強き者...3
薄暗い洞窟を、ひた走る。
暗くて、狭くて、足場が悪い。
もう何度も同じ道を通った気がして、あのおぞましい虫たちが追ってくる気配はないかと辺りに警戒を怠らずに、飛影は肩で息をしながら立ち止まる。
通ってきた道も、目の前に広がる道も、まるで同じにしか見えない。
落ち着こうと、飛影は深呼吸をする。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は清潔で、甘い。
あの腐臭や黴臭さがなくなったことだけでも、ありがたく思うべきなのか。
ここは、この場所は、とてもいい香りがする…。
…いい香り?
ああ、そうか。これは…
顔に当たる光が、目を閉じていても眩しい。
ひどく重たく感じる瞼を開ける前から、その香りには気付いた。
緑の木に咲くみずみずしい花を思わせるその香りは、飛影のすぐ隣で眠る者の匂いだ。
銀色の髪をシーツに流し、眠る狐。
長い腕の中に飛影を収め、驚くほど長い銀色の睫毛に縁取られた目を伏せて、ぐっすり眠っている。
しかし、その体のあちこちに包帯が巻かれている。
それは飛影も同じだったが。
自分の体に巻き付けられた腕をゆっくりと解き、飛影は起き上がった。
夢の残滓を振り払うように、ゆるく頭を振る。
「痛っ……」
頭がズキンと痛む。
体は中も外も綺麗に洗われて清潔なシーツで包まれていたが、手を付いた拍子にここもズキリと痛んだ両手首には分厚く包帯が巻かれていたし、腹はまだしくしく痛む。
でも…
高い天井。
白い寝台。
やわかく清潔な寝具。
飴色の木の床には、いくつもの薬草の瓶や包帯が転がっている。
大きな窓の外には森の緑が溢れ、陽光が煌めく。
満開の花やたわわに実った果実から放たれる、冷たくきりっとした芳香。
天国、など行けるとも思ってないし、そもそもあるのかも定かではないが、もしあるのなら、こんな場所なのかもしれない。
ぼんやりと飛影は考え、自嘲めいた笑みを浮かべる。
……馬鹿馬鹿しい。
オレは何を考えているのだろう。
妖怪のくせに、こんな場所で死にたいとでも?
眠る狐を揺り起こす。
半分人間の時の蔵馬と違って、妖狐は寝起きが悪い。
「……んー、なんだ…」
「起きろ、蔵馬」
その声音に何かを感じたのか、狐は目を開けた。
金色の瞳が、笑みに細くなる。
「…飛影」
「………」
「飛影、気分はどうだ?」
「…………なぜ、貴様は来た?」
怒りと、そして、寂しさを含んだ言葉。
「飛影……?」
「オレを助けに来る必要など、貴様にはない」
赤い瞳が、伏せられる。
「おい、飛影、大丈夫か?もう少し眠った方がいい…」
「オレは」
オレは誰にも助けられたくない。
誰かに助けられてまで命を永らえたくはない。
そう言い放った飛影の瞳は、傷ついた色を宿していた。
***
「…自力で脱出できたとでも言うのか?」
「いや。貴様が来なければオレは死んだだろうな。だが」
オレは負けた。
そして捕らわれた。
「…ならば、それがオレにとっての最期だということだ」
森からの光と心地よい風の入るこの館で、飛影はきっぱりと言った。
沈黙する二人の間に、緑の香りのする風だけが流れる。
ニヤリと、狐が笑う。
「オレに助けられて、プライドが傷ついたってわけか、飛影?それとも恥ずかしい姿を見られて照れてるのか?」
「………!」
薄い唇を噛みしめて、飛影は窓の外を見る。
自分が助けられたという事実と、とんでもない醜態を見られたという羞恥、それらは同じ分量で、飛影を追いつめる。
「…自惚れるな、飛影」
「何?…なんだと?」
「オレは行きたかったから行った。オレのために行った」
面食らう飛影に、蔵馬は続ける。
「お前はオレのものだ。オレはオレのものを取り返すためだけに行った。お前のプライドなど、知ったことか」
トン、と肩を突かれ、飛影は寝台に倒される。
その体を跨ぐように覆いかぶさった蔵馬の銀色の長い髪が、飛影の体に降り注ぐ。
まるで銀の糸のシャワーように。
「ふざけるな…オレは、誰のものでもな…」
「なら、オレのものになれ。オレはお前をオレの側に置いておきたい」
そのお前をあんな虫に喰わせる?
笑わせるな。
蔵馬の長い指が、飛影の短い髪をかき上げる。頭の傷には触れぬよう、そっと。
赤い瞳から一瞬たりとも反らされない、金色の瞳。
吸い込まれそうな錯覚をおこす、黄金の瞳。
愛してる。
黒髪と碧の瞳を持つ蔵馬が始終口にする言葉を、狐の蔵馬は滅多に言わない。
けれど。
冷たい言葉と冷たい瞳で、言葉には出さずに、言葉よりももっと、強く。
強く強く、伝える。
…愛されている。
飛影は目を閉じた。
わかっている。
蔵馬の体にはいくつもの傷が付いていた。一番目立つのは首筋の傷で、もうすでに塞がりかけてはいるが大きな血管を狙って付けられたそれは、白磁の肌で異様に目立つ。
作戦を練り、背後からの奇襲という方法をとっても、無傷では飛影を助けられなかったのだ。
愛されている。
あの冷酷で名高かった妖狐蔵馬が、身を挺してでも助けたいと思ったのだから。
…この男に、どれだけ愛されているかなど、飛影でさえ、よくわかっている。
「お前に…会わなければよかった…」
飛影の消え入るような声。
閉じた目が、熱い。
愛されれば、守られれば……弱くなる。
愛されることを期待して、守られることを受け入れて、堕ちていく。
そんなことは、絶対に許せない。
何よりも…
最期だと思ったあの時、脳裏に浮かんだのは雪菜ではなかったし、もちろん躯でも幽助でもなかった。
最期に一目会いたいと願ったのが、蔵馬だったことが、飛影には許せない。認められない。
だって、それは、つまり。
「オレは…貴様に守られる筋合いはない!! オレはそんな弱い者じゃない…!」
「お前は弱くなんかないさ」
「黙れ!じゃあなぜ貴様は来た…!」
「お前さ、いい加減に慣れろよ」
「……慣れる?」
「オレに愛されてるってことにさ」
「な……!!」
視界を銀の糸が埋めたと思う間もなく、唇をふさがれる。
吸い尽くされた妖気はまだ回復しておらず、飛影は抵抗もむなしく口を開ける。
「ん…や、ふ、あ…やめっ…」
「…お前は知らないのか?強い者に愛されるのもまた、魔界では強さなんだぞ」
「…っん、あ……貴様の方が…オレより強いと言いたいのか!?」
「というよりは頭の差だろ。計画を立てて動く頭の良さがオレにはあって、お前にはない。ついでに言えば躯にもないな」
自分は頭がいいと、ぬけぬけと言う狐に、飛影は眉をしかめる。
「……そ、れは、悪賢いって言う……っん」
耳たぶを、ぺろりと舐められる。
「あ……ん、ふ」
「悪賢さであろうがなんだろうが、賢さだろ?」
「うるさ…い!はな…せ…」
「頑固なやつだなあ。じゃあ、こう考えてみろよ」
オレが、捕らわれる。
で、殺されそうだとする。
蔵馬はにこっと笑う。
実に美しい、誑しの笑顔。
「お前だって、オレを助けに来るだろう?」
「……な…」
大きな目を、飛影は丸くする。
「誰が……なんでオレが…貴様を助けになんか……」
行く。
必ず。
自分が到底敵わない相手だったとしても。
「あ……」
すとん、と憑き物が落ちたかのように、飛影の体から力が抜けた。
…オレは、蔵馬を、助けに行くだろう。
それが、命を懸けることになったとしても。
「…馬鹿な……」
呟いてみても、出てしまった答えは変わらない。
目の前の老獪な狐はそれを知りすぎるほど知っていて、ただニヤニヤしている。
「貴様…」
「ん?なんだ?」
「……貴様は…嫌なやつ…だ…っん!ぁ、は…」
話はついたと言わんばかりに、蔵馬は愛撫を再開する。
つい半日ほど前まで寄生虫に貪られていた体だというのに、蔵馬は蜜を垂らした果実か何かを口にするように、首筋や胸元へとねっとりと舌を這わせる。
体は洗ってあるとはいえ、よく気持ち悪くないな、と飛影は他人事のように考える。
けれど、押しのける気にもならない。
体が弱りすぎていて、これ以上抵抗もできそうにはないし、なにより…
「あ、ん……」
お前は、オレを助けに来る。
蔵馬のきっぱりとしたその言葉は、飛影の頑ななプライドを、僅かではあるが溶かしていた。愛し愛されている者同士の、当然の権利をお前は享受しただけだと、蔵馬は教えてくれた。
もちろん、意地っ張りな飛影がそれを全て受け入れたわけではないけれども。
「ぁ、あ、くら……」
気持ちいい。
飛影は頭をのけ反らして、小さく喘ぐ。
この光溢れる寝室。緑や花の香り。
暗がりを、闇を、魔界の腐臭を好んで生きてきた自分が、光溢れる寝室で、光の祝福を受けたような美しい物の怪に欲されていることが、今の飛影には何よりも気持ちがよかった。
「ん、あ…ああ」
一時的にではあるが、妖力を失っている飛影は、人間とそう変わらない。
邪眼も今は使うことはできず、包帯できっちりと閉ざされていた。
「ふ、あ……?」
蔵馬が小さく舌打ちをし、体を引き離したことに驚いて、飛影は目を開ける。
「……どうした?」
「危ない危ない。その気になるところだった」
「…?」
「馬鹿だな。気付いてないのか?お前今、まるっきり妖気が足りないんだ。人間並みだぞ」
「…だからなんだ?」
今オレが突っ込んだって、オレの妖気にあてられてお前は苦しいだけだ。腹の中も治り切ってないしな。
つまらんが二、三日はおあずけだな。
しょうがない、と溜め息をつき、蔵馬は飛影を抱き寄せ、横になった。
「……蔵馬」
「なんだ?煽るなよ」
長い髪に指を絡め、飛影は蔵馬の首筋の傷に口付けた。
「おい、よせって…」
「オレは、弱くなんかない」
「わかってるって」
「わかってない」
首筋の傷に、飛影は歯を立てた。
赤い瞳が、再び怒りに強く光る。
「わかっているなら、今、やれ。…人間並みだと?馬鹿にするな」
瞳の赤を映すかのように、飛影の白い頬が薄く染まった。
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