heaven's day...5

デバイスはまたもや違う集金場所を伝え、あっという間にその文字は消える。

憶えのないその場所は、確かとっくに潰れた娼館だった建物だ。今まで使ったことのない集金場所にホンは眉を寄せる。
ここまで用心深く毎日場所を変えているということは、市民へのアピールではなく、警察かあるいはドラッグハンターとも呼ばれる麻薬密売人を専門に取り締まっている組織が、本気で動いているのだろう。

売人への薬の受け渡しや売り上げの回収は人気のない場所で行われると思われがちだが、実は違う。
小汚い裏通りの、底辺の物と者とがごったがえすような通りや建物こそ密売組織が使うものだ。なのに今日の集金場所は潰れて久しい娼館。この辺りはあまり人気もないはずだ。ホンはもう一度眉を寄せ、それでも足早にそこへ向かう。一本だけ売れ残ったヘヴンリーのアンプルをポケットの中で転がしながら。

娼館だったというその建物は、寂れうらぶれ朽ち果ててもなお、精の生臭さを発しているようだった。
だがその臭いがあたりに撒き散らされた使用済み避妊具のせいだとすぐに気付き、宿すら使えない最下層の娼婦たちの格好の宿になっているらしいと、ホンはため息をつく。

ホンのアパートよりもさらにひどく、腐食の進んだ階段。どうやら宿代わりになっているのは一階だけのようだ。この階段を見れば無理もない。
割れ窓からこぼれる外のネオン以外には明かりもないこの建物では、注意して上がらねば冗談抜きに階段を踏み抜き、下の汚れたコンクリに頭を打ち付けることにもなりかねない。

今夜は娼婦も見当たらない。
デバイスをライトに切り替え、注意しつつけれど身軽に階段を登っていたホンの耳に、微かな音が聞こえた。

「……?」

表の音か、それとも離れた通りのクラクションか。
ふいに、窓もない階段に、ふっと風が通る。

…狐はいるんだ。

霧が晴れた途端くっきりと目に飛び込んできた風景のように、ホンはその言葉を思い出す。

目撃者も密告者も、いない。
狐はまるで幻のように語られていた。

目撃者も密告者も、いない。いるわけがないのだ。

なぜなら、殺されたからだ。
狐を見た者はみんな、殺されたのだ。

ヘヴンリーをメイン商品にしていたピンイン。頭だけで見つかったピンイン。
明確すぎる答えを思いつきもしなかった自分に、ホンは愕然とする。

ビルは七階建てだが指定されたのは五階だ。多分、五階以上はこの朽ちた階段では上がれないのだろう。
廊下と呼ぶにはあまりに狭く短いスペース。ホンの目の前にはヒビの入った曇りガラス。ネジの外れかかったドアは汚れきっているというのに、ドアノブは鈍く光りを持つ。

この建物は死んでいる。もう何年も誰もこのドアノブに触れたことなどないはずなのに、そこだけが、誰かの手が最近触れたかのように。
ポケットからナイフを取り出し、ホンは大きく息を吸い込んだ。

触れてもいないノブが、向こう側からがちゃりと音を立てて回った。

「こんばんは」

開いたドア。
洗いざらしの白いシャツ、色褪せたジーンズ。

何もない部屋に立ち、待ち合わせていた友人にするように真正面からホンを見つめ、屈託のない笑みを浮かべる、男。

「こんばんは」

たっぷりと、不自然なまでの間を取って、男は続けた。

「こんばんは………ホン」

口を開きかけたその時、耳に飛び込んできた名と、薄いシャツとタンクトップ越しの背に押し付けられた銃口に息が止まる。
こんな時なのに、銃口の冷たさをはっきりと感じる。

「……なぜ…俺の名を」

いつの間に、背後には複数の気配。
琥珀色の酒を思わせるような、低く深い声が響いた。

「やあ。俺とは初めましてだな、ホン」

誰かに何かを説明してもらう必要はなかった。
ナイフを持ったまま両手を上げ、ホンはゆっくりと振り向いた。

目の前に立ちはだかる男。
長い銀髪、見上げるほどの長身。美丈夫。
冷酷そうな薄い唇は笑みの形に歪み、金色の瞳も眇められている。

「返事はどうした?」

狐、という言葉はこの男に相応しくない。
銀狐と呼ぶべきだ。

「お前のコードだろう?ホン?それとも墓標は無名でいいのか?」

焼けるような痛みが肩に走る。

撃たれたと意識するより早く、蹴り飛ばされたナイフは部屋の隅に飛んでいった。
素早くポケットから取り出した小型の拳銃を左手に持ち、部屋に飛び込み追ってきた者を二人撃ったが、どちらも腕と頬を掠めた程度で到底致命傷にはならない。
銃は不得手だった。目にも留まらぬスピードでまたもや長い足に左手を蹴り飛ばされ、天井を撃ち跳ね返った弾とともにホンは床に転がった。

二人、三人、いや、部屋の真ん中でのほほんと笑う男を入れれば五人だ。
狐は単独者ではない。チームなのだ。

「ご苦労だったな、ウェイ」

密告者。スパイ。
ウェイと呼ばれたその男は、得意げなわけでもすまなそうなわけでもなく、ただの通りすがりかのようにホンを見ている。

おとぎ話か夢物語か、そう思っていたものは今まさに実体を持ってホンの前にいた。

なんとか起き上がろうとした瞬間、狐はホンの右足、真っすぐな脛を踏みつける。バツン、という聞いたこともない音を立て骨が折れた。床にひっくり返ったホンをまたぐように狐は立ち、左足を踏みつけ、十秒前とそっくり同じ音をもう一度部屋に響かせた。

外の喧騒が微かに入り込む部屋に、小さく悲鳴が響く。
仰向けになったホンの腹にドサリと腰を下ろすと、狐は微笑んだ。

「お前のところのデバイスはなかなかいい仕組みだな。メッセージをデバイスにもサーバにも残さないってのは利口だ。なかなか冴えてる。だがそれ以外は相変わらずパーだな」

狐の左手が、ホンの右肩を強く押す。

「ぁぁ、ぐ…っ!!」

タンクトップが、シャツが、噴き出した血にぐっしょり濡れていく。

「四年前のことをお前の組織は忘れたらしいな?頭の悪いやつらには本当にうんざりだ」

狐が淡々と喋る間も、圧迫された傷口からはとめどなく血が溢れ出す。

「さてと、手間をかけさせるな。デバイスのパスワード、お前の知ってる隠れ家も全部教えてもらおうか」

激痛に青ざめながも、ホンは狐を睨みつける。
その気の強さ、生意気さ。

狐は、綺麗に微笑むと足を持ち上げ、硬い靴底でホンの左腕を折った。
廃墟となった娼館に、またもやくぐもった悲鳴が響く。

「さて。次は右だ。お前は右利きだろう?飯を食うのもケツを拭くのもできなくなるぜ?マスもかけないな」

ゆっくりと、十の数を狐は数える。
泣きもわめきもせず、ホンは薄い唇をぎゅっと引き結び、狐を睨み続ける。

やれやれ、と言わんばかりに狐は銀色の眉を上げた。

「…手間をかけさせるつもりか?」

再び骨の折れる鈍い湿った音。
あらぬ方向に曲がった両手両足をホンは力なく床に落としたまま、喘ぐような呼吸を繰り返す。

「どうする?爪を引っこ抜くか?目玉を炙ってやろうか?」

ゴツゴツした、化け物じみた顔つきの男が狐に問う。まるでこの書類はどこに置いたらいいんだ?とでも聞くように。

「駄目だ。気絶させるな。時間があまりない。そうだ鯱、お前男のガキが好みなんだろ?犯せよ」
「はっあ?」

鯱と呼ばれた男は心底嫌そうに、床に転がる小さな体を見下ろす。

「冗談よせよ。こんなのどうせ男娼上がりだろ。口ん中からケツの穴まで病原菌の巣窟だぜきっと」

狐はホンの上にどっかり座ったまま、銀色の髪をかきあげる。
何もかもを見透かすような、その視線。

「…違うね。なんなら賭けてもいいぜ、鯱。こいつはジャンキーじゃない。こういう手合いはお高くとまって自分を売りはしない。売るのはオクスリだけさ。なんなら処女かもしれんぞ。二十分で吐かせろ」

鯱と呼ばれた男は素晴らしいジョークだとでも言うように手を叩いて笑うと、狐を押しのけ、自分がまたがるとホンの服を破り取った。

「面白れぇ。確かめてやるよ」
「……っ!」

両手両足が使えずにできる抵抗などありはしない。なんとか首をひねって見上げてみれば、ウェイは目を逸らすでもなくホンをじっと見返した。

左右で色味が違っても、それでも綺麗な緑の瞳で。

「あ…!」

衣服は全て剥ぎ取られ、大きく足を広げられる。折れた足を乱暴に開かされる痛みに気が遠くなったホンの顔を、狐は鋭く短く蹴飛ばす。
切れた唇から吹きだした血が、ホンの白い頬に散る。

「寝るな、クズが」

その突き刺さるかのような憎しみに、ホンはぞくりと震えた。
狐の目は、仕事を遂行しているというより、個人的な復讐のようにさえ見える。

「俺はお前みたいなのが一番嫌いだ。男娼の方がよっぽどいい。少なくともあいつらは自分の持ち物を売ってるんだからな。お前は自分のケツの穴を使う替わりに他人を地獄に落とす商売を選んだ」
「…だったらなんだ?犯されたくらいで俺が泣きわめいて口を割るとでも思ってるのか?」
「へえ。チビのくせに口だけは一人前だな」

破り取られ投げ捨てられたホンのズボンから転がったヘヴンリーのアンプルを、狐は拾い上げた。

「お前はジャンキーじゃないんだろう?自社の商品を試さないなんて、商売人としては失格じゃないか?」

鯱はまたもやゲラゲラ笑うと、ホンの両足を持ち上げる。
目の前でからかうように振られたヘヴンリーのアンプルに、ホンは息を飲んだ。狐の親指が薄いガラスを弾きアンプルが割れる。

一瞬、赤い目に怯えた色が横切る。

「…貴様……!」
「嫌なのか?さんざんこれを売ってきたんだろう?」
「…っ」
「ケツの穴から原液で味わうなんてなかなかできない贅沢だ。お前が死んだって誰もなんとも思わんよ。そもそもお前が生きてることすらどうだっていいね。他人を散々苦しめてきて楽に死のうなんて虫がよすぎるんじゃないか?ケツを開けよ、鯱」

醜い男はニヤニヤと、ホンを見下ろす。
ごつごつした指で乱暴に薄い尻の肉を開くと、両の親指を小さな穴に捩じ込み無理やり広げた。

「っつう!!」
「ほーら。味見してみろよ」

歌うように、狐は言う。
アンプルのギザギザに割れたガラスの先端がホンの尻の中にねじ込まれ、ぬるい液体がさあっと体内に流れ込む。

電撃、というよりは落雷だった。
その衝撃は。

目の前に飛び散る、
光。闇。虹。蜜。

赤く大きな目が飛び出しそうに見開かれ、声も出せずに背が大きく反り返る。
打ち上げられた魚のように痙攣する白い体に、大男が覆いかぶさった。

パーティーの始まりだ。
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