インソムニアの夜明け...13
「メイユールの現当主は、とことん変わり者らしいな」
コエンマは新聞を置き、感心するように、それでいて苦笑するように言った。
この部屋に入るのは蔵馬にとって二度目だ。
今朝の新聞を見ながら、コエンマの私室で二人はコーヒーを飲んでいた。
「メイユール程の財閥ともなれば閨閥結婚は当然のことじゃが、相手の一族は成り上がりだ」
「成り上がりでは…だめなのですか?」
「いや、誤解しないでくれ。そんなことはない。ワシとて、そんな風に人を見るつもりはないが…」
養子にした娘の結婚相手は、当然メイユール一族の者から選ぶだろうと皆思っていたのだ。それを、成り上がりの、しかもメイユールとはまったく関係のない一族の者を婿に迎えるということの意味がわかるか?
「つまり、メイユールの血は絶える」
だが、現当主は血筋ではなく、素質で選んだのだ。
人の上に立つ技量のある者を当主とし、そしてその者を支えることができる者を伴侶に。
国を左右する力を持つメイユールだからこそ。
「…だからこそ、そうしたのだろうが、誰にでもできることではないのう」
新聞の一面は、雪菜の婚約を報じていた。
相手の男は一代で財を成したという男の息子だが、どうもその男は子供たちに贅沢をさせる親ではないらしく、息子はごくごく普通の学校へ行き、放課後は高級なレストランで皿を洗うというアルバイトをしていたらしい。
皿洗いがなぜ客と会うことになったのかはわからないが、偶然にその息子と会った当主夫妻はいたく気に入り、素性を調べさせたのだ。
「この件で、今日はお前を呼んだのだ」
「この件で…ですか?」
「しばらくの間、気をつけて見てやってくれ」
「え?」
兄の様子を、ちゃんと見張っていてくれ。
あの兄が、今まで生きてきたのは妹のためだろう。
「妹の婚約で、自分は不要になったなどと思い込むかもしれん」
「そんなことを…?まさか…」
たった今、自分が飛影の側にいないことを意識して、蔵馬は急に不安にかられる。
もちろん、彼の腕にはタグがあるが…。
「わかりました。戻りますね」
「ああ、頼んだぞ」
***
「なんだ。騒々しい…」
ベッドで新聞を読んでいた飛影が顔を上げる。
階段を駆け上がってきた蔵馬は息を切らしていた。
「ええと…ごめんなさい。何でもないです」
「…変なやつだな」
新聞の一面で微笑む雪菜は、モノクロの写真でも美しかった。
一面を大きく飾るその記事は、血筋ではなく素質で跡継ぎを選んだメイユール財閥に対しての、困惑と賞賛とが半々に綴られている。
「…綺麗だね、雪菜さん」
「そうだな」
あっさりと飛影は答え、新聞をたたんだ。
「ねえ、飛影…」
「なんだ?」
「…やっぱり…さみしい、よね?」
ぽふ、とベッドに横になり、飛影は天井を眺める。
「…さみしいと言えば、さみしいし」
でも、まあメイユールの養子になった時点で閨閥結婚は覚悟していたことだ。それに、雪菜はそいつのことが本気で気に入ったらしいしな。
まったく気に入らない相手と結婚させられる可能性もあったんだから、いいんじゃないか?
そうだ、明日の夜、その婚約者が挨拶に来るとか言っていたな。
「…明日は、お前も一緒にここにいろ」
そう言って目を閉じた飛影に、蔵馬は毛布をかけてやる。
「飛影、あの…、俺は」
「なんだ?」
「俺はずっと、君の側にいるからね」
閉じていた目を開けて、飛影は、はあ?と眉をひそめる。
「…何の話だ?」
「いや、あの…つまり、妹さん、の替わりにはならないけど、でも…」
クスリと笑い、飛影はベッドから起き上がる。
ベッドの脇に置いてある椅子に座る蔵馬の膝の上に乗った。
点滴を吊るす器具が、カシャンと小さな音を立てた。
「…お前が、ずっと俺の側に?」
「う、うん。嫌かな…?」
…ずっとは、どうかな?
今のところは、いいぜ。
取り合えず、俺は眠いんだ。
蔵馬の膝の上に座ったまま、飛影は目を閉じた。
ベッドから引っぱった毛布を、蔵馬は飛影の小さな体を包むようにかけてやる。
それはひどく頼りなく脆い者に、蔵馬の目には映った。
自分の腕の中で眠る飛影をじっと見つめていた蔵馬は、薄く開いていた扉から部屋の中を見ていた者がいたことには気付かなかった。
***
騒がしくて、不細工な男だ。
飛影の第一印象は、それだった。
背が高いが、顔はいいとはいい難い。
だが、そのガチガチに緊張して喋る様子や、雪菜を見つめる視線には真摯な愛情が溢れていて、兄である飛影にとって合格点を出せるものだった。
「その、あの!お兄さん!家はさもしい成り上がりですし…つ、釣り合いは取れないのはわかっ…」
「…そんなことはない。俺たちこそ成り上がりなんだからな」
桑原と名乗ったその男は、兄妹が孤児だったことを思い出し、ますます慌てる。
「いやっ、そんなことは!俺、頭も良くないですし、でも」
「構わん。頭なら雪菜が持っている。…お前は雪菜を支えてくれれば、いい」
兄さんたら、そんな言い方ないじゃない。
雪菜がぷうっとふくれて反論する。
「いや、いいんすよ雪菜さん!俺は、あなたの支えに徹します!何でもします!」
ふくれていた雪菜はぷっと吹き出し、たちまち笑顔になった。
三人のやり取りを黙って見守っていた蔵馬も、思わず笑う。
妹は相手の男を気に入ったようだと飛影は言ったが、この婚約者はそれ以上に彼女にベタ惚れなのは一目瞭然だった。
ふと、飛影が微笑んだ。
「…妹を、頼む」
そう言って、小さくではあるが頭を下げた飛影に、蔵馬も雪菜も目を見張る。
廊下にまで聞こえるような大声で、まっかせてください!と婚約者は胸を張った。
***
「…不細工な男だったな」
「そんなことないよ。それに、とてもいい人そうだったよ」
飛影の病室で、二人は遅い夕食を摂っていた。
「…もういい。下げろ」
三分の一ほどしか食べてないというのに、飛影はスプーンを置いた。
「もう少し食べないと…」
「いらん。下げろ」
蔵馬は溜め息をつくと、トレイを廊下に置いてあるワゴンに置きに行く。
部屋に戻ると、ベッドに座った飛影は、パジャマのボタンを外していた。
赤い瞳が、蔵馬を見つめる。
「…したい。さっさと来い」
「今日は、やめとこうよ」
蔵馬は、眉をひそめた。
今日の飛影は頭痛がひどいらしく、いつにもまして顔色が悪い。
「今日は、もう寝ようよ。頭が痛いんでしょう?」
「…痛むのは、俺の頭であって、お前の頭じゃないだろう?…今、したい」
眇めても、その瞳は綺麗だった。
「だめだよ…本当に、顔色悪いよ」
「なら、キスだけでいい」
意外にも、飛影はあっさりと譲歩した。
今まで、キスだけでいい、などと言われたことはなかった。
蔵馬はおずおずと飛影の頬に触れると、唇を重ねるだけのキスをした。
「…おやすみ、ひえ…っ!」
髪がぐいっと引っ張られ、後ろで結んでいたヒモが解ける。
長い髪が肩にバサリと落ちる。
「ちょ、ひえ、い!」
小さく温かな舌が、蔵馬の口内にもぐり込む。
重ねるだけの軽いキスは、たちまち深く濡れたキスになる。
「だめ…だよ…飛影……っ!?」
痛みにも似た、刺激。
ビリッとした奇妙な味が、蔵馬の口の中で弾けた。
舌を刺すような、苦味……!
「……ひ、えい…!?」
飛影は唇を離すと、赤い舌をチラリと見せて妖艶に笑った。
「…どうだ?初めてだと…効くだろう?」
薬、だ。
…薬…!?
蔵馬が気付いた時にはもう、遅かった。
体が、舞い上がる。
薬を飲み込んだ喉から、胃のあたりまで、バアッと熱さが広がる。体が火照る。
幸福感。
体が蕩けるような、快感。
…力が、抜ける…
「……あ…っ」
「どうだ?…いいものだろう?」
クスクス笑いながら、飛影はベッドの上で膝立ちになる。
右腕に留められた点滴を引き抜き、床に放り投げた。
ベッドに仰向けに倒れた蔵馬に飛影は跨がり、シャツのボタンを引き千切るように外した。カシャ、と音を立てて胸元からこぼれた、解除キーの点滅する、小さな銀の板。
飛影はその細い鎖を摘み上げ、点滅する数字を自分の右腕のタグに打ち込んだ。
ピッ、と短い電子音と共に、タグが外れる。
無機質なそれは、ベッドでバウンドし、床に転がった。
「礼を言うぜ」
お前のおかげで、ここから出れる。
安心しろよ。三十分もすればその薬は切れる。一回くらいじゃなんともないさ。
ろくに動けないでいる蔵馬を見下ろし、飛影はニッと笑う。
パジャマを脱ぎ捨てると、小さなクローゼットから出した服に着替えた。
「…最後に、もう一度キスしてやろうか?」
私服に着替えた飛影が、蔵馬の髪をかき上げた。
パジャマではない服を着ても、青ざめた飛影は病人にしか見えない。
「ひ、えい…どこ、に…行…」
「お前には関係ない」
そっけなく言うと、飛影は蔵馬に唇を重ねた。
先ほどとは違う、乾いたキス。
「じゃあな」
冷たい唇が離れようとした瞬間、小さなうめき声が上がった。
「…うぁ…っ」
だが、その声は蔵馬のものではない。
冷たい笑みの消えた飛影の唇から、それは発せられた。
「あ……?」
包帯の巻かれた額が、ドクンと脈打つ。
蔵馬に薬を与えた際に、自分でも少し飲み込んでしまった。
そのせいだろうか?
いや、違う…
……違う!!
「ア、うあっ!アアア!!」
「飛影…飛影!?」
思い通りにならない体がもどかしい。
蔵馬はよろよろと起き上がり、飛影の側に…
「…なっ…!? 飛影!」
額の包帯に、薄く赤色が滲んでいる。
「飛影!しっかりし…」
飛影は赤い瞳を見開き、動く方の片手で額を押さえ、震えていた。
違う。
いつもの痛みとは、違う!
ドクンドクンと、額の瞼が音を立てているような気さえする。
「っは……あ…ぅ」
息、が、できない。
熱くて…何か…破裂する、ような…!
「アアアアッ!!」
ブワリと、白い包帯を血が染めた。
「あ、あ…っウア!アアァアアアアッ!!」
包帯が抑えきれなかった血が飛影の顔を染める。
天井の高い部屋に、その悲鳴は響き渡った。
***
今だ動きの鈍かった蔵馬の上に、飛影の体が被さるようにゆっくり崩れ落ちた。
誰も、駆け付ける気配はない。最上階にある病室はこの部屋だけだからだ。
そうでなければ、この悲鳴に患者も職員も気付いたはずだ。
「飛影!飛影っ!!」
ほんの少しの量だったはずだ、薬物は。
なのに、混乱する。
飛影が目の前に倒れているというのに。
今、俺は何をしなければならないのか?
蔵馬は霞みがかる頭を目覚めさせるように強く振ると、震える手で、飛影の額の包帯を外した。血でぐっしょり濡れた包帯は、ひどく扱いにくい。
「早く…」
動きの鈍い自分の指を叱るように、蔵馬は呟く。
その言葉に応えるかのように、包帯の結び目が解け、ガーゼがずるりと落ちる。
「な…!!」
…紫の、瞳…
ずっと閉ざされていた瞼が開いたそこには、紫色の瞳が輝いていた。
瞬くこともないその瞳は、ギョロリと蔵馬を見た。
「う…あ…」
「飛影!気付いた!?」
「………?」
血に濡れる自分の顔をなぞり、飛影の左手が、その額の目に行き着く。
「目…が…?」
「待って!今、人を呼…」
ナースコール用のボタンに伸ばそうとした蔵馬の手が、血塗れの手に、止められる。
「…痛くない」
「何言って…!…誰か呼ばないと…」
飛影の様子がおかしいのに気付き、蔵馬がハッと顔を上げる。
「飛影…?痛くないって…?」
「痛くない…」
飛影自身も、ポカンとしている。
もう何年も何年もの間、この頭痛は消えたことがなかった。
どんな薬も、どんな治療も、緩和するに過ぎなくて…
痛みの波こそあれど、一瞬たりとも消えたことはなかったのだ。
なのに、今。
まるで目の前の霧が晴れたかのように、
嘘のように痛みが消えた。
窓ガラスの夜の闇に映る自分を見て、思わず飛影は笑い出した。
そこに映るのは、血で汚れた顔をした、三ツ目の、化け物。
夢で見た通りの、姿だ。
「…見ろ、蔵馬。傑作だな。俺はやっぱり化け物らしいぜ?」
「何言って…待って、コエンマ先生を…」
立ち上った飛影は、首を振って、また笑った。
その笑みは、今までのひっそりと冷たい笑みではない。
弾けるような、心底楽しそうな、その笑顔。
引きはがしたシーツで顔を拭い、前髪で額の閉じた瞼を隠す。
もうこの額の瞳は、開くも閉じるも、飛影の自由だった。
「待ってよ!飛影っ!!」
「…待たない。俺はもう待たない」
そして、ドアへ向かって駆け出す。
その小柄な後ろ姿を追って、もつれる足で蔵馬も駆け出した。
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