くろねこライフ...5

46日目

「にゃーんっ!」

チャイムの音の後に聞こえた声。
その声に俺はパッと起き上がる。

「あれ?ネコだ。誰だろう?」

俺はその声に嬉しさを隠せず、蔵馬の後を追って玄関へ向かう。

「こんにちは!」

白くて短い、ふわふわのしっぽを振りながら立っている雪菜。
相変わらず、大きなサファイアのついた首輪をしている。

「こんにちは…飛影、お友達?」
「…妹」

俺はぶっきらぼうに答えたが、久しぶりに会えた嬉しさで、思わずしっぽをぱたぱた振ってしまう。

「妹!? こんなかわいい妹がいるなんて言わなかったじゃない」

どうぞどうぞ、と蔵馬は入ってと促す。

「おっじゃましまーす」

相変わらず妹は、屈託がなく、陽気だ。
靴をぽいっと脱ぎ捨ててスタスタと家の中に入り、ソファにぽふっと座る。

ー兄さん久しぶり
ーああ
ー久しぶりに会社に行ったら、兄さん契約されたっていうし
ーここで、雇われてる
ーですってね。びっくりしちゃった。続いてるみたいだけど、楽しい?
ー楽しい…?
ーちゃんとかわいがられてる?
ーよくわからん…
ーふーん。結構お金持ちそうじゃない
ーさあ?そうなのか?
ーそうよ。すごくいい首輪してるじゃない。この家の内装も家具も悪くないもん
ー俺にはよくわからん

俺たちはネコ語でそんな会話を交わす。
蔵馬の耳には、ただニャアニャアという声が聞こえるだけだろう。

「俺も仲間に入れてよ~」

そう言いながら、蔵馬は俺たちを交互に眺める。

「俺は蔵馬です。君は?」
「雪菜!」

雪菜は人語で威勢よく答えて、しっぽを振る。

「雪菜ちゃん。何飲む?」
「ミルク!冷たいのがいい。蜂蜜ある?あるなら入れてね」
「あるよ。お菓子は?」
「いるっ」

オッケー、ちょっと待ってね、と笑いながら蔵馬はキッチンへ行ってしまう。

ーそうだ。お給料貰いに行った?手続きに来ないって会社の人がぶうぶう言ってたけど
ーああ。行った
ーまったくもう。お金のこと忘れちゃうなんて
ー別に金を使う用もないし…何か買ってやろうか?
ー何言ってんの…!?

雪菜は、サファイアと同じ、蒼い色の目を丸くする。

ー私たちは契約ネコなのよ?
ーそうだな…?
ー契約がいつ切られるかはわからないのよ。それに備えてお金は貯めなくちゃ
ーでも…長期って…
ー長期の場合も、最初の100日は試用期間よ。契約書に書いてあったでしょ?

試用期間?
そんなこと書いてあっただろうか?

ざっとしか契約書を読んでいない俺は、返答に詰まる。
リビングに戻ってくる足音がし、俺たちはネコ語での会話を止める。

「お待たせ。雪菜ちゃんの好きな物あるといいんだけど」

ビスケットの缶やチョコレートの木箱、冷蔵庫にあったプリンやチーズ、果物。
蔵馬が次々並べるそれらを、雪菜は嬉しそうに見ている。

自分の好きな物だけを選び、雪菜はさっそく冷たいミルクと一緒に食べ始めた。
食べながらも落ちつきなく、部屋中をくるくる回っては、家主に断わりもせずに、棚や机を引っかき回す。

「わあ。綺麗…」

雪菜の開けた箱は以前に蔵馬が俺にくれた物が入っている箱で、ガラスの地球儀や、綺麗な鈴に雪菜は目を輝かす。
お気に召さなかったらしい絵本やボールは、後ろに放り投げた。それはいかにもネコらしい。

綺麗な鈴を鳴らしては笑う雪菜は、自分の妹ながらとてもかわいかった。

ふと、どうして蔵馬は俺を雇ったんだろう、と疑問が湧いてくる。

生活の役に立つことを望むなら、犬と人間との混合種のイヌ族を雇えばいい。あいつらは、買い物や届け物も得意だし、留守番や家事もこなせる。番犬にもなる。

ネコ族は、あまり役には立たない。
ただ、かわいがられるだけなのだ。

…ネコなんて、いっぱいいるのに。
雪菜のように、かわいいネコがいるのに。

鈴の音にうっとりしている雪菜を、蔵馬はごく自然に撫でていた。
***
47日目

昨日、雪菜は好きな物を食べ、家中を引っかき回して遊んだ後、夕方になると現在の雇い主だとかいう女社長の家に帰って行った。
変わった女だが、美人で、今までで一番気の合う雇い主だと言う。鈴と地球儀は、気に入ったからと持って帰ってしまった。
兄さんも遊びに来てね、と、その女社長の家の地図を置いて。

「…飛影、飛影!」

こぼしてるよ、と胸元をタオルで拭かれるまで、自分がスープをぼたぼたこぼしていることに気付かなかった。

「どうしたの?なんだか元気ないね?」
「…別に」

それは早めの昼食で、ブイヤベース、とかいうスープは赤くて、白い服を着ていた俺はずいぶんみっともない有り様だった。

「俺、今日の午後と明日は出かけるんだけど、大丈夫?」
「大丈夫に決まってるだろ」

なぜか今日は、トゲのある言い方になってしまう。

ー甘えて、気ままに振る舞って、振り回してやればいいのよ…
ーちゃんとかわいがられてる?…
ー契約がいつ切られるかはわからないのよ…

雪菜の言葉を思い出す。
出かけないで、家にいて、撫でていて欲しいとか?

…別にそんなこと、望んでいない。

昨夜確認した契約書には、雪菜の言う通り、長期契約希望の場合でも最初の100日は試用期間だと記されていた。

“なお、最初の100日を試用期間と定める。契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合は、試用期間内に限り契約を無効とする”

小さな文字で書かれた、だらだらと続く文面の中にそれはちゃんと書いてあった。まあ、長期であろうが、試用期間で契約を解除されようが知ったことではない。俺にとってはどうでもいいことだ。

「さっさと出かければいいだろ」

汚れた服のまま、俺は定位置であるクッションソファに丸くなる。
行ってくるね、蔵馬はもう一度心配そうに俺を振り返り、出て行った。

外はしとしと雨降りで、散歩日和とは言い難い。
こんな日は、蔵馬と一緒にソファで昼寝をしたかったのに。

一瞬そんな馬鹿げた気分になったのは、気の迷いだ。
***
48日目

蔵馬は朝から出かけていて、俺には会社からまたもや手紙がきた。

中身は日誌の提出がないという小言だ。
日誌をつけること、それを十日置きに郵送すること、など、俺はすっかり忘れてた。

一日も付けていない日誌など送ってもしょうがないだろう。
面倒だ。書かないと言って返してしまおう。

まだ降ってはいなかったが、今日も湿っぽい曇り空で、耳もしっぽも毛が湿気を含んで、ぺたっと寝ていた。

こんな日の散歩は、楽しくない。

そう言えば、俺はあまり散歩に出なくなっていた。
仕事をしている蔵馬の側で昼寝をしたり、窓の外を眺めて過ごす時間が増えてきていたから。

…なんだかいまいましい。
ポツポツと降り始めた雨が、俺を一層いらいらさせた。

裏口から会社に入り、日誌のことで社員と一悶着した後、ふと、来客ルームをのぞいた。ここには、以前の俺のように、仕事のない待機ネコがお客と顔合わせをしている。

「……蔵馬?」

見間違いようもない。
朝から出かけていた蔵馬は、受付のやつと何やら楽しそうに談笑し、手には書類を持っていた。

…契約書。
その青っぽい紙の書類には、見覚えがあった。

新しい契約をしに、ここへ来たのか?
俺は細く開けていたドアをそっと閉め、身を翻して裏口から外へ飛び出した。
会社のやつが、待ちなさいとか何とか叫んでいる声が聞こえたが、知ったことか。

もちろん、多頭飼いをする飼い主も多い。
何匹かのネコと契約したいと蔵馬が望むのは自由だ。

好きなだけネコを飼って、ネコ屋敷にするがいい。
***
「ただいまー」

しとしと降っていた雨はどこへやら、すっかり晴れた窓の外は、綺麗な夕暮れだった。
にゃあと言うのも面倒で、俺は寝たふりをする。

「ただいま、飛影」

頭や耳を撫でられて、俺はしょうがなく起きる。

「ずいぶん、大荷物だな」

蔵馬は山ほどの紙袋を抱えていて、よいしょ、とそれをテーブルの上に置く。
…新しいネコへの、プレゼントだろうか?

「夕ご飯、何食べたい?何でも好きなの作るよ」
「……?」

袋から次々出された物は全部、食べ物ばかりだった。
野菜や魚介類、果物やケーキ、ワインやジュース。

「…なんでこんなに山ほど買ってきたんだ?」
「だって、今日はお祝いだから」

にこにこして、蔵馬は言う。
反対に、元々良くなかった俺の機嫌は急降下だ。

「祝い?」
「そう。何がいい?」
「別に俺は祝いたい気分じゃないが」
「え?」

そんなこと言うつもりじゃなかったのに。
まるでこれじゃあ、俺が新しいネコに嫉妬しているみたいじゃないか。

蔵馬が目を丸くする。

「…嫌なの?」
「……お前の勝手にすればいい。俺には関係ない」
「でも…君は了解してるって、会社の人が…」
「了解?」

蔵馬はポケットから出した青い紙を開き、俺に渡す。
さっき見た、契約書だ。

それは俺の持っている契約書とほとんど同じ書式だが、一番上に、正式契約書、と印字されている。

「正式契約…?」
「うん。100日は試用期間だっていうのは分かってたんだけど…」

どうしても、早く正式に君と契約したくって。
会社の人に聞きに行ったら、君もそうしたいって言ってた、って言うし…

「……?」

その正式契約書には、俺のサインも確かに書かれている。
もちろん俺は書いた覚えはない。会社のやつらが勝手に書いたのだろう。

「俺は…」

書いてない、と言おうとしたが、蔵馬が心底がっかりした様子なのを見たら、言葉が喉に引っかかってしまった。

「…俺は…別に……構わん」
「え?」

蔵馬がパッと顔を上げる。

「…正式契約…しても、いい」
「本当に!?」
「ああ…。うにゃっ!!」

またもや、俺は高く抱き上げられたまま、くるっと一回転した。
***
食べきれるはずもない量の料理を作る蔵馬の側で、俺はそれをつまみ食いしながら、ふと思い出した。

“なお、最初の100日を試用期間と定める。契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合は、試用期間内に限り契約を無効とする”

契約者または契約ネコが契約の解除を望んだ場合…?

…俺の意思はどうなってるんだ。
あのインチキ会社め。

こら、という蔵馬の笑いを含んだ制止を無視し、俺は二匹目のエビを口に放り込む。

窓辺に座り込み、外を眺めながら咀嚼する。
エビは美味かったし、雨上がりの夕暮れの庭は、木々に、花や草に、至る所に水滴がキラキラしていた。

48日目。
どうやら俺は蔵馬の“正式契約ネコ”になったらしい。
前のページへ次のページへ