mama...9

…百夜目…

幽助はまた、一昨日と同じ、悪臭に満ちた部屋にいた。

ほらよ、と先刻渡された、呪符に包まれた氷の球体。
聞けば雪菜はこの妖気を造り出したために、今はポッドに入っているという。

当然躯も一緒に来てくれると思っていた幽助は、一瞬困惑した。

「さっさと行かんと手遅れになるぞ」
「あんたは…来ないのか?」
「ああ。望み通りの妖気を手に入れてやっただろう?まだ文句があるのか?言ってみりゃ、やつは脱走兵だぜ?オレがそんな事をしてやる義理もないってのに」
「でも…」
「どうした?雷禅の息子。怖じ気づいたか?」
「馬鹿言えよ!オレは行く」
「怖くないのか?なら、さっさと行け。ついでに言えば、オレなら怖いな。…狂気は恐れるに足るものだ。オレはそう思っている」

怖い、などという言葉はおよそ躯には似合わない。

「知ってるか?あの狐が転生するために、もっと簡単な方法があったんだぜ?」

そこら中で、何百人もの妖怪の女に種を蒔けば良かったのさ。
それで、受胎できたやつに憑依できるかどうか片っ端から試せばいい。まあほとんどの女が死ぬだろうが、改造したオス一匹に賭けるよりは、ずいぶんと高確率だろう?

躯の言葉に、幽助は驚いたように目を瞬かせる。
確かに…そうだ。

だが…

「だが、あいつらはそれを思いつかなかったのさ。あのお利口な狐でさえな」

それがどういう事か分かるか?

あいつらは、それぐらいお互いしか見えてなかったんだ。 他の者を抱く事も、他の者を抱かせる事も考えつかないくらいに、な。

ー狂気は恐れるに足るものだー

冷たく笑う魔界の女王の言葉は、幽助の胸に冷たく染み込んだ。

考え込むなんて、オレらしくもない。
動かすのは、頭ではなく体だ。いつだってそうしてきた。
***
目の前の肉体は、昨日と同じく、死にかけていた。
いや、昨日よりもまた一歩、死に近づいているように見える。

…双子だろうがなんだろうが、人間…いや、人型の妖怪、と言うべきか?…の赤ん坊の入っている大きさとは思えない…この腹の異常な大きさは。
気味悪いほど膨れた腹は、時折波打つように動いたが、意識のない飛影が苦痛の声を上げる心配はない。

仲間であったはずの者ではなく…何か異形のもの…にしか見えない体に、恐る恐る近づいた。

そこではたと気付く。
この氷の玉は、いったいどうやって使うんだ?

躯に聞いてこなきゃだったんだ。
躯は当然オレが知っていると思っていたんだろう。
まったくオレはどこまで馬鹿なんだ。

「クソッ…」

その時、ぴちゃん、と水の落ちる音がした。

「…呪を解いて、呪符をちょっとだけほどいて、割るのよ」

自分の背後から聞こえた声に、幽助は驚いて振り向いた。

「雪菜ちゃん…!」
「躯が、あなたがもしや使い方を知らないんじゃないか、って。まあ、わざとでしょうけど」
「わざと…って?」
「…躯は私にもここへ来させるつもりだったんでしょうね」

それにしても使い方も知らないなんて。
雪菜が眉をしかめた。

「わ、悪りい。オレ、焦って…」
「まったくもう。ここへ来たくないから妖気を渡したのに。どうせ来るはめになるなら無駄に呪符を使わなきゃ良かったわ」

異様な光景も、漂う悪臭も気にせずに雪菜は軽口をたたく。

大人しい美少女、というイメージしか持っていなかった幽助は、初めて聞くその醒めた口調に目を丸くする。
ポッドから出てそのまま来たらしく、全身ずぶ濡れで、素肌に襦袢だけを纏うその姿は妖艶と言ってもいい。

「どうやって入ったんだ…?」
「どうやって?本当に馬鹿ねえ。あなたが鍵を扉に突っ込んだままにしたのよ」
「雪菜ちゃ…見ない方が…」
「もう見たわ。おまけにこのひどい臭いも嗅がされちゃった」

おえ、とかわいらしく赤い舌を出しながら、呪符に包まれた氷の球体を幽助から取り上げる。

何事かを呟き、呪符をほんの少しだけほどき、指で弾くようにして氷の一部を割った。
蒼い炎と氷が混ざり合い、輝く蜜のように流れ出した。

「ほら、兄さん。口を開けて」

その呼びかけ方は、とっくに飛影が兄である事を知っていた事を意味していて、幽助はまたもや驚かされる。

雪菜は横を向いていた意識のない飛影の顔を上向かせる。その顔は蒼白というよりも、灰色がかっていた。

濁った色をした邪眼が揺れる。
腐ったその眼球は、額の眼窩からベッドにぐちゃりと嫌な音を立てて落ちた。幽助は思わず息を飲む。

「…手間をかけさせるわね」

細く綺麗な指で無理やり口を開かせると、雪菜は蒼く光る蜜を一気に注ぎ込んだ。
***
ゆるゆると瞼が開き、赤い瞳が現れた。

「飛影!」
「……う…ぅっあァ!」

意識と一緒に当然苦痛も戻ってくる。
赤い瞳はすぐに閉ざされる。

「…あっ…ぅぁ…っぐ!ア、アアァアアアッ!!」

「飛影!!」
「だめよ。聞こえてないわよ。さてと、どっちがやる?私がする?それとも幽助さん、あなたがする?」
「何言って…」

この役立たず、綺麗な顔で、雪菜は毒づく。

「ここまで死にかけてるとは思わなかったわ。これじゃあ私の妖気で食い繋げるのはちょっとの時間だけよ。ここまで来ちゃったんだから手伝ってあげるわよ」

私の妖気が体内にある間に産ませるのよ。
兄はもう自分で産む力はないわ。

雪菜は恐ろしい事をあっさりと言う。

「ど…どうやって?」
「じゃあ、私が切るわ。あなたが押して」
「切る!? お、押す!?」
「簡単よ。切る、そして押し出す。この薄気味悪い腹の中身を、ね」
「ま、待ってくれよ!そんな事して…飛影は大丈夫なのか!?」
「さあ?失敗したら死ぬだろうけど、どっちみちこのままなら死ぬんだから気負わなくていいじゃない?」

その冷淡で簡潔な物言いに、この妹は物の怪なのだと改めて幽助は思い知らされる。

雪菜はシーツを剥ぎ取り、崩れかかったような飛影の両足をつかみ、膝を曲げて大きく広げる。
恐ろしいほど膨らんだ腹にも、その下に覗く、萎えた性器や血塗れの秘部にも眉一つ動かさない。
そして寝台に立て掛けてあった飛影の剣をつかみ、鞘から抜く。部屋を照らしていたランプの炎で炙られた刃の先端が赤く焼かれる。

その表情に躊躇いはないのを見て取って、幽助も覚悟を決め、膨らんだ腹に手を添えた。
***
夢を見ていた。

奇妙に色のない部屋で、色のない寝台の上で、二人は指を絡ませ横たわっていた。

「…オレの事をあんまり好きになっちゃだめだって、言ったじゃない」

蔵馬が小さく笑う。
寂しげな、笑み。

蔵馬の声も、絡ませた指の温かさもひどくリアルなのに、それが夢の中だということは、なぜか飛影には、はっきり分かった。

「それとも…もう、手遅れ?…飛影」

蔵馬に自分の名を呼ばれた。

ただそれだけで胸が満たされる。
…言葉も返せない程に。

「ねえ、飛影。答えて。…オレの事が好き?……オレに…」

オレに、側にいて欲しい?
他の…何もかもを、失う事になっても?

碧の瞳が、問いかける。

それを肯定する事は、長い間ずっとできなかった。

そんな風に他者に魅かれるなど、捕らわれるなど、認められない。
自分が弱くなってしまったかのようで。

…そして、いつか一人にされる時が訪れるのが、怖かった。

今なら分かる。
オレは、それがどうしようもなく、怖かったのだ。

けれど今なら…この夢の中でなら、素直に答えてもいい気がした。

今言えなければ、告げる事は永遠に出来なくなってしまうと、分かっていた。

「…欲しい」

側にいて欲しい。

永遠に。
例え何を引き換えにしても、構わない。

「…側に…いて欲しい…そうでなければ………もう生きている意味は、ない」

飛影は、碧の瞳を見つめてそう言った。

そして…

「蔵馬……………愛して…る」

消え入るような声で囁く。

絡ませていた指が解かれ、飛影の白い頬に蔵馬の手が重ねられる。

唇へ、首へ、胸元へ、蔵馬のキスが降りていく。
そのまま、夢の中ではなめらかに平らな腹部に蔵馬の唇が伝う。

その瞬間、飛影の体を閃光のような激痛が貫いた。
***
その時間は、ほんの一瞬だった。

焼けた剣先が、飛影の下腹部から膨らんだ腹の頂上まで、滑るように一気に駆け上がる。
飛影の紅い瞳が見開かれ、鋭い叫び声が上がった。

温かな液体が、割れた皮膚から驚くほど大量に迸った。
あふれ出る薄赤い体液と暗褐色の血液。

部屋の澱んだ空気を切り裂くような、飛影の悲鳴。
両手が塞がってなかったら、耳を塞いでいただろう、幽助は混乱した一瞬に、そう考えた。
苦痛というものを凝縮したような悲鳴は長く長く響き、まるで誰かがスイッチを消したかのように、いきなりプツリと途絶えた。

ゆっくり閉じる紅い瞳からこぼれた雫が、二粒の宝石になって床に落ちた。

弾けた石榴のような腹の中で、何かが蠢く。
ぶるりと頭を振って立ち上ったその生き物は…

銀色の、狐だ。
***
「な……」

人間界の狐よりも遥かに大きい銀色の体は、飛影の血でぐっしょりと汚れていたが、狐はそれを気にする様子もない。
寝台からよろよろと後ずさる幽助を、小馬鹿にするような傲岸な金色の瞳で睨め付けた。

雪菜は床に落ちた氷泪石をつま先で空中に蹴り上げ、パシッと音を立てて手中に収める。

「もう一人は?」
「え?」
「氷泪石は二粒よ!もう一人いるはずだわ」

雪菜は狐の金色の瞳を睨み返し、狐の鼻先に血でぬらぬらと光る剣を突き付けた。

狐は雪菜の言葉を理解したらしく、飛影の腹の中に鼻面を埋めた。
割れた腹の中を掻き回す、グチャリというおぞましい音が部屋に響く。飛影はピクリとも動かない。…わずかな妖気すらも、感じない。

死んで…る?

「よせ!やめろ!!」

幽助が殴りかかる寸前、狐は何かを引っ張り出した。
くわえていた赤く染まった肉塊をビシャリと寝台に落とす。

それはドロンとした膜に覆われていてはっきりとは見えなかったが、妖怪の赤ん坊だった。
見る限り…白濁したゼラチン質の膜越しにだが…少なくとも、人型の生き物だ。
泣き声一つ上げる事なく、丸くなっていて、生きてるのか死んでるのかも分からない。

「…!? …蔵馬!? おい!お前、蔵馬なのか…っ」
「…幽助さん」

幽助の叫びは、雪菜の呼びかけに遮られた。

「これ、知ってる?」

幽助も雪菜も、血や体液やその他の得体のしれない汚れにまみれてひどい有り様だ。
幽助は片手で顔を拭い、雪菜の差し出した手の平を覗き込む。

雪菜の手の中には、何かの粉…
…いい香り…?

「…夢幻花、よ」
「え!? ちょっ…雪菜ちゃ…」

幽助が止める間もなく、雪菜は粉をふっと吹いた。
***
「…ごめんなさいね、幽助さん」

気を失った幽助を尻目に、雪菜は再び剣を構えた。
狐の喉元に剣を突きつけ、冷たい声音で告げる。

「…行きなさい」

動けるのはあなただけよ。
その二人を連れて、さっさと行くのよ。

雪菜は剣を突きつけたまま、そう命じる。
空いた片手で器用にシーツを裂き、二粒の氷泪石をくるんで狐に渡す。狐は相変わらずひどく傲岸な視線を雪菜に送ったが、その包みは受け取った。

「この人は魔族なんだから夢幻花はちょっとの間しか効かないわ。さあ、幽助さんが目を覚ます前にさっさと行って。…もう二度と…」

狐は、腹から真っ二つに裂けたようなぼろぼろの飛影の体を背に乗せ、血塗れの赤ん坊を口にくわえた。

「……もう二度と、兄を独りにしないで」
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