mama...10

…千三百八十夜目…

大きな窓から降り注ぐ、朝の新鮮な光で目を覚ました。
ベッドに起き上がり、長い黒髪を軽くまとめる。

白いあっさりとした寝巻き。
その胸元には、薄く紅みを帯びた宝石が素晴らしい輝きを放っていた。

至高の宝石、氷泪石だ。

深い森の奥にある、日差しをたっぷり浴びるこの家は、小さいが綺麗な湖と、いい香りの木々に囲まれている。

「いい天気…今日は外で朝ご飯にしようか?」

柔らかな問いかけに返事はなく、変わりにいくつか離れた部屋の、外へと通じる扉が騒々しく開く音がした。

美丈夫。銀色の長髪。
いつの間にか寝室の入口に立ち、冷たくこちらを見つめる金色の瞳。

黒髪の主は、隣で自分にしがみつくようにして、まだ眠っているその者の髪を優しく撫でる。

「起きて。気分はどう?ご飯にしよう」

妖狐が戸口に寄りかかったまま、チッと舌打ちする。
その胸元にも、紅みを帯びた氷泪石が輝いていた。

「また独り言か?蔵馬」
「…黙れ」

黒髪の主…蔵馬…の返答には、怒りが含まれている。
その怒りの妖気を感じ取ったかのように、傍らで眠っていた者が目を覚まし、小さく声を上げた。

ん、とも、ふあ、ともつかない、声。

「あ、起きた。おはよう」

さっきとは打って変わったやわらかな声で、蔵馬はその者を優しく抱き起こす。

小柄な体、短い黒髪、赤い瞳。
蔵馬と同じような白い寝巻き姿だ。

「おはよう、飛影」

膝に抱き上げられたその姿勢のまま、蔵馬の胸元で飛影が小さくあくびをした。

「外を見て。すごくいい天気なんだよ」

今日はお腹は痛くない?
いい天気だから、外で朝ご飯を食べようか。
その前に薬を飲んで。
眠いなら、その後でもう少し眠らせてあげるからね。

暖かな日差しと同じような声音で次々降り注ぐ蔵馬の言葉に、返事はない。

飛影は蔵馬の膝の上で、眠たそうに、目をこすっている。
蔵馬はそれに頓着する様子もなく、ベッドの側のテーブルの上に置いてある瓶から、小さなグラスに薬とおぼしき液体を注ぐ。

「はい、飲んで」

薬は毒々しく赤く、粘度があるものだ。蔵馬は片手で飛影の背を抱いたまま、もう片方の手で口元にグラスを運ぶ。

薄く形のいい唇に注ぎ込まれた液体は、そのまま口の端からあふれて零れた。

「あーあ、零しちゃった」

それに怒る様子もなく、蔵馬は自分の服の袖で飛影の口元を拭ってやる。
グラスに薬を注ぎ直し、自ら口に含んで飛影に口付ける。

噎せないようゆっくりと、薬を流し込む。
見た目とは異なる甘い薬とともに、妖気も少しずつ送り込む。
白い喉が何度か小さく動くのを確認し、唇を離した。

「よし、飲んだね。いい子だ」

艶のある黒髪をくしゃくしゃと撫でてやると、飛影が嬉しそうに目を細めた。鈍いぎくしゃくとした動きで両手を持ち上げ、蔵馬の首に腕を回す。

飛影のその折れそうに細くなった白い腕には、黒い龍はとうにいない。
黒い龍を腕に飼い慣らすだけの力は、もうない。
額に残る傷跡は、かつて邪眼のあった跡だ。

D級どころか、この森にいる動物程の妖力さえも、持たない体。
力の全てを、目の前の愛しい者のために、無くしてしまった。

「…くら……ま…」
「はい。なあに?」

二人のやり取りに、妖狐がまたもや舌打ちをした。

「ったく。相変わらず喋れる言葉はそれだけか?馬鹿の一つ覚えとはこの事だ」
「他の言葉は必要ない。口を慎め」

険悪な空気に、飛影が不安そうに蔵馬の胸に顔を埋めた。

大丈夫、大丈夫。
そう言いながら背中をポンポンと叩き、動かす事のできなくなった両足や、いまだに痛むらしい、ひどい傷跡の残る腹を擦ってやる。

大丈夫。何も怖いものはないからね。

体を擦ってもらうのが気持ちいいらしく、飛影はまたとろとろと眠りに落ちてしまった。

あどけない寝顔。

無くしたのは妖力だけではない。
限界を超える苦痛は、肉体だけでなく、精神をも破壊した。

…ろくな知能を持たない者の、あどけない寝顔。

「…もうあれから何年も経つ。いったいいつまでそいつの面倒をみているつもりだ?」
「永遠に」

そっけなく、蔵馬は妖狐に告げる。

「どんなに待った所でそいつは元には戻らないぞ。体も頭もな」
「だから?」
「喋る事もできない、歩く事さえできない。オレたちの与える妖気と薬で生き延びている、とんだお荷物だ」
「嫌なら出て行けばいい。お前にここにいてくれと頼んだ覚えは無い」

蔵馬の姿は、驚くほど以前のままだ。
綺麗に整った中性的な顔立ちも、しなやかな長身も、長く艶やかな黒髪も。

だが、その瞳の色だけが以前とは違う。

その瞳は、燃えるような、滴る鮮血のような色をしている。
最愛の者から譲り受けた、その紅。

母親譲りの、紅い瞳。

その紅に射竦められ、妖狐は金色の瞳を反らす。

「…本当に、出て行っても構わないぞ」

蔵馬は呟くように、続ける。
その声にはもう、怒りはない。

「お前は十分、助けてくれた。ここにいたくなければ、好きな所へ行って構わない」

いくら妖怪の成長は凄まじく早いとはいえ、この元通りの姿と妖力を蔵馬が得るまでには、三百夜はかかった。
その間、成長を早める薬草を蔵馬に与え、死体同然だった飛影の命をどうにか繋いでいてくれたのは妖狐だ。

「…なら、勝手にさせてもらう。そいつに借りは返した。オレはもう戻らんからな」

寝室のドアが荒々しく閉ざされ、妖狐は出て行った。
出て行く瞬間キラリと光ったのは、首にかけていた氷泪石だ。

蔵馬はやれやれと苦笑する。
あの日から何年、妖狐は度々そう言って出て行ったが、二、三日もすれば戻ってくるのだ。

だが、蔵馬は一瞬たりとも飛影の側を離れる事はなかった。

一度、ぐっすり眠っているのを起こすのもかわいそうだと、夜中に水を飲むために寝室から蔵馬がそっと離れたその時に、たまたま目を覚ましてしまった飛影の狂乱ぶりは凄まじかった。
叫び声に慌てて戻った寝室では、ベッドから落ちた飛影の周辺に、無数の氷泪石が散らばっていた。

何度も謝る蔵馬の腕の中で、飛影は紅い瞳を見開いて、一晩中震えていた。

あの時の事を思い出すと蔵馬は今でも胸が痛む。軽率だったと自分を責めた。
そんなヘマもあの一度限りだ。
今は例え隣の部屋に行くだけだとしても、歩けない飛影を抱き上げた。眠っていても、起きていても。

朝も昼も夜も、ずっとだ。

ドアの音に目を覚ました飛影が薄く目を開け、言葉にならない呟きを漏らす。

「大丈夫だよ。妖狐は帰ってくるからね」

妖狐は必ず戻ってくる。結局…妖狐もまた、飛影から離れる事はできない。

蔵馬と妖狐の二人の胸元に輝く氷泪石。氷女が子を産む時にだけ造る、特別な石。それは妖狐を決して離さない。

弱い者を蔑む妖怪の本能からくる憎しみと、けれど決して消す事の出来ない激しい愛情と。
妖狐の飛影に対するそれは、多分きっちり同じ量。

「…ちょっと出かけただけ。妖狐はちゃんと帰ってくるよ」

帰ってこなかったとしても、大丈夫。
まだ朝だというのに、この日何度目になるかわからない、大丈夫という言葉をまた蔵馬は口にする。

「大丈夫だよ、飛影。何も心配しないで」

オレがあなたと永遠に一緒いるから、大丈夫。
絶対に、もう二度とあなたを一人にはしない。

…あなた以外、オレには他に何もいらないよ。

「ね、外で朝ご飯、それから散歩しよう。いいお天気だから」

その後は…あったかい日なたで一緒に昼寝しようか?
お腹を擦っててあげるからね。

その言葉を理解できてはいないのに、飛影は蔵馬の腕の中で紅い瞳をパチパチと瞬かせる。

「飛影…」

髪に、頬に、耳に、唇に、蔵馬はやさしくキスを落とす。
そのくすぐったさに飛影は身を竦め、蔵馬の胸に顔を押し付けると、ひどく嬉しそうに、幸せそうに、笑った。

小さな笑い声が、寝室の高い天井に心地よく響く。

「…愛してるよ、飛影」

蔵馬のその言葉も、ひどく嬉しそうで、幸せそうだった。

「…愛してる。ママ」

生まれ直したあの日から、何万回と囁いたか分からない言葉を、
蔵馬は今日もまた腕の中の命に囁いた。


...End.

前のページへ