったのかな」

自分自身への返事のない問いかけをしながら、蔵馬は笑顔のまま、そっとアクセルを踏んだ。
***
「ガラス…?これが?」

飛影の声には驚きが表れていて、蔵馬としては選択は間違ってなかったとホッとした。

ガラスの美術品だけを扱った、山奥の美術館。
辺鄙な場所にあるせいか、平日のせいか、客は少ない。

日常品も、華麗な装飾品も、何もかもがガラスでできた物ばかりだ。
ネックレス、ブローチ、香水瓶、ワイングラス、ティアラ。
貴金属としての価値はない、けれども途方もなく綺麗なガラス細工たちに、飛影は目を奪われている。

「…人間が、造った物なんだな?」
「ええ。綺麗でしょう?」

魔界にもガラス製品はある。
けれどもそれは武骨で、実用的で、美しさを追求して造られた物ではない。

明るい色、深い色、折れそうに細い細工や不思議な反射。
植物や昆虫を模した、素晴らしい色合いと繊細な細工のガラス。人間の姿を象った、煌めくガラス。
ともすれば宝石よりも美しく見えるガラスに、飛影がすっかり魅せられているのを見て、蔵馬は微笑んだ。

「綺麗でしょ?」

もう一度、尋ねる。
意外にも、飛影はこっくりと頷いた。

「造ったやつは、どこにいるんだ?」

ここに並んでいる作品は、五十年以上も前の物なんですよ。
深く穏やかな声でそう話しかけてきた学芸員に、二人は振り向いた。

「正確には、百年程前の作品が多いですね」
「もう、そいつは死んだのか?」

意外な事に、飛影はその“人間”に向かって、話しかけた。
ロマンスグレーという言葉がぴったりの初老の学芸員は、ちょっと驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「ええ。残念ながら」
「…たったの百年で、死んだのか?」
「もちろんそうです。百年以上前ですから。天才にも、等しく死は訪れますからね」

これ以上話せば会話が噛み合わなく…すでに、噛み合わなくなりつつあるが…なることを心配し、蔵馬は学芸員に笑顔で軽く会釈をし、飛影をそこから引き離した。

「人間は、すぐに死ぬんだな」
「まあねえ。オレたちから見たら、そうなりますけど」

あんまり人間を驚かしちゃダメですよ。
ほら、あのおじさん、まだこっちを見てる。

「ここは、なんなんだ?」
「霊界の秘宝館みたいなものかな。でも、わずかなお金を払えば誰でも自由に見れるんだ」

不思議そうな顔をする飛影に、蔵馬は今日何度目になるのかわからない笑顔を見せた。

「なぜだ?これを集めたやつは、なぜそんなことをする?」
「綺麗な物を、独り占めするんじゃなくて、みんなに見せたいんだよ」

だから、この美術品の持ち主は、美術館を造って、ここに自分のコレクションを置いてるんだ。
こんなに綺麗な物を、自分だけで見てるのはもったいないじゃない?

綺麗な物を、皆に見せたいと願う、人間たち。

「……人間は、よくわからん」
「飛影だったら、見せない?隠しちゃう?」

そんな軽口をたたきながら、蔵馬は飛影の手を引いて、小さな美術館を一通り見て回り、併設の小さなミュージアムショップにも入る。
お土産用の絵葉書などの安い物から、それなりの造りの美術品のレプリカなども売られている。

ちょっとトイレに行ってくるから、ここで待っててね。げに人間らしい言葉を残し、蔵馬は店を出る。
見るともなく店を見てまわっていた飛影は、ショーケースの中の指輪に、目を留めた。
紫と、青と、透明のガラスを使い、蝶を象って精巧に造られた華奢な指輪。それは先ほど展示室で見かけた指輪と同じ物だった。

「……?」
「レプリカですよ。綺麗でしょう?」
「れぷりか?」
「展示してある美術品を模して作った物なんですよ」

客のいないミュージアムショップで所在なさげにしていた、これまた初老の女店員は、飛影の風体を見ても子供を相手にするような口の利き方はせず、礼儀正しく説明を続ける。

「実物が造られた当時より技術が進んでいますから、いい出来なんですよ」

素晴らしい細工とカッティングを施されたガラスは、光り輝いていた。
ショーケースに飾られたそれは、出来栄えに比例して五万円ほどと、なかなかいい値段だ。

ーお前がオレに、買ってこいよ。
ーちゃんとお前が自分で金払って、お前が選んでな。

躯に残された方の腕、左腕は意外に白く、指もしなやかだ。とてもあれだけの戦闘力を持つ者の手とは思えぬほどに。
その手に、きっとこの紫や青の蝶はよく似合う、ような気がする。
それに、なんというか、飛影にはうまく説明できないが、この指輪はとても綺麗で、それでいてオモチャめいても見える所が妙に人間界っぽかった。

幸い、蔵馬は離れている。
飛影は女に声をかけた。

「おい、これをくれ」

店員は一瞬面食らう。
それはそうだろう。五万円もするレプリカはそうそう売れ行きの良い商品ではないし、客はどう見ても子供に見える。
かと言って子供とはいえ客に向かって、買えるのか、などと口にするのははばかられた。先ほど保護者らしき人もいたことだし大丈夫だろう、と、店員は指輪をショーケースから取り出した。

「ありがとうございます。五万三千円です」
「これで、足りるか?」

朝、砂金と引き換えに蔵馬からもらった札を、飛影はバサッとまとめて出した。
店員はもう一度面食らったが、札をきちんと数え、釣りを返した。指輪を専用のケースに入れ、淡いピンクの薄紙に包んでリボンをかけ、美術館の名前の記された小さなガラスのオーナメントを飾り、さらに小さな紙袋に入れて、飛影に手渡した。
ご丁寧なラッピングに、いつ蔵馬が戻ってくるかと飛影はひやひやする。店員から受け取ったそれを慌ててコートのポケットにそれを押し込んだ途端、蔵馬が戻ってきた。

「お待たせ。何か欲しい物あった?」
「別に」
「雪菜ちゃんにお土産とかさ」
「……オレと旅行に行ったなどと雪菜に言ったら殺すからな」
「殺されるほどの罪じゃないと思うけどなあ」

じゃ、行きますか、と蔵馬はポケットから車の鍵を出す。

別に蔵馬に隠す必要があるわけではないが、どうも蔵馬は躯の話が出ると面倒くさいやつになる。

ちょっと罪悪感を覚えつつ、飛影は紙袋をポケットにより深く押し込み、再び助手席に乗り込んだ。
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