くろねこライフ...546日目「にゃーんっ!」 チャイムの音の後に聞こえた声。 その声に俺はパッと起き上がる。 「あれ?ネコだ。誰だろう?」 俺はその声に嬉しさを隠せず、蔵馬の後を追って玄関へ向かう。 「こんにちは!」 白くて短い、ふわふわのしっぽを振りながら立っている雪菜。 相変わらず、大きなサファイアのついた首輪をしている。 「こんにちは…飛影、お友達?」 「…妹」 俺はぶっきらぼうに答えたが、久しぶりに会えた嬉しさで、思わずしっぽをぱたぱた振ってしまう。 「妹!? こんなかわいい妹がいるなんて言わなかったじゃない」 どうぞどうぞ、と蔵馬は入ってと促す。 「おっじゃましまーす」 相変わらず妹は、屈託がなく、陽気だ。 靴をぽいっと脱ぎ捨ててスタスタと家の中に入り、ソファにぽふっと座る。 ー兄さん久しぶり ーああ ー久しぶりに会社に行ったら、兄さん契約されたっていうし ーここで、雇われてる ーですってね。びっくりしちゃった。続いてるみたいだけど、楽しい? ー楽しい…? ーちゃんとかわいがられてる? ーよくわからん… ーふーん。結構お金持ちそうじゃない ーさあ?そうなのか? ーそうよ。すごくいい首輪してるじゃない。この家の内装も家具も悪くないもん ー俺にはよくわからん 俺たちはネコ語でそんな会話を交わす。 蔵馬の耳には、ただニャアニャアという声が聞こえるだけだろう。 「俺も仲間に入れてよ~」 そう言いながら、蔵馬は俺たちを交互に眺める。 「俺は蔵馬です。君は?」 「雪菜!」 雪菜は人語で威勢よく答えて、しっぽを振る。 「雪菜ちゃん。何飲む?」 「ミルク!冷たいのがいい。蜂蜜ある?あるなら入れてね」 「あるよ。お菓子は?」 「いるっ」 オッケー、ちょっと待ってね、と笑いながら蔵馬はキッチンへ行ってしまう。 ーそうだ。お給料貰いに行った?手続きに来ないって会社の人がぶうぶう言ってたけど ーああ。行った ーまったくもう。お金のこと忘れちゃうなんて ー別に金を使う用もないし…何か買ってやろうか? ー何言ってんの…!? 雪菜は、サファイアと同じ、蒼い色の目を丸くする。 ー私たちは契約ネコなのよ? ーそうだな…? ー契約がいつ切られるかはわからないのよ。それに備えてお金は貯めなくちゃ ーでも…長期って… ー長期の場合も、最初の100日は試用期間よ。契約書に書いてあったでしょ? 試用期間? そんなこと書いてあっただろうか? ざっとしか契約書を読んでいない俺は、返答に詰まる。 リビングに戻ってくる足音がし、俺たちはネコ語での会話を止める。 「お待たせ。雪菜ちゃんの好きな物あるといいんだけど」 ビスケットの缶やチョコレートの木箱、冷蔵庫にあったプリンやチーズ、果物。 蔵馬が次々並べるそれらを、雪菜は嬉しそうに見ている。 自分の好きな物だけを選び、雪菜はさっそく冷たいミルクと一緒に食べ始めた。 食べながらも落ちつきなく、部屋中をくるくる回っては、家主に断わりもせずに、棚や机を引っかき回す。 「わあ。綺麗…」 雪菜の開けた箱は以前に蔵馬が俺にくれた物が入っている箱で、ガラスの地球儀や、綺麗な鈴に雪菜は目を輝かす。 お気に召さなかったらしい絵本やボールは、後ろに放り投げた。それはいかにもネコらしい。 綺麗な鈴を鳴らしては笑う雪菜は、自分の妹ながらとてもかわいかった。 ふと、どうして蔵馬は俺を雇ったんだろう、と疑問が湧いてくる。 生活の役に立つことを望むなら、犬と人間との混合種のイヌ族を雇えばいい。あいつらは、買い物や届け物も得意だし、留守番や家事もこなせる。番犬にもなる。 ネコ族は、あまり役には立たない。 ただ、かわいがられるだけなのだ。 …ネコなんて、いっぱいいるのに。 雪菜のように、かわいいネコがいるのに。 鈴の音にうっとりしている雪菜を、蔵馬はごく自然に撫でていた。 ***
47日目昨日、雪菜は好きな物を食べ、家中を引っかき回して遊んだ後、夕方になると現在の雇い主だとかいう女社長の家に帰って行った。 変わった女だが、美人で、今までで一番気の合う雇い主だと言う。鈴と地球儀は、気に入ったからと持って帰ってしまった。 兄さんも遊びに来てね、と、その女社長の家の地図を置いて。 「…飛影、飛影!」 こぼしてるよ、と胸元をタオルで拭かれるまで、自分がスープをぼたぼたこぼしていることに気付かなかった。 「どうしたの?なんだか元気ないね?」 「…別に」 それは早めの昼食で、ブイヤベース、とかいうスープは赤くて、白い服を着ていた俺はずいぶんみっともない有り様だった。 「俺、今日の午後と明日は出かけるんだけど、大丈夫?」 「大丈夫に決まってるだろ」 なぜか今日は、トゲのある言い方になってしまう。 ー甘えて、気ままに振る舞って、振り回してやればいいのよ… ーちゃんとかわいがられてる?… ー契約がいつ切られるかはわからないのよ… 雪菜の言葉を思い出す。 出かけないで、家にいて、撫でていて欲しいとか? …別にそんなこと、望んでいない。 昨夜確認した契約書には、雪菜の言う通り、長期契約希望の場合でも最初の100日は試用期間だと記されていた。 “なお、最初の100日を試用期間と定める。契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合は、試用期間内に限り契約を無効とする” 小さな文字で書かれた、だらだらと続く文面の中にそれはちゃんと書いてあった。まあ、長期であろうが、試用期間で契約を解除されようが知ったことではない。俺にとってはどうでもいいことだ。 「さっさと出かければいいだろ」 汚れた服のまま、俺は定位置であるクッションソファに丸くなる。 行ってくるね、蔵馬はもう一度心配そうに俺を振り返り、出て行った。 外はしとしと雨降りで、散歩日和とは言い難い。 こんな日は、蔵馬と一緒にソファで昼寝をしたかったのに。 一瞬そんな馬鹿げた気分になったのは、気の迷いだ。 ***
48日目蔵馬は朝から出かけていて、俺には会社からまたもや手紙がきた。 中身は日誌の提出がないという小言だ。 日誌をつけること、それを十日置きに郵送すること、など、俺はすっかり忘れてた。 一日も付けていない日誌など送ってもしょうがないだろう。 面倒だ。書かないと言って返してしまおう。 まだ降ってはいなかったが、今日も湿っぽい曇り空で、耳もしっぽも毛が湿気を含んで、ぺたっと寝ていた。 こんな日の散歩は、楽しくない。 そう言えば、俺はあまり散歩に出なくなっていた。 仕事をしている蔵馬の側で昼寝をしたり、窓の外を眺めて過ごす時間が増えてきていたから。 …なんだかいまいましい。 ポツポツと降り始めた雨が、俺を一層いらいらさせた。 裏口から会社に入り、日誌のことで社員と一悶着した後、ふと、来客ルームをのぞいた。ここには、以前の俺のように、仕事のない待機ネコがお客と顔合わせをしている。 「……蔵馬?」 見間違いようもない。 朝から出かけていた蔵馬は、受付のやつと何やら楽しそうに談笑し、手には書類を持っていた。 …契約書。 その青っぽい紙の書類には、見覚えがあった。 新しい契約をしに、ここへ来たのか? 俺は細く開けていたドアをそっと閉め、身を翻して裏口から外へ飛び出した。 会社のやつが、待ちなさいとか何とか叫んでいる声が聞こえたが、知ったことか。 もちろん、多頭飼いをする飼い主も多い。 何匹かのネコと契約したいと蔵馬が望むのは自由だ。 好きなだけネコを飼って、ネコ屋敷にするがいい。 ***
「ただいまー」しとしと降っていた雨はどこへやら、すっかり晴れた窓の外は、綺麗な夕暮れだった。 にゃあと言うのも面倒で、俺は寝たふりをする。 「ただいま、飛影」 頭や耳を撫でられて、俺はしょうがなく起きる。 「ずいぶん、大荷物だな」 蔵馬は山ほどの紙袋を抱えていて、よいしょ、とそれをテーブルの上に置く。 …新しいネコへの、プレゼントだろうか? 「夕ご飯、何食べたい?何でも好きなの作るよ」 「……?」 袋から次々出された物は全部、食べ物ばかりだった。 野菜や魚介類、果物やケーキ、ワインやジュース。 「…なんでこんなに山ほど買ってきたんだ?」 「だって、今日はお祝いだから」 にこにこして、蔵馬は言う。 反対に、元々良くなかった俺の機嫌は急降下だ。 「祝い?」 「そう。何がいい?」 「別に俺は祝いたい気分じゃないが」 「え?」 そんなこと言うつもりじゃなかったのに。 まるでこれじゃあ、俺が新しいネコに嫉妬しているみたいじゃないか。 蔵馬が目を丸くする。 「…嫌なの?」 「……お前の勝手にすればいい。俺には関係ない」 「でも…君は了解してるって、会社の人が…」 「了解?」 蔵馬はポケットから出した青い紙を開き、俺に渡す。 さっき見た、契約書だ。 それは俺の持っている契約書とほとんど同じ書式だが、一番上に、正式契約書、と印字されている。 「正式契約…?」 「うん。100日は試用期間だっていうのは分かってたんだけど…」 どうしても、早く正式に君と契約したくって。 会社の人に聞きに行ったら、君もそうしたいって言ってた、って言うし… 「……?」 その正式契約書には、俺のサインも確かに書かれている。 もちろん俺は書いた覚えはない。会社のやつらが勝手に書いたのだろう。 「俺は…」 書いてない、と言おうとしたが、蔵馬が心底がっかりした様子なのを見たら、言葉が喉に引っかかってしまった。 「…俺は…別に……構わん」 「え?」 蔵馬がパッと顔を上げる。 「…正式契約…しても、いい」 「本当に!?」 「ああ…。うにゃっ!!」 またもや、俺は高く抱き上げられたまま、くるっと一回転した。 ***
食べきれるはずもない量の料理を作る蔵馬の側で、俺はそれをつまみ食いしながら、ふと思い出した。“なお、最初の100日を試用期間と定める。契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合は、試用期間内に限り契約を無効とする” 契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合…? …俺の意思はどうなってるんだ。 あのインチキ会社め。 こら、という蔵馬の笑いを含んだ制止を無視し、俺は二匹目のエビを口に放り込む。 窓辺に座り込み、外を眺めながら咀嚼する。 エビは美味かったし、雨上がりの夕暮れの庭は、木々に、花や草に、至る所に水滴がキラキラしていた。 48日目。 どうやら俺は蔵馬の“正式契約ネコ”になったらしい。 |