好敵手...2

「よお!蔵馬!」

陽気に手を上げる幽助に、蔵馬は微笑む。
何事にも器用な蔵馬がざっくりと切ってやった髪は元のように短かったし、体中から抑え切れずに漏れ出している妖気を除けば、幽助はいつも通りの幽助だった。

「調子はどう?」
「いやー、上手くいかねえことばっか!」

妖気はなんとかコントロールできるようになってきたけどよ。
コエンマに言わせりゃ、まだまだらしいけど。

「そっか。まあ、難しいよね」

風になぶられた髪を、蔵馬は掻き上げながら、微笑んで言った。

…もうじききっと、魔界は変わる。

蔵馬の元には、定期的に魔界の情報は入ってきていた。
遅かれ早かれ雷禅は死ぬだろう。
そうすれば、いわば三竦みの状態だった魔界の均衡は崩れる。

自分がそれに巻き込まれずに済むなどと、蔵馬は思ってはいない。
何がどうなるのか。誰が、誰につくのか。

魔界は、変わる。
それに、巻き込まれてしまう。

自分も、飛影も、幽助も。

だから。

その前に、なんとしてでも手に入れたい。
正式に、という言い方はおかしいが、完全に自分のものにしてしまいたい。

二三日前に送った使い魔は昨夜、返事を持って蔵馬の元へ帰って来た。予想を上回る、驚くほどの条件の明示された紙切れを持って。

目の前で笑う邪魔な男に、やわらかな笑みを返しながらも、この男を消してしまえば済むことなのに、などと蔵馬は考える。
黒い髪に碧の瞳のままで、金色の瞳だった頃と同じ考えをしていることに、本人はまだ気付いていない。

殺す?
それは蔵馬にとっては比較的簡単だ。

なぜって幽助は蔵馬を信じているから。
蔵馬が自分に殺意を持つなど、微塵も考えてはいないから。

だからできない、というわけでもないが、今幽助を殺しても事は上手く運ばない。

「どうした蔵馬?ぼーっとして」
「ん?…君にね、贈り物をしたいなって、考えてたんだよ」
「はあ?なんだそれ」
「びっくりすると思うよ」

なんだよそれ。今くれねーの?何くれんの?
え?秘密?気持ち悪ぃなあ。

ほんの一瞬とは言え自分に殺意を持った男の側で、幽助は屈託なく笑った。
***
夜になっても闇の訪れない都会の空を、駆ける者。
見慣れた小柄な黒い影は、まるで空から舞い降りたかのように、ストンとベランダに降りる。

蔵馬の家を訪れる時のように、ためらいなくベランダのガラス戸を引く。
よ、とどこか戸惑ったように笑いかける男に、飛影もまた、小さく笑ってみせた。

「おめーがこんな風にしょっちゅうオレん家に来るなんて、変な感じだな」
「…嫌か?」
「嫌なら待たねーよ」
「……なら、いいだろう?」

答えるかわりに、ベッドに寄りかかっていた幽助が、立ったままの飛影に手をのばす。

「……幽助」

少し荒れた、大きな手。
幽助の、手。
あたたかく力強い手は、飛影に向かってまっすぐ差し出されている。

「幽助…」

熱っぽい、囁き。
差し出された手に応えるように手を伸ばした途端、飛影はあっという間に抱き寄せられ、硬いフローリングの床に押し倒された。

小さく口を開け、飛影はキスに応える。
蛍光灯の明るい光の下で、カーテンも閉めぬままに互いの背に腕をまわす。

目に、頬に、唇に、首筋に、少々乱暴だが情熱的なキスが落とされる。
タンクトップの下に潜り込んだ手が引き締まった腹を撫で、ふくらみのない胸に触れる。
幽助の手が飛影のベルトにかけられた瞬間、生じた気配に二人はハッと顔を上げた。

「来たな…」

幽助らしくもない声をひそめた囁きに、赤い瞳が一瞬、揺れた。
***
ピンポン、と軽やかな音。

ドアをドンドン叩くわけでもなく、大声で呼ぶわけでもなく、行儀良く待つ知り合いは、幽助にはあまりいない。
鍵もかけていないドアの前で待っていた男は、開いたドアににっこり笑った。

「こんばんは。幽助」
「……よお」

暗くなったら玄関の電気をつける、などという常識はこの部屋の住人にはない。
暗い玄関に差し込む、廊下からの光に浮き上がるその姿は、美というものに疎い幽助の目にさえ、美しかった。

長い髪、整った綺麗な顔。
形良く大きな碧の瞳を縁取る睫毛は、驚くほど長い。

「どうしたの?幽助」
「いや…ところでおめー」

何しに来たとは言えずにいる幽助の目の前を横切るように、蔵馬は勝手に上がり込む。

「おい、蔵馬!」
「あれ?飛影、来てたんですか?」

妖気を感じなかったはずもない。
わざとらしいその言葉に、飛影は無言のまま、冷たい視線で応える。

「まあ、座れよ」

ぶっきらぼうに幽助は言うと、自分は飛影の隣に、どかっと腰を下ろす。
他人との密着を嫌うはずの飛影も、大人しく隣に座ったままだ。

「幽助、螢子ちゃんは元気?」

差し出されたビールの缶を受け取りながら、蔵馬はにっこり笑う。
螢子ちゃん、という言葉に、飛影の体が小さく揺れたのは、見逃さない。

「え?ああ、元気だけど…」

急な質問に、幽助は面食らったようだった。

「オレね、君には今でも感謝してるんだよ」
「へ?なんだよ急に…何の話…」
「だから」

君に贈り物をしたいって、言っただろう?
今日は、それを持って来たんだ。急いで渡したかったから、こんな時間にごめんね。

ジーンズのポケットから蔵馬が取り出した小さな包み。
包みは手の中に納まる大きさで、薄汚れた呪符でくるまれている。

「…これ、なんだかわかる?」

包みを幽助に差し出しながらも、その言葉は、ほとんど飛影に向けられたものだった。
受け取った包みを、幽助はためらいながらも開ける。

「…石?」

半透明の紫色。まるくなめらかな石は、手のひらを照らすようにぼんやりと光る。
角度によって、中央に浮かぶ奇妙な文様は、川の流れのようにも、蛇のようにも見えた。

目を見開いた飛影が、息を飲む。

「……流留塊…!?」

石の名を口にした飛影は、ガタッと音を立てて立ち上がった。

わなわなと震える飛影。
それを微笑んで見上げる蔵馬。

幽助は訳がわからないとでも言うように、二人を交互に見つめる。

「なんだよ…どうしたんだ。これなんなんだ?」

信じられない、という顔をして飛影が蔵馬を睨む。
怒りのためなのか、白い頬は紅潮している。

「……蔵馬…貴様…どうして…どうやってこれを」

ただ笑みを深くし、碧の瞳は赤い瞳を離さない。

「おい…?蔵馬…?飛影?」
「幽助、この石はね」

君が螢子ちゃんと生きるためのものだよ。
これはね、この石を身につけている間だけ、君を人間にしてくれるんだ。
妖気を抑えて、人間に害を与えずに、一緒に過ごすことができる。もちろん…

「もちろんセックスもして…君たちが望むなら子どもを作ることもできる。結婚して子供を持つ普通の幸せを、彼女にあげることができる。君は螢子ちゃんが寿命を全うするまで、人間として側にいていいんだよ」

ぽかんと口を開け、手のひらの石をじっと見つめたままの幽助の手を、蔵馬は石ごと両手で包む。

隣で青ざめる者は、もう幽助の目には入っていない。

叶わないと思っていた、心の底から愛する人間の恋人との未来。
幽助にとって本当に欲しかった未来が詰まった石。それが今、自分の手の中にあるのだ。

それにすっかり心を奪われ、隣の小さな妖怪が震えていることに、彼はもう気付かない。
バンと乱暴に窓を開けた飛影に、ようやく幽助が顔を上げた

「飛影!どこ行く…!」
「帰る。邪魔したな」

窓から外へと、風のようにひらりと出て行った飛影の姿。
慌てて立ち上った幽助を、蔵馬は静かに制した。

「オレが行くよ、幽助」
「いや、でも!オレ、飛影に謝らなけりゃなんねーことが…」
「…謝る?」

先ほどまでの優しい笑みはもうそこにない。
老獪な、冷笑とも言える狐の笑みが、そこにはあった。

「謝るって?謝って何になるんだ?」
「…それは…でも、オレ、飛影を…」
「君にとって一番大事なのは、螢子ちゃんだろう?」
「…オレは」
「飛影を追うなら、その石は返してもらうけど?」
「蔵馬…!? お前…?」
「どうするの?幽助?君は誰と生きていきたいの?」

誰を、選ぶ?

幽助の顔には、答えははっきりと書かれている。
迷う余地すらなかった、選択。

「ね?君が追いかけてもしょうがないよ」

ふわりと人間の顔に戻り、蔵馬は幽助の肩をたたく。

「オレにまかせて。彼のことはオレが一番良くわかってるよ」

飛影の置いていったマントを拾うと、同じように窓から宙に身を躍らせ、蔵馬の姿は消えた。
***
午前二時。
このマンションの屋上は人が出入りできる場所ではなく、柵もないその場所には二つの影。
飛んできた剣は、蔵馬の髪をかすめてコンクリートに突き刺さった。

「人間界では、そういうことしちゃいけないんですよ。飛影」
「……失せろ」

低く憎しみのこもった声に、蔵馬は微笑む。

「怒ってるの?」
「怒ってるかだと…?なぜ、こんなことをした!?」
「もちろん、幽助のためにですよ」
「ふざけるな!!」

幽助のためにだと?貴様が!?
ふざけやがって。笑わせるな。
オレが流留塊の価値を知らないとでも?
あれはちょっとやそっとで手に入る物じゃない。
それをわざわざ幽助のために手に入れただと!?
そこまでしてオレの邪魔をしたかったのか?
一体何のために!? 答えろ!!

口数の少ない飛影が次々とぶつけた言葉を、蔵馬は微笑んだまま受け止める。

「まったくね。流留塊は君が思っているよりもずっと高くついたよ」

盗み出す時間はなかったからね。
まあ、君と違ってオレにはいろいろツテがあるんだ。で、金で手に入れたって訳さ。
妖狐だった頃に手に入れた財宝をね、どれぐらい失ったと思う?

にこっと笑って、蔵馬はそう尋ねる。

「知るか!!」
「知っといてよ。なんせ全部、だからね」
「……なんだと?」

何百年とかけて集めた財宝。莫大な、富。
元々大きな飛影の赤い目が、まんまるに見開かれる。

「全部…?妖狐だったころの財宝を…残らず?」

富は、人間界と同じくらい魔界でも力を持つものだ。
それを全て手放すなんて。

気の触れた者を見るような目で、飛影は蔵馬を睨め付けた。

「そう。全部だ」
「……オレの邪魔をするために?それだけのために、一文無しになったと言うのか?」
「まあ、幽助のために、ってのは嘘になるかもね」
「貴様…」

爛々と輝く赤い瞳を、蔵馬はうっとりと見つめる。
やはり、これを手放すことはできない、と。
手放すか手放さないかなどと考えたことさえ、嘘のようだと。

「答え…」
「君を、手に入れるためだと言ったら?」

眉間の皺を深くし、飛影は蔵馬を睨む。

「…貴様…頭がおかしいんじゃないのか?どういう意味だ」
「オレは、君を手放したくない」
「何を言っている?……貴様が…オレを?」
「オレは君を手放さないよ。幽助には渡さない」

いつの間にやら再び剣を手にした飛影は、笑みを浮かべる顔に切っ先を突きつけた。

「どういう意味だと聞いている」

突きつけられた剣が見えていないかのように、蔵馬は笑顔のままだ。

「意味がわからないのか飛影?」
「わからん」
「君はオレのものだよ、飛影」

白く光る刃が滑り、蔵馬の頬に赤い一筋を描く。

「…オレは貴様のものじゃない。貴様のものだったことなど、一度もない」
「散々オレとヤッたじゃない?」
「だからなんだ?オレも貴様も遊びだと割り切っていたはずだろうが!!」
「幽助は、遊びじゃないってこと?」
「そうだ!オレにとって幽助はそうじゃない。本気で欲しいんだ!あいつが欲しい!オレのものにしたい!! オレだけのものに!! なぜ邪魔をした!?」

怒りに肩で息をする飛影の言葉をさえぎるかのように、間の抜けた携帯の電子音が鳴り響く。
自分のコートのポケットから取り出した携帯を、蔵馬はそれが何かもわからないとでも言うように、不思議そうに眺める。

「貴様には貴様の相手がいるだろうが。いくらでもな」

そいつらとでもヤってろ。
蔑むような笑みを浮かべた飛影が剣を下ろした瞬間、蔵馬はひょいと携帯を地上に放った。
地上は遠すぎて、携帯の砕けた音は、微かにしか聞こえなかった。

「…何の真似だ」
「わからない?このオレが君だけにしてあげるって、言ってるんだよ」

あまりの上から目線の言葉に、飛影はぽかんと口を開ける。

「何を偉そうに…!ずうずうしいにも程がある」

何度言えばわかるんだ?
欲しいのは幽助なんだ。

しかめっ面をしたまま、飛影は続ける。

「オレはお前なんか、いらない」
「君がオレをいらなくても」

君をオレのものにするってオレが決めたんだから。
だから

「だから、君はオレのものなんだよ。わかった?」

くったくのない、笑顔。
言ってることは心底いかれているのに、綺麗な顔、綺麗な笑み。

それに一瞬気を取られた飛影の足元に、バラッと蒔かれた種が、勢いよく発芽する。

「…あ!」

飛び退こうとしたが、すでに遅い。
凄まじい勢いで伸びた蔓は剣をはじき飛ばし、飛影の手足に巻き付き、冷たいコンクリートに引き倒した。

「やめろ!!」
「さっき、途中だったでしょう?」
「……な」

長い髪が、夜風にふわりとふくらむ。

「…続きは、オレがしてあげるよ」
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