この手で...1

誰も悪くない。
誰のせいでもない。

口の中で呪文のように小さくそう呟き、ガタガタ揺れるバスの窓から、飛影は外に目をやった。

まだ芽吹きには遠く、葉を落としたままの木々が、古びたバスの車体すれすれまで枝を伸ばしている。
元は深緑色だったらしいシートは色褪せあちこちが擦り切れ、所々綻びて中の硬そうな黄色いスポンジを覗かせている。
山奥の村へと向けて走るバスの中、三人しかいない乗客は、てんでばらばらに座っていた。

窓に頭をもたせ掛け、木々のトンネルをくぐるような山道をぼんやり眺めている飛影の左手は、傍らの座席に置いたナイロン製の大きな鞄の上にある。
右手はまるで人形のように、色褪せたシートにだらりと落としたままだ。

天気は良く、他の乗客の座る席とは離れている。
少しなら窓を開けても構わないだろうと、洗濯ばさみのような形の旧式な掛け金に手をかけた飛影だったが、二ヶ所の掛け金を両手で同時に押さなければ開かない仕組みであることに気付き、ため息をついた。

飛影以外の乗客は二人とも老婆で、一人は何やらたくさんの荷物の袋を開け、果物やら野菜やら、これをあちらに、あれをこちらにと整理整頓に忙しい。
もう一人はといえば、悪い夢でも見ているのか、険しい顔をして眠っている。

無人駅から出ている、一日にたったの三本のバス。
一時間ほど前に降り立った、改札はおろか屋根すらない駅も、この山道も、小さくて古ぼけた見たことのない型のバスも、時間というものが止まったかのように飛影には感じられた。

だらりと落とした右手を左手で持ち上げ、膝の上に置いた。
そうしてまた、飛影の記憶はあの日へと戻って行く。
***
妹の雪菜は新体操部に、兄の飛影は陸上部に。所属の違う双子は帰りの時間が一緒になることは滅多になかった。
あの日二人が一緒に学校から帰ったのは、二人の保護者であり姉のようなものでもある、軀の誕生日だったからだ。

小遣いを出し合って買ったささやかなプレゼントと丸いケーキ。
オレが稼いだ金を無駄遣いするな、ときっと軀は笑うだろうし、けれど喜んでくれることもわかっていた。

突っ込んできた車を運転していた男は、耄碌していたわけでも酔っぱらっていたわけでも、電話をしていたわけでもない。
脳梗塞。高校のすぐ近くの通学路に猛スピードで突っ込み、大破した車の中で即死した男は解剖され、出てきた答えはそれだった。
まだ四十代と若く、なんの持病も前触れもなかったと男の家族は言った。

土下座をし泣きながら詫びる女の傍らで、体ばかりは大きいが、兄妹とそう歳の変わらない息子は途方に暮れた顔をしていた。

とはいえ、術後の高熱で、飛影の記憶は途切れ途切れだ。
学校のすぐそばの道路は交通量もそれなりに多い。タイヤが軋んだ音を立てた次の瞬間、一見頑丈そうなガードレールはあっさりと宙を飛んだ。

いきなり目の前に出現したかのように思えた、白いバン。
本当に驚いた時には声を上げる暇などないのだと飛影は初めて知った。咄嗟に妹を抱え、横へ飛ぶのが精一杯だった。

ぼんやりと、目を開けた。

辺り一面が赤く染まり、それはなぜか幼い頃に雪菜が着ていた浴衣の、赤い金魚の模様を飛影に連想させた。
つんざくような金切り声が妹のものだと気付いた時には、周囲を人に囲まれていた。見知った顔の教師が携帯電話でヒステリックに何かを叫んでいた。

二人とも即死していてもおかしくない事故なのに、君は本当に運動神経がいい、と言った警察官は褒めたつもりだったのか、慰めたつもりだったのか。
ほとんど千切れかけていた右腕を、なんとか繋いでくれたという腕のいい医者には感謝はしているが。

憔悴し切った顔で、土下座をし泣きながら詫びる女。
その息子は母を守るつもりなのか、健気に無言で寄り添っていた。
ベッドの足元に腰掛け、唇を噛みしめていた妹。

傍らに立った軀の姿は、痛みで朦朧としている飛影の目にも、いつもと変わらず凛とした佇まいに見えた。

「立ってくれ」

軀はかがむと、女に手を差し出し、立ち上がらせた。
差し出された手の片方が義手であることに気付き、女が息を飲むのが気配でわかった。

「ここに寝ているのはオレたちにとって大切な家族だ。だが」

女にしては低い声が、ふと途切れる。
医療機器の立てる規則的な音だけが、しばし部屋の中に響く。

「…あんたの夫は何か間違いをおかしたわけじゃない。ただ、運が悪かった。まあ、運の悪さで言えばこっちもたいがいだけどな」

わざわざ詫びに来てくれただけで充分だ。
あとは保険会社だかあんたの旦那の会社だかに、任せておけばいい。

「そっちは家族を失った。こっちが失ったのは腕一本だ。生きている。家に帰って、あんたはあんたの家族を弔ってやってくれ」

女の泣き声に、いつの間にかもうひとつの泣き声が重なる。
大きななりをした息子は小柄な母親の肩を抱き、お父さん、と幼子のように声を上げて泣いていた。
***
「期待をさせるのは酷だと思う。だからはっきり言うのを許して欲しい」

右腕以外の怪我は大丈夫、時間はかかるけどちゃんと治るよ。
けれど右腕はね、一応リハビリはやってみるけど、君の右腕は多分もう動かすことはできない。
血管はなんとか繋がったけれど、神経はほとんど繋がらなかったんだ。

動かない腕が付いていることに何の意味があるのかとと問うた飛影に、医者はペンをとんとんとデスクに落とす。

「腕や足のない苦労は実際の不便とはまた別のところにもある。片手や片足がない人を見たら、大抵の人間は振り返ってもう一度見る。チラリと、あるいはまじまじと。いちいち人に見られるというのはあまり気持ちのいいものじゃない」
「なるほどな。飾りでもあった方がいいというわけか」
「もちろん義手についても検討は可能だ。でも取りあえずリハビリをちゃんとやってみよう」

君はまだ若い、これから先、たくさんのいいこともあるはずだよ。
月並みな言葉とともに、医者はキーボードを叩き、カルテを閉じた。

薬臭く生ぬるい、病院の空気の中にいたのは一ヶ月間だ。
その後は電車に乗って二ヶ月ほど通院した。

意味がないと双方が知っている、形ばかりのリハビリ。
鎮痛剤。神経の回復を高める薬。筋肉の緊張を和らげる薬。

病院で処方されたもろもろの薬はどれも何の効果もなく、副作用の吐き気に悩まされるだけ損な気がして、飲むのを止めてしまった。
一応鞄に入れてはきたが、きっとこのまま捨てることになるのだろう。

バスの揺れに身を任せ、飛影は目を閉じた。
***
「湯治?」

自分でできる、という飛影の抗議を無視し、風呂から上がった飛影の腕にパジャマの袖を通してやりながら、軀は頷く。
入れ替わりに風呂に入っている雪菜が使うシャワーの音が、かすかにキッチンまで聞こえた。

「知り合いが、その……。湯治宿、をやっていてな」

湯治宿、という言葉には、軀らしくもなく口ごもるような響きがあった。
そもそも、自分でできると言う相手の世話をわざわざ焼くようなこと自体、らしくもない。

だいぶ山奥だが、いい湯が湧いている。
もう薬臭い病院のリハビリにも飽き飽きだろう?しばらく行ってきたらどうだ?

「学校には休学届を出しておくさ」
「…そうだな」

確かに、飛影としても病院は飽き飽きだ。とはいえ学校に戻って何をするというのか。
この事故の入院で出席日数は足りなくなり、進級はできないと聞かされていた。
普通の入学試験を通って入った雪菜とは違い、スポーツ推薦で入った飛影は、退学にされるわけではないにしても、運動ができないならば進級できようができなかろうが、今さら学校に居場所もない。

「ほら、いいぞ」

スナップボタンを下まできちんと留めてやり、軀は飛影の向かいの椅子に座る。
グラスとマグカップを取り出し、グラスには冷凍庫から取り出したストレートのウォッカを注ぐ。マグカップには牛乳を入れ、砂糖をひと匙加えると電子レンジに入れた。

黙ったままの二人の間に、ピピッという場違いに軽やかな電子音が響く。

「酒の方がよかったか?」
「いや、これでいい」

未成年は酒を飲んではいけないなどという常識は軀にはない。甘くあたたかいカップを左手でぎこちなく持ち、飛影は軀の義手を眺める。
何か理由や信念でもあるのか、軀の義手には人間の皮膚に似せたカバーがない。禍々しく剥き出しの金属があるばかりだ。

初めて軀に会った日のことを思い出し、飛影はあたたかな牛乳を喉に滑らせた。
***
田舎ならではの大きな古い家は白と黒の幕で覆われ、全身これ不幸の匂い、とでも言うべき不穏を振りまいていた。

長患いだったのだから覚悟はできていたはずだった。それでもやはり母が死んだという事実は兄妹を打ちのめしたし、途方に暮れさせもした。

母親しかいないのに…
こんなに若くしてなんてこと…
あのろくでなしの父親には連絡はつかないの?
連絡?馬鹿馬鹿しい。生きてるのかさえ…
いったいあの子たちはどうなるの?
遺産が少しはある…誰か引き取れれば…
無理よ、お金の問題じゃないわよ…

遠縁の親族たちのひそひそ声。
指を絡めるように握っていた妹の手。

とはいえ、あの時も今も、飛影はあの親族たちを責める気にはなれない。
母は二人の子供が高校に行く学費程度の金はかろうじて遺したが、生活には他にもあれやこれやの金がかかる。それっぽっちの金で子供を二人も引き取る者などいないだろう。

金の問題ですらなかったのかもしれない。
自分に子供がいれば遠縁の子供を引き取るなど冗談ではないし、子供のいない者が引き取るには二人の十二歳という年齢は中途半端で難しかった。
一人ずつ引き取ろうにも、別れて暮らす気はないという、双子の強い意思表示もあった。

囁き声と線香の煙る本家の広間に現れた女の姿を、飛影は昨日のことのように鮮やかに思い出せる。
とても、印象的な女だったから。

男物の黒い喪服をキリッと纏った、義手の女。
真っ直ぐな糸に引き上げられているかのように姿勢が良く、美しい顔立ちなのにその半分には傷痕が広がり、義眼である右目は何も映してはいない。
真冬の板張りの床はひどく冷たく、座布団を敷いても冷気が体に染みるような空気の中で、それを気にする気配もない。
まるでこの女こそが、この古く厳めしい家の主のように思えた。

背を丸めた本家の老婆には目もくれず、遺影に手を合わせると、棺桶の側に座る二人の子供を見た。

「気の毒だったな」

素っ気ない、礼儀としてはどうかと思うような言葉だった。
それでも、飛影も雪菜も不思議と腹は立たなかった。女のぶっきらぼうな言葉には、悼む気持ちがあったからだ。
なんとなく曖昧に頭を下げた二人に、女は続けた。

「お前たちは、これからどうするんだ?」

あまりにストレートな問いに、親族たちが騒めいた。
騒めくばかりで、誰も答えない。兄である自分が妹を守らなければならないと、飛影は顔を上げた。

「オレたちは…」
「氷菜にはお前たちを引き取るほど近い親族は、いなかったと思ったが」
「…まだわからん…が、オレたちは一緒に暮らすつもりだ」
「どうやって?」

邪気のない、そのままの問い。
飛影は唇を噛んだ。

「行くところがないなら、オレの所に来るか?」

騒めきが、ぴたりと止んだ。

「考えておけばいい。別に今ここで返事をする必要はないぜ」
「軀、お前はそんな体で…」

置き物のように座っていた老婆が、声を上げた。
軀と呼ばれた女は振り向き、葬儀の場とは思えない晴れやかな笑みを見せた。

「生きてたのか婆さん。しぶといなあ。オレの体がなんだって?」

居並ぶ親族を、ガラス玉の目が見渡す。
顔の半分を覆う傷跡のせいで、残り半分の顔の美しさが一層際立つようだ。
誰もが目を合わせるのを恐れるかのように、顔を伏せた。

「…お前はまだ、そんな年じゃ…」
「婆さん、惚けたのかオレに興味がないから忘れたのかは知らんがな、オレはとっくに成人してる」
「あんたは子供を育てられるような…」
「育てる?この二人は見たところ床を這って泣いているわけでも、小便を漏らすような年でもなさそうだがな」

軀はまた笑うと、双子に名刺のような小さな紙を差し出した。

「別にお前らの親になろうってんじゃない。どこか暮らす場所が必要だろう?」

ま、考えておけよ。行く場所がないならオレの所に来たらいい。
雨風しのげる屋根はあるし、飯くらいちゃんと食わしてやるよ。

「じゃあな」

金属の指先を優雅にひらりと振り、来た時と同じようにさらりと帰る後ろ姿。

きゅ、と指先に力が伝わる。
雪菜が自分と同じように感じたことを、飛影はもちろんわかっていた。
***
一緒に暮らして三年以上も経つというのに、双子にとって未だに軀は謎の女だった。

二十代にして小さな会社を経営しているという話も不思議だったし、輸入品、という漠然とした回答だけで、いったい何を扱う会社なのかも教えてはくれない。
会社の場所ですら駅名までしか双子は知らず、社員がいるのか、いるのであれば何人いるのかすらもわからない。
双子に与えた保険証やら何やらの書類からすると会社が存在しているのは確からしいが、ネットですらヒットしない会社というのはずいぶんと謎めいている。とはいえ、収入のない者が法的に未成年者を引き取れるはずもない。ある程度の収入はあるのだろう。

美人なのだが、それこそ人を振り向かせるような傷跡が顔を含めた右半身に広がっている。が、隠すそぶりはまるでない。いつ、どこで負った傷なのかもわからない。
家事は苦手で、好きなことは車の運転だと言う。水のように酒を飲むが、酔っぱらっている姿は見たことがない。
親どころか祖父母が生きていてもおかしくない年齢だが、連絡を寄越す親族もいない。
恋人や友人の気配もないが、単純に家に連れてこないだけの話なのかもしれない。

上下左右に人が住んでいるなどぞっとする、と言う軀の住み家であり、今は三人で暮らす家はそう大きくもない一軒家だが、ここが賃貸なのか持ち家なのかもわからない。
一階にはごく普通のキッチンやバスルームやトイレといった水回り、居間と軀の仕事部屋と寝室、二階には小さな部屋が三つ、季節ごとの服が入った箱がいくつかあるだけの、ガランとしている納戸が一つある。
たいした広さのない庭は、何本かの木々がぽつぽつとはあるが、手入れもなく雑然としている。

「お前はカタギなのか?」
「カタギ?変な言葉を知っているな」
「…危ない仕事をしているのか?」

軀の元に身を寄せて半年もした頃に、雪菜がいないのを見計らい、飛影が口にした言葉だ。

「心配するな。別に危ない仕事じゃない。ただ、子供に首を突っ込まれるのはごめんだからな」
「オレたちに何か手伝えることはないのか?」
「大人になったらな。それに、オレは家事が嫌いだ。お前たちが料理や掃除や洗濯をしてくれるだけでも大助かりだ」

そう言うと、慣れた手付きで気に入りのウォッカをグラスに注ぎ、軀は笑った。
***
もちろん、出会った時には十二歳だったのだし、ずっと入退院を繰り返していた母親がいたのだから、双子にとって自分の面倒は自分でみるものだった。
スナップボタンの付いたパジャマという、いかにも体の不自由な者に向けて作られているパジャマはやさしげな淡い黄色で、黒や白のモノトーンの服を好む飛影はどうにも落ち着かない。

かすかに聞こえるシャワーの水音は、まだ続いている。
母親が生きていた頃から、カラスの行水とからかわれていた雪菜なのに、風呂に入る時間はどんどん長くなっている。

そのことに飛影も軀も気付いていたし、その理由もわかっていた。

使いにくい左手であたたかな牛乳をゆっくり飲み干し、飛影は口を開いた。
なんとなく、今なら聞いてもいいような気がしたのだ。

「軀」
「ん?なんだ?」
「その体は、どうしたんだ?」

飲んだことがあるわけではないが、ストレートのウォッカはとろりとして見える。
冷凍庫で冷やしてあった瓶は、テーブルの上で無数の汗をかいていた。

「お前たちの父親は、多分ろくでなしだったんだろうな」

冷たいウォッカが注ぎ足され、あっという間に飲み干される。
飛影の大きな目を覗き込み、軀は続けた。

「でもな、オレの父親ほどはろくでなしじゃなかったと思うぜ」

それは軀の答えだ。
思ってもみなかった答えに、飛影は何も返せない。

「お前が雪菜を助けてくれたことは嬉しい。でもな、オレにとってはお前たちはふたりとも大事なんだ」

そんなつもりじゃなかったのに、三年も一緒にいると情も湧くもんだな、と軀は苦笑した。
グラス越しに手を伸ばし、冷たい金属の指先で、黙ったままでいる飛影に頬の触れる。
ガラス玉の目を、飛影は見つめた。

「別に、オレは自分の人生を不幸だと思ったことはない」

蛍光燈を外し、雪菜の趣味で取り付けた、薄いガラスの洒落た照明器具のオレンジ色の明かりに義手を掲げ、軀は笑う。

「…自分を哀れんだことなどないが、わざわざオレの誕生日にお前たちを傷付けることはないだろ、って思うよな」

強気で、どことなく人を食ったような余裕綽々の態度で。
いつだってそうだった軀の瞳に浮かぶその色は、傷つけられた少女の目だった。

「誰も悪くない。誰のせいでもない。でもオレは。…飛影、お前と雪菜が傷付いたことが、悔しい」
***
何もない道にバス停だけが唐突に突っ立ている停留所で、片手で大きな鞄を持ち、飛影はバスを降りる。
屋根だとかベンチだとか、そんな物もなく、まさに何もないバス停で重い鞄を地面に下ろし、飛影はあたりを見渡す。

古ぼけたバスには見慣れた運賃箱すらもなく、もちろんカードや携帯電話でピッと決済できるわけもない。
荷物を持ったままバス代を払うということさえ、片手では難しい。いっそ腕がなければ相手にもわかりやすいが、垂らしたままの腕はある。
ぎこちなくもたもたと小銭を渡す飛影に、初老の運転手は不思議そうな顔をした。

二人の老婆は一つ前の停留所、というか、停留所でもない場所で降りて行った。
運転手も何も言わずにそこに止めたのだから、いつものことなのだろう。この辺りにあるという集落の住人らしい。

山に入ってからというもの、民家もろくになく、店など一軒もなかった。
子供の頃に住んでいたのも田舎だったが、これほどではなかった。こんな山奥で生活が成り立つのだろうかと、飛影は首を傾げる。

「さむ…」

街中より寒いだろうとは思っていたが、三月の今でさえここは春というより冬の寒さだ。春の気配はどこにもない。
ジーンズにTシャツ、その上に厚手のパーカーを羽織っただけだった飛影は思わず肩をすくめた。

お前を遠くへやりたいわけじゃない。
だが、わかっているだろう?

駅まで見送りに来た軀は、雪菜に飲み物を買いに行かせ、その背が見えなくなったのを確かめてから飛影に言った。

「ああ、わかっている」

雪菜の後悔を、雪菜の苦しみを。
自分がガードレール側にいたのなら。自分がもっと素早く動ければ。ケーキを引き取りに行く時間をほんの五分でも早めていれば。前もってプレゼントを用意するのではなく当日にプレゼントを買いに行くことにしていれば。

いくつものたらればに、あの日から雪菜はずっと苦しめられている。
動かない飛影の右腕を見るたびに、何度も何度も。

「少しの間離れれば、雪菜も落ち着くさ」
「ああ」
「それから…」

店を出た雪菜が、三つのカップを抱えてこちらに向かって歩いてくるのが見える。
背の低い飛影に合わせて、軀は少しかがむと、小声で言った。

「いいか飛影、できるだけ…」

続きはもはや、囁き声だった。
意味のわからない言葉に飛影が返事を返すより先に、作り笑いを浮かべた雪菜が熱いカップを差し出した。
***
間もなく日が沈むというのに、迎えが来る気配はない。
バス停の消えかけた時刻表には、行くも戻るも今日のバスはもうない、ということが印されている。
風が木々の間を通り、枯れた葉を舞い上がらせる。遠くで鳥の声がしたが、いったい何の鳥なのか飛影にはさっぱりわからない。
引っぱり出した携帯電話は、案の定ここが電波の入らない場所であることを告げている。

短い髪を乱すように、一層強い風がひゅんと吹き抜けた。

「…さむ」
「そんな薄着で来るから」

急に後ろからかけられた声に、心臓が止まるかと思った。

「うわ!」
「ごめん、待たせた?」

真後ろに、男が突っ立っていた。

形の良い大きな瞳、すっと通る鼻筋、綺麗な唇、長い髪。驚くほど整った顔。
顔だけ見れば、女だと思ったかもしれない。
だが、その声も背の高さも広い肩幅も大きな手も、間違いなく男のものだ。

「あ…」
「どうぞ、乗って」

男の後ろには、古ぼけた軽トラックが止まっている。

軽トラック…?
車が近付いてきた音など聞いた記憶がない。絶対に聞いていない。こんな静かな場所で聞き逃すはずもない。
文字通り忽然と現れたかのように思える男と車に、飛影は挨拶も忘れて立ち竦む。

「どうぞ?」
「え、あ」

男はひょいと荷物を受け取り、荷台に乗せる。
助手席のドアを開け、突っ立っている飛影を不思議そうに振り向く。

「乗れない?駄目なのは片腕だけって聞いてたけど。足はもう動くんだろう?助けがいる?」
「…いらん。乗れる」

ちょっとムッとして、飛影は助手席にひょいと乗る。
バタンとドアを閉め、運転席に乗り込む男を待った。

「オレは、蔵馬」

その言葉に、自分が挨拶すら忘れていたことに飛影は気付いた。

「オレは飛影。…世話になる」
「世話、ねえ」

エンジンがかかり、車が走り出す。
運転が好きな軀は好んでマニュアル車に乗っていたが、この車もそうだ。
単純に軽トラックというものはマニュアル車しかないのかもしれないが、などと飛影は考える。

山道をガタゴトと走る車に揺られるまま、飛影は隣を盗み見る。

古い知り合いがやっている湯治宿、と軀は飛影に言ったが、この男はせいぜい飛影の二つ三つ上、同じ十代にしか見えない。
ということは、軀の知り合いというのはこの男ではないのだろう。

バイトだろうか?それとも宿の身内が手伝いを?それにしても、ものすごく綺麗な顔をした男だ。
馬鹿みたいに人がいる東京で暮らしていたって、これほど整った顔にはそうそうお目にかからない。おまけに背が高く、手足も長い。
癖のある髪を長く伸ばしていて、人に薄着を指摘したわりには、ジーンズに長袖のシャツ一枚という出で立ちだ。

どんどん細くなっていく山道を、軽トラックは器用に走り抜けていく。対向車が来たらどうするのだろうと不思議になるような細い道だ。
民家どころか建物は何も見当たらず、人っこひとりいない。街灯などあるわけもない。

なんだか、昔話、それもホラー版の昔話のような場所に迷い込んだ錯覚に、飛影は眉をしかめる。
ここでもし置いていかれたら、無事に麓にたどり着ける気がしない。

そんな飛影の心を読んだかのように、突如道が拓け、大きな平屋と立ち上る湯気が見えた。
***
案内された部屋は八畳ほどだろうか。押し入れには布団。小さな文机と座布団、カバーのかかった鏡台。
どれもこれも宿と同じく古ぼけてはいるが、掃除は隅々まで行き届いている。
宿は年月を経た木が放つ匂いと、温泉特有のにおいと、夕食なのだろう、何か醤油を使ったらしい料理の匂いに満ちている。

荷物を置いたら来て、と言われた広間は、食事のための場所だと男は説明する。
野菜の煮付けに焼き魚。漬け物に味噌汁。飛影にはなんだかわからない雑穀の混ざった薄茶色の飯に、熱い焙じ茶が湯気まで香ばしい。

「夕食は六時。朝食も六時。昼はここに置いておくから好きな時間に適当に」

湯治宿っぽい食事だ、と飛影は考え、そもそも湯治宿の食事がどういうものであるかなど、自分が知らないことに気付く。
なんというか、健康に良さそうな食事、と言うべきか。

「食事は毎日こんな感じだよ。朝と昼はもっと粗食だけど。若い子には物足りない?食べ足りなかったら廊下にあるみかんでも食べて」

そもそも二つ三つしか違わないように見える男からの「若い子」という言葉に、飛影は首を振る。
以前なら物足りなく感じたのかもしれないが、あの事故からずっと食欲は戻らないままだったし、利き手ではない左手での食事は、スプーンやフォークを使ってもひどく疲れるものだった。

食事場所らしいこの部屋は広く、二十畳ほどはあるだろうか。
二組の老夫婦と、若くもないが年寄りでもない女の二人連れが、離れた席で同じ膳を前にしていることに飛影はほっとする。
これで誰もいなかったら、本当にホラー映画だ。

膳の前の薄い座布団に座り、ぎこちなく、飛影は左手で箸を取る。

スプーンやフォークはあるかと、あの男に聞くのははばかられた。なんとなく、みっともないことのようで。
長めの箸を左手で持ち、危なっかしい手付きで煮物の鉢のかぼちゃに刺す。
褒められた行儀ではないが、正しく箸を使うのはまだ無理な話だ。

大きな柱時計と、やかんを乗せたストーブが時々、油を飲み込むような不思議な音を立てる以外、部屋は奇妙に静かだった。
二組の老夫婦も女の二人連れも、どちらもずいぶんと無口だ。

食べ始めて十分もしないうちに、飛影は箸を置く。
認めるのは癪だが、へとへとだった。電車やバスに長々揺られた疲れもあるが、箸で食事をするということがこんなに困難だとは思わなかった。
いつの間にか部屋にいたはずの他の客もいない。ならば手づかみで食べてもいいのかもしれないが。

疲れが空腹を遠ざけ、飛影はうとうとと船を漕ぐ。
ストーブのあたたかさが体の奥まで染み込むようだった。思わず畳に寝そべろうとした途端。

「あれ?食べてないの?」
「わっ」

茶のおかわりらしい急須を持ち、あの男が立っている。

「口に合わない?」
「いや…、合わないわけじゃ…」
「あ、そうか。ごめん。手が使えないんだったね」

ちょっと待ってて、と言い残し、他の客の膳を重ねて部屋を出ていく。
スプーンやフォークがいることに気付いたのだろうか、と飛影は考えたが、手ぶらで男は戻ってきた。

「おまたせ」
「な、おい、ちょ…っ」

ひょいと抱き上げられ、あぐらをかいた足の上に座らされる。

「え、何、なんだ…」
「はい。あーん」

箸を取った男は飛影を膝に乗せたまま、後ろから覆いかぶさるようにして、口元に煮たかぼちゃを差し出す。
たっぷり四十センチ近い身長差がある男を相手に、動く方の左手で飛影は必死にもがく。

「バカか!何考えて、離せ!」
「箸、使えないんだろう?食べられないじゃないか」
「そうじゃないだろうが!」

腕の中からようやく抜け出し、部屋の隅まで転がるように飛影は逃げる。

「そうじゃない?」
「そうじゃない!赤ん坊じゃあるまいし!」
「誰も見てないよ」
「見てるとか見てないとかじゃない!たかが飯を食うのに人の世話になっていられるか!」
「人の世話?」

美しい顔は、ぽかんとしても美しい。
炊事のためになのか、長い髪は今は後ろで一つに結ばれている。

「まあ、無理強いはしないけど」

もう食べないなら、片付けるよ。
今日はもう遅いから、湯の説明は明日するから。

「おい、ちょっと待て…」
「おやすみ、飛影」
***
目を覚ました一瞬、どこにいるのか飛影にはわからなかった。
木の天井、外の景色が歪んで見える波打つようなガラス窓、色褪せた畳。

「…ああ、そうか」

ようやく、ここがどこなのか思い出す。
彼岸花と書かれた木札のかかった部屋の戸を開け、飛影は廊下へ出る。

廊下には、洗面所とは名ばかりの、ただのステンレスの流しがある。流しにも廊下にも朝の光がたっぷり差し込み、昨夜のホラー感はずいぶん薄れている。
蛇口から水を出し、両手ですくって顔を洗う。事故以前には気にもとめたことがなかったその動作は、今では遠く昔のことのようにさえ飛影には思えた。

流しにあった古ぼけた琺瑯の洗面器に水を張り、顔を突っ込むようにして片手で洗う。
服を濡らさないように、部屋に積んであった薄く固いタオルで顔を拭いた。

食事のための広間に用意されていたのは三つのおにぎりと漬け物と、切った野菜に味噌を添えただけの物で、さすがに空腹だった飛影はほっと息をつく。昨夜はろくに食べられなかった。これはどれも手で食べられる物ばかりだ。

朝なのに、昨夜よりもさらに静かになったような気さえする。他の客はどうしたのだろう。朝から温泉に入っているのだろうか。
遠くから聞こえたエンジン音が大きくなり、宿の前で止まった。
昨日と同じ男が、野菜の入ったカゴを抱えて広間に入ってきた。

「ただいま」

ここの者でもないのに、おかえり、もおかしな返事だろうと、飛影はあいまいに会釈し、棒状に切られた人参に味噌をつけ、ぱりっと噛む。
ストーブの上には昨夜と同じように湯気を立てるやかんがあり、昨日と同じ男は急須に湯を注ぐ。
膳に置かれた湯のみに礼を言い、飛影は指先についた米粒を舐め、顔を上げた。

「主はどこにいるんだ?挨拶がしたい」

飛影の言葉に男は手を止め、真正面に向かい合うように正座する。

「どうぞ」
「は?」
「挨拶したいって言うから」
「お前じゃない、ここの主にだ」
「だから、どうぞ。オレがここの主だから」
「お前が?」

若すぎないか?とか、どう見ても学校に行っているはずの年なのに?とか、軀といったいどういう知り合いなんだ?とか。
口から飛び出すはずのいくつもの質問は、普段の無口が災いして飛影の口からはなめらかには出てこない。

「お前…」
「さてと。着替え持ってきて。タオルは脱衣所にあるから。湯を案内するよ」

質問するタイミングを見失い、飛影は後を追って立ち上がろうとし、ふいによろめく。
片腕を失ったせいでついつい忘れてしまうが、怪我をしたのは全身あちこちだ。他の箇所はすでにすっかり元通り、というわけではまだない。

「おっと」

まさに、ひょいと、と言うしかない優雅な身のこなしで、男はひっくり返りかけた飛影を受け止め、抱き上げる。
いくら飛影が小柄だとはいえ、いとも軽々と。

驚いたのと、もう一つの理由とで、抱き上げられた腕の中で固まっている飛影に、男は笑う。
花も咲かない冬の山の中で、まるで花のように。

「ここにしばらくいるつもりなら、オレのことは蔵馬って呼んで」
***
湯は透明で、とろりとしている。

冬特有の澄んだ青空の下、朝っぱらから風呂に入る。
想像もしたことがなかった時間の過ごし方に、飛影は落ち着かない。

湯につかる。

…で?湯につかっている以外の時間は、何をすればいいのだろう。
湯の中で立てた膝に顎を乗せ、飛影は考える。

入りすぎないで、と言った蔵馬の言葉を思い出す。

「温泉って入ると結構体力を消耗するんだ。湯あたりしないように休み休みね。長く入れば効くってものでもないし」
「わかった」

わかった、と答えてはみた飛影だったが。
一日目でこれでは、先が思いやられる。

そう熱い湯ではないが、十五分もつかっていれば体は芯まであたたまる。
のぼせる前にざばりと湯を出ると、洗いざらしのタオルで体を拭いた。

宿に用意されている、紐を結んで留めるらしい和服もどきの服は、片手が使えない飛影には着ることができない。
持ってきていたスウェットに着替え、宿をぐるりと見て回る。

風呂は飛影の使っているものを含めて大小五ケ所、部屋は全部で十部屋ほど。部屋にはどれも花の名前を記した木札がかかっているが、静まり返り、人の気配はない。
廊下の突き当たりには、書庫、と書かれた木札がかかる部屋があった。

包丁とまな板のかろやかな音に吸い寄せられて向かった先は台所で、どういうわけか、床は土を固めたらしきものでできている。

「土間って言うんだよ」

聞いてもいないうちに返された答えに面食らいながらも、飛影は頷き、作業台らしき卓の前の小さな木の椅子に座る。
煮炊きの音と匂いが、ふわふわと眠気を誘うようだった。

「せっかくあっためた体が冷えるよ。こんな所で寝ない。ほら、昼ご飯だよ」

大きな木の盆の上に鍋やら皿やらを乗せ、広間へ向かう蔵馬の背に、飛影は手を伸ばす。

「何?」

背に触れた飛影に、怪訝な顔で蔵馬は振り向く。
艶のある黒髪が、背から肩へ流れた。

「ゴミが、ついていた」
「そう。ありがとう」

広間へ向かってすたすた歩く、顔に似合わぬ広い背中。
ありもしないゴミを払うふりをした左手を、飛影は見下ろした。
***
丸めた布団を枕に、畳に寝そべり、飛影はため息をつく。

朝食と同じくおにぎりと、肉団子と大ぶりに切った根菜の汁、漬け物。まるごとのりんご。
片手でもなんとか食べられる昼を片付け、部屋に戻った飛影は鞄から携帯電話をひっぱり出す。

相変わらずここには電波はない。
多分どこかに普通の電話はあるのだろうし、言えば貸してもらえるはずだ。
とはいえ、あの男が、蔵馬がいる場所に電話があるのだったら、その場でできる話でもない。

ということは、軀に電話で確認することも難しい。
飛影の部屋の暖房器具は古めかしいガスストーブで、板のような形をした回路が、赤々と熱を発している。
携帯電話を畳に放り、飛影は目を閉じた。

次に目を開けた時は布団の中で、部屋は既に夕暮れの薄明かりで、何やら足に当たる硬い物は布に包まれた湯たんぽだ。
片手で体を支え、片手で目を擦りながら起き上がる。そんな当たり前の動作さえ片手ではできない。布団の中に入ったまま目を擦り、飛影はぼんやりと起き上がる。

枕がわりにしていた布団を取り上げられ、そこに寝かされ、湯たんぽをあてがわれ、布団をかけられて?
そこまでされても目が覚めないとは。ずいぶん間の抜けた話だと、今日何度目かのため息を飛影はつく。

広間の戸を開けると、ちょうど反対側の戸が開き、昼と同じ大きな盆を手にした蔵馬が現れた。
朝と昼と同じく、他の客は見当たらない。

「起きたね。ちょうど今起こしに行こうかと思ってた」

なら、待っていれば良かった。そうしたら、お前はオレを起こすために…。
そんなことを言えるはずもなく、飛影は無言で膳の前に座る。

「どうぞ」

焼き魚が煮魚になったこと以外、昨夜と大差ない食事が湯気を立てている。
熱そうな味噌汁の椀に手をかけ、飛影は手を引っ込める。

「どうした?」
「…食べ」
「飛影?」
「食べられ、ない。使えない」

つっかえつっかえの言葉で、飛影は箸を指す。
顔は伏せたまま、蔵馬の方を見ようとはしない。

「食べさせてあげようか?」

待っていた言葉に、目を合わせないまま飛影は頷く。

昨夜と同じように、蔵馬はあぐらをかいた膝の上に飛影を抱き上げると、箸を取った。
丁寧に骨を取り、一口大にした魚が差し出され、飛影はおそるおそる口を開ける。

昼間見た台所には、塩と砂糖と醤油と味噌と酒、そのくらいしか調味料は見当たらなかった。
口に運ばれるシンプルな味を飲み込み、緊張からくる体の強張りに気付かれないよう、飛影は深呼吸をする。

「美味い」
「そう?ならよかった」

足に、尻に、背に、他人の温度を感じながら、飛影は口を開け続けた。
***
飯を食って、これほど疲れ果てたのは初めてだ。
倒れ込むように布団に横になった飛影は、いつの間にかまた用意されていた湯たんぽを抱きかかえ、全てを吐き出すようなため息をつく。

膝の上に抱かれて、雛鳥のように口を開け、何から何まで食べさせてもらい、最後にこれだけは自分で持った湯のみで飲んだ焙じ茶に、やっと息が出来るようになった気さえした。

せっかく湯に入って解けた体も、すっかり固くなってしまった。

「何か、違うんじゃないか…」

湯たんぽに話かけるがごとく、飛影は呟く。

どう考えても、変だ。
オレが聞き違えたのだろうか。

駆け寄る雪菜。その雪菜には聞こえないよう、屈んで耳元に囁くような言葉だったとはいえ。
何度思い返しても、聞き違いではない。
囁き声でさえ、軀の言葉は明確に耳に届いた。

いいか飛影、できるだけ…。

できるだけ、宿の主に触れるんだ。
主がお前に触れるように、仕向けるのでもいい。

列車の出発が迫る中、飛影に囁かれた言葉はそれだった。
元次のページへ