Bon Voyage! ...1

ネクタイ。
スーツ。
革靴。
長い髪は後ろで、ゆるく束ねる。

大学に行かなかった蔵馬にとって、制服からスーツに変わっただけの日常は、さして苦ではない。
仕事、というものも、妖狐蔵馬の頭脳を持ってすれば、なんということもなかった。

義父の会社は、大会社というわけではないがそこそこの規模で、堅実な経営で安定している。
高校を卒業したばかりの自分の息子をコネ入社させるなんて、案外うちの社長もバカなんだな。大学くらい行かせてからにすりゃいいのに。
入社した当時はそこここで囁かれていたそんな陰口も、仕事の飲み込みも早く、容姿端麗、それでいて上の人間にも同僚にも礼儀正しく振る舞う姿に、あっという間になくなった。

人間を虜にするなど、妖しの者にはたやすいこと。
無理な仕事も綺麗な笑みで引き受ける蔵馬に、人間たちはすっかり魅せられていた。

「秀一くん」

はい、と蔵馬は振り返る。
“秀一”の顔をして。

「なんですか、社長」
「二人の時は、その呼び方はよしてくれよ」

苦笑する義父に、蔵馬も笑ってみせる。
十時を少し過ぎたこの時間、このフロアには今夜は二人しかいない。

「彼女は、元気かい?」
「はい」

再び蔵馬は、にっこり笑う。

社長の息子、しかも見目も頭の出来も良くやさしいときたら、女子社員も放ってはおかない。
しかし、その告白も一人の女子社員からだけだった。なぜって、

「すみません。オレ、遠距離なんですけど、彼女がいるんです」

本当に、ごめんなさい。
そう言って頭を下げた蔵馬は、若いのに一途で男らしいと、ますます評判を上げた。
もっとも、遠距離恋愛中の彼女、がいるという話は、会社中の知る所となったわけだが。

「志保利さん…母さんが、君の彼女に会ってみたくてしょうがないみたいだよ」
「みたいですね。そのうちに、まあ」
「そうだな。あ、いや、急ぐものでもないよ」
「ええ」
「秀一くん、彼女は学生なんだろう?」
「はい」

彼女は学生だ、という以前に自分で言った嘘に、蔵馬は思わず口元が緩んでしまう。

「君が社会人で彼女は学生じゃ、学生同士みたいに毎日会えなくて寂しくないか?」
「え?まあ…そうですけど。でもどのみち遠距離ですし」

実を言えば、蔵馬はしょっちゅう会社を休んでいる。
魔界に行くことも多いし、人間界に“遠距離恋愛の彼女”が来てくれる日には、会社なんぞ放ったらかし。
夢幻花で周りの人間の記憶を操作し、気付かれないようにしているだけだ。

「いいんだよ。休みを取っても」
「でもオレ、新入社員ですよ」
「君が来てから、我が社の業績が上がり続けていることはみんな知ってるさ。有給くらいいくらでも取ってくれ」

好きなだけ取ってるんですよ、などとは言えず、蔵馬は曖昧に微笑む。

「それにね、社長の息子が取らんとなると、社員も取りにくくなるもんだ」
「…なるほど。そうですね」

そういう理由で義父が有給をすすめているのなら、蔵馬にも理解できた。
それに、義父はまだ、蔵馬が大学に進学しなかったことを、自分への気遣いではなかったのかと心配しているのだ。
そのせいで、まだ学生である恋人や友人たちと疎遠になってしまってはいないかという、母親である志保利の心配もあるのだろうが。

「じゃあ、来月もらいますよ」
「そうしてくれ。一週間でも、十日でも」
「あはは。それは太っ腹ですねえ」

義父も笑うと、パソコンの電源を落とした。

「彼女と旅行にでも行ってくればいいさ。大学生なら講義のない日も結構あるだろう?」

大学生、という言葉に、再び蔵馬は笑いを堪え、唇を噛んだ。

「ええ。彼女を旅行に誘ってみます。ありがとう。……義父さん」

とうさん、という呼びかけにおおいに照れる、この人のいい義父に、蔵馬は本心からの笑みを見せた。
***
「あの」
「なんだ」

蔵馬の“遠距離恋愛の彼女”こと、黒髪赤目の小柄な妖怪は、目の前の皿をみるみる空にしているところだ。

「美味しい?」
「…別に」

別に、って。
今夜のメニューはシーフードカレーときのこのホイル焼き、それにポテトサラダで、カレーは飛影好みに甘口と中辛を半々に混ぜてある。
デザートにと、アップルパイとバニラアイスクリームも買ってあった。

無言で差し出された空の皿に、蔵馬はご飯のおかわりを盛り、たっぷりとカレーをかけた。

「ねえ、飛影」
「なんだ」
「オレ、来月休みが取れるんだけど」
「それで?」
「よかったら、旅行にでも行…」
「断る」

即答。瞬殺。
暖かい部屋で、温かい食事をお腹いっぱい食べさせてあげているのに、この仕打ち。

「…せめて、ちょっとは検討するフリとかしてくれません?」
「行かん」
「どうして?」
「必要ないからだ」

必要ない。そう言われてしまうと、蔵馬も返答に窮する。
必要不必要でいえば、旅行というのは必要なものではない。

「必要じゃないことをしちゃうのが、恋人同士ってもんでしょう?」
「誰が恋人同士だ」

飛影は氷を鳴らして水を飲み、あっという間に二杯目のカレーを片付ける。

「ふーん。違うんだ?オレたちは恋人同士じゃないんだ?」
「アホか」
「じゃあ君は、恋人とじゃなくてもセックスしちゃうんだ?」
「セッ…!黙れこのバカ!!」

ぶは、と吹いた飛影の背中をとんとんと叩いてやる。
オーブントースターで温めたアップルパイにアイスクリームを添え、蔵馬はもう一度頼んでみる。

「ねー。いいじゃない。一緒にどこか行こうよ」
「旅行って、旅だろうが?オレとお前でどこへ何しに行くんだ」
「名所旧跡を巡るとか?」
「興味ない」
「遊園地でも行ってジェットコースターでも乗るとか?」
「意味がわからん」
「温泉でも行って美味しい物でも食べるとか?」
「今食った飯で十分美味い」

美味いという言葉に目を輝かせた蔵馬に、飛影はしまったと舌打ちをする。
にこにこしながらアップルパイの皿を置く蔵馬から、ぷいっと視線をそらす。

温かいパイに冷たいアイスクリームを乗せ、フォークでサクリとすくい取る。以前なら食べ方もわからなかったであろう物を飛影が躊躇なく、そして正しい食べ方で口にするのを見て、蔵馬は彼と一緒に過ごした時間の長さをふと思う。
小さな口がパイを咀嚼し、飲み込む動きに、自分の分を食べるのも忘れ、蔵馬はじっと見入る。

「時間の長さ、っていうよりは密度かな」
「なんだ?」
「ううん。なんでもない」
「…じろじろ見るな」
「あ、ごめんね。つい」

かわいくて、つい、とは口に出さないでおこう。

「一人旅もなんだしな…幽助か桑原くんでも誘ってみようかな」
「そうしろ」
「でもなあ、桑原くんは学校あるし、幽助はお店あるし」
「オレなら暇だとでも言いたいのか」

オレだってパトロールがあるんだからな。
飛影はアップルパイの最後の一口を口に入れ、蔵馬の分の皿を見る。

「どうぞ、食べて。…そうだ、雪菜ちゃんを誘うってどうかな?」
「……なんだと?」

声に怒りが含まれているのに気付き、蔵馬は苦笑する。

「オレが雪菜ちゃんに何かするわけないでしょ」

たださ、静流さんは仕事あるし桑原くんも学校じゃない?案外遠出ってしないんじゃない?
どこかさ、綺麗な場所にでも連れてってあげようか?もちろん部屋は別々に取るよ。

「…許さん」
「雪菜ちゃん飛行機乗ったことないでしょ?空の旅もいいね。あ、泊まりがダメなら近場でディズニーランドとかでもいいけど」
「…なんだか知らんが、許さん!!」
「じゃあ飛影、行ってくれる?」
「………」
「お願い。一泊でいいから」

しかめっ面をした後、飛影はため息をついた。

「…どうせ、行くって言うまで諦めないんだろうが」
「あー。オレのことだんだんわかってきましたね?」

渋面の飛影とは対照的に、蔵馬はにっこり笑う。

「まったく…なんで人間界を旅なんか…」
「でも、人間界には綺麗な場所や面白い物、結構ありますよ?」
「人間どもの世界など、くだらん」

急に碧の瞳が見開かれる。

「そうだ…いいこと思いついた!」
「…貴様のいいことがオレにとっていいことだった例がない」

まあまあ、と、蔵馬は再びにっこり笑う。

「人間どもの世界を、オレたちも人間になって旅しましょう」
***
黒いジーンズ。黒いシャツ。濃いグレーのセーター。白いマフラー。黒いダッフルコートに黒いブーツ。黒い靴下。
大きな紙包みを解いた躯は、それらをひとつひとつベッドに並べ、眺めていた。

「…何をしている」

戻ってきた部屋の持ち主が、唸るように言った。

「いや、お前に荷物が届いていたぞ」
「見ればわかる。勝手に人の荷物を開けるな!人の部屋に入るな!」
「百足は床の板一枚からドアの一つまで、ぜーんぶオレの物だ」

躯の反撃に飛影はぐっと詰まり、コートを乱暴に脱ぎ捨てた。

「お前、明日から休みだったな。これ、人間の服だろう?」
「…貴様には関係ない」
「人間界ではいつもこんな服着てるのか、お前?」
「違う!!」
「じゃあ、なんだよ?」

不本意ながら、飛影はことの経緯を躯に説明する羽目になってしまった。

「人間になって旅行かあ…。いいなあ。オレも人間界を旅してみたい」

躯の言葉はいつものからかいや皮肉を含んだ言い方ではなく、心底羨ましそうで、思わず飛影は振り返る。
唇を尖らす様は子供っぽく、躯を少女のように見せた。

「オレだって違う世界を見てみたいんだぜ?なんなら霊界だって見てみたいくらいだ」

ああ…そうか。それは躯の本心だ。
飛影はその熱っぽい視線から、目をそらした。

強大な、誰も追いつけない力を手に入れ、躯は自由を失った。
魔界でさえ、躯がそこらを自由にうろつくことは難しい。魔界の均衡が崩れてしまう。
どんな薬や魔術でも抑えることはできない強すぎる妖力。
人間界をその目で見てみたい、その足で歩いてみたいなど、夢のまた夢だろう。

躯の生きる場所は、魔界にしかない。

「それに、嬉しくないのか?」

言葉の意味がわからず、飛影は目を瞬かせる。

「…何がだ?」
「お前と旅がしたいって、あの狐は言ったんだろう?」

旅だぞ?ヤルだけの相手なら、場所なんてどこだっていいじゃないか。
閨の中だけの相手じゃないって、飛影、お前と一緒にいるのが幸せだって、あいつは言っているようなもんじゃないか。

「それって、嬉しくないのか?」

閨だけの存在ではなく、一緒にいるだけで幸せになれる。蔵馬はそう言ってるも同然だと。そんな風には考えてみなかった飛影は、赤くなる。
ただの肉欲の対象とされていた過去を持つ躯にとって、自分はどう映るのだろうかと、飛影はらしくもなく目を伏せる。

「飛影、お前だって満更でもないから行くんだろう?」

人間になって、人間界を旅する。
普段なら馬鹿馬鹿しいと一蹴するような提案にしぶしぶながらも乗ったのには飛影なりに理由があったのだが、そこまで躯に口を割るわけにはいかなかった。

不器用に黙り込む飛影に、躯はいたずらっぽい笑みを浮かべる。

「土産、買ってこいよな」
「……蔵馬に伝えておく」
「いや、それは駄目だ」
「何?」

お前がオレに、買ってこいよ。
ちゃんとお前が自分で金払って、お前が選んでな。

「楽しみにしてるからな」

ニヤッと笑い、飛影の頭をポンとたたくと、躯は部屋を後にした。
***
我ながら、常軌を逸した舞い上がり加減だとは蔵馬も思ってはいた。
なにせ、勢い余って車を購入するという有り様だ。

いくら人間になって人間界を旅すると言ったって、あの飛影を電車や飛行機に…大勢の人間に囲まれる場所に…乗せる気には蔵馬もさすがになれなかった。日常的に車が必要なわけではないのだからとレンタカーも考えたが、何人もの見知らぬ者が座った場所に愛しの恋人を乗せる気もしない。
人間としての貯金などたかがしれているが、魔界の隠れ家には使い切れないほどの財宝がある。一つ二つ売りさばいて人間界の金を作るのはたやすいことだった。

マンションの地下駐車場に停めてあるその車の後部座席に、着替えからお菓子まで詰め込んであるボストンバッグやら、やわらかく小さな毛布やらを積み、蔵馬はふうっと溜め息をつく。傍らの旅行のガイドブックが、我ながらおかしくて蔵馬は微笑む。

部屋に戻った途端に感じた気配に、蔵馬は破顔した。
体重というものがないかのように、ベランダに軽やかに降り立った姿。

「飛影!」

本当は、ドタキャンされるのではないかと本気で心配していたのだ。
抱きしめようと嬉しそうに差し出された手を、飛影はするっとかわす。
着方はぐちゃぐちゃではあったが、蔵馬が使い魔に届けさせた服をちゃんと着ている。

「着てくれたんだね!」
「貴様が送ってきたんだろうが…なぜわざわざ魔界に送った?」

ここで着替えたって同じだろうが、と飛影は眉をしかめる。

「うん。やっぱりあなたには、黒が似合うね」
「聞いているのか貴様」
「人間同士の旅だもん。最初から、ちゃんとしなきゃね」

二人は一度部屋に戻る。
手早く、よれているシャツや掛け違えているコートのボタンを直してやる蔵馬に、飛影が手を差し出した。
砂金の入った小さな瓶が手の平に乗せられている。

「何これ?」
「人間界の金と、換えろ」
「え?なんで?」

お金なんか、何に使うの?旅行代金なんて、貰おうなんて思ってませんよ?
ぽかんとする蔵馬を、飛影は鼻で笑う。

「貴様が誘ったのになんでオレが金を払う」
「じゃあ何に?」
「うるさい。ごちゃごちゃ言うなら帰るぞ」

せっかく来てくれたのに帰られては困ると、慌てた蔵馬は砂金の小瓶を受け取り、一万円札を十枚ほど引き出しから取り出した。
学生の頃使っていた、小さな黒革の財布とウォレットチェーンを取り出し、飛影のジーンズに付けてやる。

「これでいい?」
「…ああ。どこへ行くんだ?」
「ちょっと、今日はだめ」

ベランダから出ようとした飛影を、蔵馬は苦笑して止める。
飛影を連れて玄関からロビーへ、エレベーターのボタンを押す。

「人間になって旅をするって言ったでしょう」

はい、これ。
蔵馬の差し出した小さな包みを、飛影はうさんくさそうに見下ろす。

「……本当に、大丈夫なんだろうな?」
「もちろん。この旅行の間だけだよ」

妖力を、消す薬。
解毒剤を飲めばすぐに戻れるし、副作用もないと蔵馬は受け合った。

「…戻れなくなったりしたら、殺すぞ?」
「まあ戻れなくなった場合は、どっちみち殺せないと思うけど」
「貴様」
「冗談です。ごめんなさい」

包みごと、飲めるから。
証明するかのように、蔵馬は先に包みの一つを、飲み込んだ。
一瞬ためらい、飛影も包みを飲み込む。

ほのかに甘い、さらりと溶ける、粉。

地下駐車場の真新しい車に乗り込んだ“人間”二人。
冬の冷たい陽光の煌めく外へと、いざ出発だ。
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